広島の4番として2度の本塁打王を獲った男、江藤智
江藤智の獲得タイトル・主な表彰と記録
打点王:1回(1995年)
最高出塁率:1回(1996年)
最多勝利打点:1回(2000年)
ベストナイン:7回(1993年 - 1996年、1998年、2000年、2001年)
ゴールデングラブ賞:1回(1996年)
江藤智のプレースタイルは・・・
守備は、本来捕手の選手であり、あまり得意ではない。まさに打撃のみの選手である。
江藤智の生い立ちからプロに入るまでの軌跡
広島に捕手として入団後、球界を代表するスラッガーへ
広島カープには、不動の正捕手「達川光男」がいる。なかなか達川を超えることが出来ないことと、肩を故障したということもあって、打撃のセンスが光る江藤智を、内野手へと転向させた。
7番スタメンでの出場を果たし、2ケタの本塁打を放つが、打率が2割ちょっとという打率に、なかなかレギュラー定着するまでにはならなかった。
この時代に、山本、衣笠のような和製大砲がなかなか出なかった広島に、大砲の希望が差し込む。レギュラー定着になるのは、1993年で、その年に、初めて、全試合出場を果たす。
それから、打率も3割を超え、1995年のシーズンには40本塁打に1本届かない39本塁打を放つ結果となる。
1998 江藤 智 全盛期 脅威の3連発8打点!! ホームラン 広島 東洋 カープ - YouTube
1試合10打点と、4番としての強さを身につけてきた江藤であるが、FA権を行使し、横浜ベイスターズへの入団かと思われたが、巨人への入団が決まり、当時の33番長嶋茂雄から背番号を譲り受けての入団を果たした。
広島ファンの嘆きは、この上ない落胆振りだったことは間違いいありません。熱狂的なファンは裏切られたと語った人もいるほどです。
複雑な心境から巨人へ
2000年、前半戦は不振に悩む高橋由伸に代わり3番打者として活躍、リーグ最多の勝利打点を挙げ(最多勝利打点のタイトル表彰はこの年限りであったため、江藤が最後の受賞者となった)、セ・リーグ優勝と日本一に貢献。特にリーグ優勝を決めた9月24日の中日戦(東京ドーム)では、4点ビハインドで迎えた9回裏に当時の守護神エディ・ギャラードから同点満塁本塁打を放つなど、勝負強さを発揮した。これは2000年巨人の通算200本塁打であった。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでもホームランを放っている。同年はシーズンの打率は.256と低調だったが32本塁打、91打点をマークした。
2001年、移籍後2年連続のベストナイン・30本塁打を記録。スラッガーとして結果を残した。
2002年、2割台前半・本塁打18本とレギュラー定着以降最低の成績に終わり、この年から徐々に成績が低迷。2003年、前年からの不振が続き、11年ぶりに規定打席に到達しなかった。代打での起用も多くなり、2004年には三塁手である小久保裕紀がダイエーから移籍してきたこともあり、スタメン出場は15試合にとどまった。2005年には、打率も2割を切り、スタメン出場は8試合で完全に代打要員となってしまった。
2005年には通算350本塁打にあと1本に迫っていたが、7月30日の対中日12回戦で本塁打性の当たりを放ったものの、天井に当たり左翼フライとなってしまい、通算350号本塁打は幻となってしまい、結局、遂に本塁打を1本も打てなかった。同年オフの契約更改では野球協約の限度である40%を超える減俸となった。その直後、FAで巨人へ移ってきた豊田清の人的補償として西武ライオンズへの移籍が決定。「FA移籍」と「別の選手のFA移籍に伴う人的補償選手として移籍」の両方を経験、プロ野球史上初の選手となった。
チームの心の主軸となりながら、自身の記録、350本塁打、1500本安打、1000打点と節目の記録を西武ライオンズで達成するのである。
身長182cm、体重95kg
右投げ右打ち
ポジション:三塁手、一塁手
広島カープ90年代の4番打者として活躍し続けたスラッガー。2度の本塁打に輝くなど長打力を武器に巨人、西武と渡り歩き通算20年で364本塁打を放った選手である。