2017年8月7日 更新

中3のとき”舞い降りた”プロレスラーへの道!全女最後のレスラー高橋奈七永はいま、プロレス団体SEAdLINNNG代表!!

「全女最後のレスラー」高橋奈七永。2005年の全日本女子プロレス解散時、全女最強の象徴”赤いベルト”王者だった彼女はその後も女子プロレス道を突き進みます。現在はプロレス団体「SEAdLINNNG」の社長として日々奮闘する一方、”地上最も過激な格闘技”「ラウェイ」にも参戦するなど、その闘いのフィールドは止まるところを知りません!

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かつて錚々たるプロレスラーが活躍したプロレス団体「全日本女子プロレス」。

古くはマッハ文朱、ビューティ・ペア、ジャガー横田にクラッシュ・ギャルズ。
ブル中野に北斗晶、アジャ・コングと、数え上げればキリがないその歴史において、2005年の団体解散時まで在籍し、同団体最強の象徴だった「赤いベルト(WWWA世界ヘビー級王座)」最後の王者だった高橋奈七永選手。

全女の団体解散後も女子プロレス道を一心に突き進んでプロレスを表現し続ける高橋選手は、現在プロレス団体「SEAdLINNNG」社長を務めながらもトップレスラーとして活躍。
さらには”地上最も過激な格闘技”と呼ばれる「ラウェイ」に闘いの場を求めるなど、そのバトルフィールドは広がるばかり。

ミドルエッジ編集部(ミド編)は、そんな高橋奈七永選手に取材の機会を頂戴しました。
幼き頃のプロレスとの出会いからプロレス団体の社長になるまで。高橋選手の半生をどうぞご覧下さい。

プロレスとの出会いは「2回」

ミド編)1978年生まれの高橋選手ですが、プロレスとの出会いはいつ頃だったでしょう。
やはり80年代、女子プロレスの激闘をテレビなどでご覧になっていらっしゃいましたか?
幼いころはまったくプロレスに興味がなかったと話す高橋選手

幼いころはまったくプロレスに興味がなかったと話す高橋選手

いえ、子供の頃はプロレスに全然興味が無かったので、プロレスのことは正直よく知らなかったんです。
テレビといえば「ドラえもん」や「ドラゴンボール」などのアニメ、あと「魔法のスターマジカルエミ」などの“魔法少女シリーズ”が好きでよく見ていましたよ。
子供時代は母子家庭に育ち、一人で過ごす時間が多かったという高橋選手。
「”カギっ子”だったんです」と明るく話す彼女が小学生時代に打ち込んだものは…「勉強」!
小学校低学年の頃はおばあちゃんの家に行ったりしてましたが、高学年になると暇を持て余すようになりました。もちろん友達と遊んだりもしますが、そうじゃない時は家でテレビゲームをするくらいしかやることがなくて。

それで、近くにある塾に行くことにしたんですけど、その塾が“超進学塾”でした!でも入ったからにはやらないと、と思って自然と私立中学校を目指すようになりました。

今思えば、母子家庭なので学費は大変だったはずなんですが、母親は何も言わずに自分が進む道を応援してくれたんです。
勉強を頑張って私立中学に進学した高橋選手。
中学校では全国区の強豪だったバレー部にマネージャーとして入部し、中学生活は部活一色だったそうです。

小学生の頃は勉強、中学生になってからは部活と、忙しくも厳しい環境に身を置くのが好きな性分だったのかも、とご自身を振り返ります。

プロレスとの最初の出会いは「髪切りマッチ」!?

中学2年生の時、夏休みにテレビを見ていてなんとなく合わせたチャンネルの“女子プロレス”にクギづけになってしまったんです。

放送されていたのは山田敏代さんと豊田真奈美さんの“敗者髪切りマッチ”だったんですけど、敗れた山田敏代さんが頭をボウズに刈られる姿が異様過ぎて…でも“勝負に敗れたから”と堂々と髪を切られる姿が「潔くてカッコイイ!」と思いました。

そこからプロレスに興味を持ち始めて、母親が愛読していた「週刊プロレス」が家にあったので読み漁ったりして。

プロレスに興味が無かった頃の私は「プロレス=大仁田厚さんの“流血”」といった怖いイメージが強くて、テーブルの上に「週刊プロレス」が置いてあったりすると「テーブルの上に置かないでよ!」なんて母親に文句言ったりしてたんですが、いざ興味を持ちはじめたら「コレで調べられる!」って読みまくりました(笑)
90年代はバラエティ番組「ラスタとんねるず'94」に豊田真奈美選手や井上貴子選手らが登場していたのも懐かしい思い出ですよね。

ただ、高橋選手とプロレスの1回目の出会いは「髪切りマッチ」だったのです。

そして2回目の出会いは…中学3年生の12月26日に舞い降りてきた!!

