挫折から立ち直るべく、全女の松永会長に会いに行き頭を下げて出戻りさせてもらった高橋選手。
代落ちして(翌年オーディションに受かった選手たちと一緒に)やり直したものの、さすがに出戻りの彼女に対して先輩の態度は厳しかったそうです。
ミド編)デビューまで紆余曲折の道でした、でも若くして随分一本気なところがあったのですね!
代落ちして(翌年オーディションに受かった選手たちと一緒に)やり直したものの、さすがに出戻りの彼女に対して先輩の態度は厳しかったそうです。
ミド編)デビューまで紆余曲折の道でした、でも若くして随分一本気なところがあったのですね!
若い頃の方がよりそうでしたね(笑)
今は色々と悩んでしまいます。
ミド編)いまはプロレス団体「SEAdLINNNG」社長としてのお立場や役割もおありですしね。
プロテスト後の紆余曲折はあったものの、若干17歳にしての全女マットデビューでした。
プロテスト後の紆余曲折はあったものの、若干17歳にしての全女マットデビューでした。
全女時代、プロレスラーとしての責任感
ミド編)プロレスラーになるまでの強い意志や現在のお立場などから、昔から強い責任感をお持ちなのだと感じてしまいます。入門後の挫折も意外に思いました。
実は自分は結構な“辞めたがり”で。
全女は、自分が入って2年目の時に“事実上の倒産”になってました。まだ10代でよくわかっていなかったので「会社もあるし興行も続いてるし、何が違うの!?別に平気じゃん」って感じでしたけど、実際には先輩達に給料が支払われなかったり、大量離脱があったりその後も徐々に人が減っていってました。
2003年に横浜アリーナで全女創立35周年記念大会があって、その大会でいよいよ堀田祐美子さんが全女を辞めるとなった時に自分も不安になりました。自分は堀田さんに憧れて全女に入ってましたから。
その大会は同期の中西百重がメイン試合で、納見佳容がセミファイナルでした。2人はベルトに絡んでいるのに自分は全然ベルトにも絡めず、6人タッグで私が負けてしまって。“自分は何をやってるんだろう”ってなってしまって、試合後バックステージで「もう辞めます」って言ってしまったんです。
自分でもすごいワガママな人だったと思うんですけど。次の日には『高橋、引退!』とメディアに出てしまいました。
自分としてはそんなつもりでもなかったのに大々的に扱われてしまって、ファンの方を泣かせてしまったり心配させてしまったり、自分自身も引退撤回の会見をすることになったり、自分の発言に少なからず影響力があるということをその時初めて思い知りました。
信頼を失ってしまった自分が信頼を取り戻すには試合を頑張るしかなくて。そのあたりから責任感というものが身についてきたと思います。
2004年、全女最強の象徴「赤いベルト」(WWWA世界シングル王座)を戴冠!
2004年、ついに全女最強の象徴「赤いベルト」を戴冠した高橋選手。
ところがその栄冠の代償か、右膝のじん帯断裂という大ケガをしてしまうことに…。
ところがその栄冠の代償か、右膝のじん帯断裂という大ケガをしてしまうことに…。
ベルト返上、手術からリハビリの間に全日本女子プロレスが解散…
結局、2005年はほとんどリハビリに費やしたという高橋選手。
でもここから彼女のプロレス人生は、更にそのフィールドを拡げていくこととなります。
でもここから彼女のプロレス人生は、更にそのフィールドを拡げていくこととなります。
フリーも経験しながら2度のプロレス団体旗揚げに参画
2006年、プロレス団体「プロレスリングSUN」旗揚げ
初めて団体の代表になって…
代表とはいっても選手代表であって経営はしていませんでしたが、責任ある立場になって色々勉強になりました。今思えば全然大事なことはわからないまま代表をやっていたんですが。
ここが転機というか、ある意味はじまりだと思います。プロレスのスタイルもアメリカのプロレスを学びました。全女スタイルから外人を相手に戦うスタイルへ、プロレスの幅が広がるきっかけになりました。
全女はよくも悪くも看板を背負っているというプライドが高かったんですが、もうその全女はないので、全女で染みついたプロレスをぶっ壊す必要もありました。なかなかできなくて悔しくて陰で泣いたりもしましたが、その悔しさをバネに努力できる自分を発見したり、結果ぶっ壊すことのできる自分にも出会えました。
この頃、日高郁人選手にコーチしてもらってキックの練習をするようにもなりました。今でこそラウェイにも出るようになりましたけど、はじまりはこのあたりからなんです。
「全女」という看板を背負って闘ってきたが故、新たなスタイルを確立する苦悩。
新団体の「顔」である一方、闘いの幅を拡げるための努力。
この後、フリーを経て2011年にプロレス団体「スターダム」旗揚げに参画した高橋選手は同年、自身のデビュー15周年記念大会で「初代ワールド・オブ・スターダム王座」(通称「赤いベルト」)を戴冠。
2015年には同団体を退団し、自身が代表取締役社長を務めるプロレス団体「SEAdLINNNG」を設立します。
新団体の「顔」である一方、闘いの幅を拡げるための努力。
この後、フリーを経て2011年にプロレス団体「スターダム」旗揚げに参画した高橋選手は同年、自身のデビュー15周年記念大会で「初代ワールド・オブ・スターダム王座」(通称「赤いベルト」)を戴冠。
2015年には同団体を退団し、自身が代表取締役社長を務めるプロレス団体「SEAdLINNNG」を設立します。
2015年、プロレス団体「SEAdLINNNG」設立、代表取締役社長に就任
ミド編)2015年にSEAdLINNNG立ち上げておよそ2年間が過ぎましたが、これまでの団体経営を振り返っていかがでしょうか?
まだ何が一番正しいのかを探りつつやっている感じ、常に試行錯誤ですよ。
自分一人では絶対にできないので、南月(SEAdLINNNG取締役専務、南月たいよう)にガッチリサポートしてもらっています。
また周囲の経営者に教えてもらったり、助けてもらったり…まわりの人の有難みを知りました。毎日本当に感謝しています。
経営者としてはまだまだだし、甘い部分もいっぱいありますが、自分なりのスタイルを見つけていきたいです。その中には“女性しかいない”ところも武器になればいいなと思っています。
社長兼レスラーになってから、とにかく時間は足りなくなりましたね。レスラーとしてももちろん手を抜く気はないので、練習時間はしっかり確保するようにしていますが、“時は金なり”というのを本当に実感しています。
プロレスがどんどん好きになっています!
ミド編)団体経営を始めてから更にプロレスを楽しんでいらっしゃるように見えます。
その入院をしている間に全女が解散すると決まり、帰るところがなくなりました。その解散の大会は自分は試合に出られなくて、本当に悔しい思いをしました。でも、あの時もし試合に出ることが出来て悔しい思いを残していなかったら、全女で自分のプロレス人生は終わっていたかもしれないので…これも運命だったのかもしれません。