日体大
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ケガから生まれた必殺技
大学1年生のとき
山梨国体の準々決勝で背負い投げをかけようとした瞬間
ブチッと音がして右肘に電流が走った
しかし棄権せずにテーピングで固定して試合を続けたが
試合後の診断結果は右肘靱帯損傷
ケガの理由は
自身で背負い投げがいつの間にか力任せになっていたからだとし猛省した
憧れの岡野功の背負い投げを忘れていた
「もう1度背負い投げの基本に戻ってやり直そう」
そう誓った
鏡の前で打ち込み{投げ技の練習}をして
姿勢、腰、肘、手足の指先、目の動きまでチェックした
なぜこの足の位置と形なのか
なぜこの姿勢なのか考え
基本を正確に意識させていった
チョークで足の位置を書いて1人打ち込みにも励んだ
そして自分の体を軸にして相手を巻き込むように回転させる背負い投げが生まれた
山梨国体の準々決勝で背負い投げをかけようとした瞬間
ブチッと音がして右肘に電流が走った
しかし棄権せずにテーピングで固定して試合を続けたが
試合後の診断結果は右肘靱帯損傷
ケガの理由は
自身で背負い投げがいつの間にか力任せになっていたからだとし猛省した
憧れの岡野功の背負い投げを忘れていた
「もう1度背負い投げの基本に戻ってやり直そう」
そう誓った
鏡の前で打ち込み{投げ技の練習}をして
姿勢、腰、肘、手足の指先、目の動きまでチェックした
なぜこの足の位置と形なのか
なぜこの姿勢なのか考え
基本を正確に意識させていった
チョークで足の位置を書いて1人打ち込みにも励んだ
そして自分の体を軸にして相手を巻き込むように回転させる背負い投げが生まれた
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神技
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世界選手権、オリンピックで敗れる
大学2年生のとき
全日本柔道体重別選手権-71kgで優勝した
(このタイトルは6連覇)
しかし同じ年の世界選手権でまさかの3回戦敗退
さらにその翌年の
ソウルオリンピックでも3回戦敗退
このとき日本中が静まり返った
出国するときは
たくさんの人に囲まれ持ち上げられた
負けて帰国すると
多くの人がいなくなり
態度が手のひらを返したように変わった人がたくさんいた
敗戦ショックの加え人間不信に陥った
暗闇の中で古賀は自問自答した
「なぜ負けたのか?」
答えはかんたんに出た
「自分が弱かったからだ」
「だったらどうすればいいのか?」
これもかんたんだった
「もっと強くなれるように練習するだけだ」
また何事もなかったように接してくれる人もいた
敗北を自分のことのように悔しがってくれる人もいた
古賀は応援してくれる人のため
そして自分の誇りをかけて
もう1度戦おうと思った
全日本柔道体重別選手権-71kgで優勝した
(このタイトルは6連覇)
しかし同じ年の世界選手権でまさかの3回戦敗退
さらにその翌年の
ソウルオリンピックでも3回戦敗退
このとき日本中が静まり返った
出国するときは
たくさんの人に囲まれ持ち上げられた
負けて帰国すると
多くの人がいなくなり
態度が手のひらを返したように変わった人がたくさんいた
敗戦ショックの加え人間不信に陥った
暗闇の中で古賀は自問自答した
「なぜ負けたのか?」
答えはかんたんに出た
「自分が弱かったからだ」
「だったらどうすればいいのか?」
これもかんたんだった
「もっと強くなれるように練習するだけだ」
また何事もなかったように接してくれる人もいた
敗北を自分のことのように悔しがってくれる人もいた
古賀は応援してくれる人のため
そして自分の誇りをかけて
もう1度戦おうと思った
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ソウルオリンピック 3回戦敗退
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3度目の世界挑戦
1990年、
古賀稔彦は
ユーゴスラビア・ベオグラードの世界選手権に出場した
1度目の世界選手権、ソウルオリンピックと2度、世界の壁にはじき返され
3度目の世界挑戦だった
準決勝で李選手(北朝鮮)に1本勝ち
決勝では
前回の世界選手権で負けたスウェン選手(アメリカ)を
1本背負いで「効果」を奪い勝った
古賀稔彦は
ユーゴスラビア・ベオグラードの世界選手権に出場した
1度目の世界選手権、ソウルオリンピックと2度、世界の壁にはじき返され
3度目の世界挑戦だった
準決勝で李選手(北朝鮮)に1本勝ち
決勝では
前回の世界選手権で負けたスウェン選手(アメリカ)を
1本背負いで「効果」を奪い勝った
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1989年世界選手権 Mike Swain (USA) - 古賀 稔彦 (JPN)
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無差別級トーナメントに出場
1991年、
古賀稔彦は
無差別級(体重制限なし)で真の日本一の柔道家を決める全日本柔道選手権大会に出場した
理由は日本一の柔道家になるためだった
100㎏超級の猛者が数多く出場する中、71㎏の体でエントリーしたのだ
東京予選を3位で通過し
本戦でも
大木をなぎ倒すように勝ち
決勝に進んだ
相手は重量級の世界チャンピオンである小川直也
両者は技をかけ合いプライドをぶつけ合ったが
最後は古賀の体が宙を舞い畳に叩きつけられた
よくやったと称える声援の中で
古賀は涙をこらえるのに必死だった
古賀稔彦は
無差別級(体重制限なし)で真の日本一の柔道家を決める全日本柔道選手権大会に出場した