プロレスに興味を抱くようになってから1年間はただのプロレスファンだったんですけど…中学3年生の12月26日にふっと舞い降りてきたんです、「プロレスラーになろう!」って。

それは山田敏代さんと豊田真奈美さんのCDを聞いていた時です。はっきり日付も覚えています(笑)
プロレスファンになってから1年を経て「舞い降りてくる」経験をした高橋選手。
この日を境に「プロレスラーになる」スイッチが入ったんです!

奇しくもこの時のきっかけになったのは、やはり山田敏代選手と豊田真奈美選手でした。

いざプロレスラーへ!

で、次の日から家の近くの荒川の土手を走り始めました。プロレスラーになると決めたらそれしか考えられなくて。
高校にも行かなくて良いと母親に伝えたところ、母親から「プロレスラーは簡単になれるような甘いものじゃないから、高校には行っておきなさい」と説得されて、一応高校に入学はしました。

でも、高校に入ったもののプロレスの事で頭がいっぱいで全然勉強に身が入らなくて。時間がもったいないとしか思えず、結局1学期だけで高校は辞めてしまいました。スゴく(お金が)もったいなかったですよね。

高校を辞めてからは、ひたすらトレーニングをしました。プロレス好きの母親はプロレスラーになることの厳しさをわかっていたので、まず母親に認めてもらおうと時間のある時はずっとトレーニングしていました。

母親もそんな私を見ていて認めざる得なかったのか、自分のために「アニマル浜口ジム」を探してきてくれました。そして、浜口ジムに入門して本格的にトレーニングを始めました。
ミド編)お母様の全面的なサポート、とても有り難い環境だったんですね。
しかしいきなりの浜口ジム!まさに駆け抜けるようにしてプロレスラーへの道を突き進んでいかれます。
浜口ジムで約1年トレーニングして、1995年に全女のオーディションに合格しました。受かるとまずは練習生になって、2~3ヶ月トレーニングしたらプロテストを受けました。このプロテストに合格しないとデビューできないので。

結果、このプロテストには合格したんですけど、受かると一気に雑用に追われるようになりました。練習もままならないほどに。当時の全日本女子プロレスは試合数が多く、とにかく雑用が多くて頭がおかしくなってしまって・・・逃げ出してしまいました。それも一度だけでなく何度も逃亡してしまって・・・結局全日本女子プロレスを辞めてしまったんです。

ミド編)「え!?辞めたんですか??」

勉強、部活、そしてプロレス。
どの道もご自身で選び、強い意志で向き合ってきた高橋選手。

そんな強い気持ちで勝ち取った「プロテスト合格」でしたが、まさかの…。
一時期は「引きこもっていた」と話す高橋選手

一時期は「引きこもっていた」と話す高橋選手

はい。あんなに強い気持ちで家を出たはずなのに辞めて家に戻ってしまったので、母親に会わせる顔がなかったです。母親が食事を作って置いてくれてたんですけど、母親がいない隙に自分の部屋から出て食べたり顔を会わさないようにしてました。引きこもりみたいな感じになってました。

暫くそんな生活を続けたんですが、「このままではいけない」と思って、とりあえずバイトを始めました。そのバイト先の人がみんな良い人ばかりで、プロレス好きな人も中にはいましたし、バイトしているうちに自分の気持ちも段々前向きになってきました。
挫折から立ち直るべく、全女の松永会長に会いに行き頭を下げて出戻りさせてもらった高橋選手。
代落ちして(翌年オーディションに受かった選手たちと一緒に)やり直したものの、さすがに出戻りの彼女に対して先輩の態度は厳しかったそうです。

ミド編)デビューまで紆余曲折の道でした、でも若くして随分一本気なところがあったのですね!
若い頃の方がよりそうでしたね(笑)
今は色々と悩んでしまいます。
ミド編)いまはプロレス団体「SEAdLINNNG」社長としてのお立場や役割もおありですしね。

プロテスト後の紆余曲折はあったものの、若干17歳にしての全女マットデビューでした。

全女時代、プロレスラーとしての責任感

ミド編)プロレスラーになるまでの強い意志や現在のお立場などから、昔から強い責任感をお持ちなのだと感じてしまいます。入門後の挫折も意外に思いました。
実は自分は結構な“辞めたがり”で。

全女は、自分が入って2年目の時に“事実上の倒産”になってました。まだ10代でよくわかっていなかったので「会社もあるし興行も続いてるし、何が違うの!?別に平気じゃん」って感じでしたけど、実際には先輩達に給料が支払われなかったり、大量離脱があったりその後も徐々に人が減っていってました。

2003年に横浜アリーナで全女創立35周年記念大会があって、その大会でいよいよ堀田祐美子さんが全女を辞めるとなった時に自分も不安になりました。自分は堀田さんに憧れて全女に入ってましたから。

その大会は同期の中西百重がメイン試合で、納見佳容がセミファイナルでした。2人はベルトに絡んでいるのに自分は全然ベルトにも絡めず、6人タッグで私が負けてしまって。“自分は何をやってるんだろう”ってなってしまって、試合後バックステージで「もう辞めます」って言ってしまったんです。

自分でもすごいワガママな人だったと思うんですけど。次の日には『高橋、引退!』とメディアに出てしまいました。

自分としてはそんなつもりでもなかったのに大々的に扱われてしまって、ファンの方を泣かせてしまったり心配させてしまったり、自分自身も引退撤回の会見をすることになったり、自分の発言に少なからず影響力があるということをその時初めて思い知りました。

信頼を失ってしまった自分が信頼を取り戻すには試合を頑張るしかなくて。そのあたりから責任感というものが身についてきたと思います。

2004年、全女最強の象徴「赤いベルト」(WWWA世界シングル王座)を戴冠!

2004年、ついに全女最強の象徴「赤いベルト」を戴冠した高橋選手。
ところがその栄冠の代償か、右膝のじん帯断裂という大ケガをしてしまうことに…。

ベルト返上、手術からリハビリの間に全日本女子プロレスが解散…

「あの時の悔しい思いがあったからプロレスを続けたのかも...

「あの時の悔しい思いがあったからプロレスを続けたのかもしれない。」

2004年の年末に「赤いベルト」を巻いたんですが、その試合がきっかけで右膝のじん帯断裂という大ケガをしてしまいました。負傷のためその年の12月29日にベルトを返上後、2005年の年明けすぐに中西百重の引退相手の相手を務めて、すぐ手術をしました。

その入院をしている間に全女が解散すると決まり、帰るところがなくなりました。その解散の大会は自分は試合に出られなくて、本当に悔しい思いをしました。でも、あの時もし試合に出ることが出来て悔しい思いを残していなかったら、全女で自分のプロレス人生は終わっていたかもしれないので…これも運命だったのかもしれません。
結局、2005年はほとんどリハビリに費やしたという高橋選手。
でもここから彼女のプロレス人生は、更にそのフィールドを拡げていくこととなります。

フリーも経験しながら2度のプロレス団体旗揚げに参画

2006年、プロレス団体「プロレスリングSUN」旗揚げ

初めて団体の代表になって…
代表とはいっても選手代表であって経営はしていませんでしたが、責任ある立場になって色々勉強になりました。今思えば全然大事なことはわからないまま代表をやっていたんですが。

ここが転機というか、ある意味はじまりだと思います。プロレスのスタイルもアメリカのプロレスを学びました。全女スタイルから外人を相手に戦うスタイルへ、プロレスの幅が広がるきっかけになりました。

全女はよくも悪くも看板を背負っているというプライドが高かったんですが、もうその全女はないので、全女で染みついたプロレスをぶっ壊す必要もありました。なかなかできなくて悔しくて陰で泣いたりもしましたが、その悔しさをバネに努力できる自分を発見したり、結果ぶっ壊すことのできる自分にも出会えました。

この頃、日高郁人選手にコーチしてもらってキックの練習をするようにもなりました。今でこそラウェイにも出るようになりましたけど、はじまりはこのあたりからなんです。
「全女」という看板を背負って闘ってきたが故、新たなスタイルを確立する苦悩。
新団体の「顔」である一方、闘いの幅を拡げるための努力。

この後、フリーを経て2011年にプロレス団体「スターダム」旗揚げに参画した高橋選手は同年、自身のデビュー15周年記念大会で「初代ワールド・オブ・スターダム王座」(通称「赤いベルト」)を戴冠。

2015年には同団体を退団し、自身が代表取締役社長を務めるプロレス団体「SEAdLINNNG」を設立します。

2015年、プロレス団体「SEAdLINNNG」設立、代表取締役社長に就任

ミド編)2015年にSEAdLINNNG立ち上げておよそ2年間が過ぎましたが、これまでの団体経営を振り返っていかがでしょうか?
まだ何が一番正しいのかを探りつつやっている感じ、常に試行錯誤ですよ。
自分一人では絶対にできないので、南月(SEAdLINNNG取締役専務、南月たいよう)にガッチリサポートしてもらっています。

また周囲の経営者に教えてもらったり、助けてもらったり…まわりの人の有難みを知りました。毎日本当に感謝しています。

経営者としてはまだまだだし、甘い部分もいっぱいありますが、自分なりのスタイルを見つけていきたいです。その中には“女性しかいない”ところも武器になればいいなと思っています。

社長兼レスラーになってから、とにかく時間は足りなくなりましたね。レスラーとしてももちろん手を抜く気はないので、練習時間はしっかり確保するようにしていますが、“時は金なり”というのを本当に実感しています。

プロレスがどんどん好きになっています!

ミド編)団体経営を始めてから更にプロレスを楽しんでいらっしゃるように見えます。
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