理由は日本一の柔道家になるためだった
100㎏超級の猛者が数多く出場する中、71㎏の体でエントリーしたのだ
東京予選を3位で通過し
本戦でも
大木をなぎ倒すように勝ち
決勝に進んだ
相手は重量級の世界チャンピオンである小川直也
両者は技をかけ合いプライドをぶつけ合ったが
最後は古賀の体が宙を舞い畳に叩きつけられた
よくやったと称える声援の中で
古賀は涙をこらえるのに必死だった
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小川 直也 古賀 稔彦
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壮絶!バルセロナオリンピック
バルセロナオリンピック前のニュース動画
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バルセロナオリンピックのドキュメント動画
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1992年、
古賀稔彦は
世界選手権を2連覇
講道館杯と体重別の全日本も連覇した
そして1993年、
スペインのバルセロナオリンピックを迎えた
24歳
2度目のオリンピックだった
7月21日に現地に入り
そして現地での練習初日
古賀は講道学舎の2年後輩で-78㎏級代表、吉田秀彦と練習した
途中、古賀の足が滑り自分と吉田の体重が古賀の左膝にかかった
「ボキッ」
と音がして痛みで倒れこんだ
練習場が畳ではなく滑るマットだったため起こった事故だった
「左膝靱帯損傷」だった
しかも通常なら3週間の安静が必要なほどの重症だった
試合は10日後だった
「5月に左腓骨を痛めていた秀彦が稔彦と稽古したいといってきた
ケガする危険があるから代表同士の乱取り(スパーリング)などありえないけど
吉田のために認めた
ケガをした稔彦も大変だったけど
させた秀彦のショックも大きかった
中学からずっと一緒だからなおさらだよ」
(2人を中学から指導しオリンピックコーチだった吉村和郎)
講道学舎の先輩後輩だった2人は選手村でも同部屋だった
コーチ陣は部屋を別にしようとしたが
吉村は
「別にしてもいいことはない」
と反対した
吉田は歩けない古賀の足となった
自分の練習が終わるとすぐに動けない古賀の部屋にいき
「調子はどうですか」
と聞いた
患部を冷やす氷を取り換え
洗濯をし
食事を運んだ
気分転換にと古賀を自転車に乗せてビーチにも行った
古賀は試合までケガの治療と減量が課題だった
体が動かせない状態で4㎏減量しなければならない
「古賀先輩は減量も大変で
毎日カロリーメイトだけ
それでも絶対に弱気はみせなかった
「大丈夫だから」って
普通じゃないですよ
絶対無理だと思った
練習どころか歩けないんだから」
(吉田秀彦)
そして吉田秀彦はオール1本勝ちで優勝し金メダルを獲得した
「今日の金メダルは半分です
明日、古賀先輩が金メダルを獲って初めてこのメダルが1つになります」
(吉田秀彦、試合後のインタビュー)
そして帰ってきて古賀の部屋に来た吉田は
金メダルのことは一切しゃべらず
古賀の左膝に両手を当てて祈っていた
「1番つらかったのは自分が金メダルを取った夜
試合前日の先輩と顔を合わせるのが嫌でリビングで寝た」
(吉田秀彦)
7月30日
いよいよ試合の日
膝に消炎剤を注射した
医師が注射するとき古賀の手足をコーチが押さえつけた
6か所の注射で
悪くもない場所に注射するとそこの筋肉まで麻痺してしまうからだ
コーチたちは古賀の痛さを紛らわそうと歌を歌った
40を超えた大男たちの歌う歌は不気味だったが
彼らはみんな真剣だった
注射をしてテーピングで固め
ケガをして以来の柔道着に袖を通し
ぶっつけ本番で畳に向かった
古賀は2回戦から登場
開始20秒、巴投げでバルガス選手(エルサルバドル)に1本勝ち
3回戦は
石承勝選手(中国)を右小内刈りで投げ技ありで優勢勝ち
4回戦は
終始攻めてブラハ(ポーランド)に判定勝ち
準決勝は
トッド選手(ドイツ)にケガがうそのように鮮やかな1本背負いを決めて1本勝ち
決勝は
ハイトシュ選手(ハンガリー)に苦戦したが3-0の判定で金メダルを獲得した
帰国後、
吉村が2人を病院に連れていき精密検査を受けさせた
結果
吉田秀彦は腓骨が折れていた
折れた足で全試合1本勝ちで優勝していた
また古賀稔彦は
「普通なら歩けないのに」
とその膝をみて医者はあきれた
そしてさらにいった
「胃に穴が開いています」
強烈なストレスで胃潰瘍になっていた
古賀稔彦は
世界選手権を2連覇
講道館杯と体重別の全日本も連覇した
そして1993年、
スペインのバルセロナオリンピックを迎えた
24歳
2度目のオリンピックだった
7月21日に現地に入り
そして現地での練習初日
古賀は講道学舎の2年後輩で-78㎏級代表、吉田秀彦と練習した
途中、古賀の足が滑り自分と吉田の体重が古賀の左膝にかかった
「ボキッ」
と音がして痛みで倒れこんだ
練習場が畳ではなく滑るマットだったため起こった事故だった
「左膝靱帯損傷」だった
しかも通常なら3週間の安静が必要なほどの重症だった
試合は10日後だった
「5月に左腓骨を痛めていた秀彦が稔彦と稽古したいといってきた
ケガする危険があるから代表同士の乱取り(スパーリング)などありえないけど
吉田のために認めた
ケガをした稔彦も大変だったけど
させた秀彦のショックも大きかった
中学からずっと一緒だからなおさらだよ」
(2人を中学から指導しオリンピックコーチだった吉村和郎)
講道学舎の先輩後輩だった2人は選手村でも同部屋だった
コーチ陣は部屋を別にしようとしたが
吉村は
「別にしてもいいことはない」
と反対した
吉田は歩けない古賀の足となった
自分の練習が終わるとすぐに動けない古賀の部屋にいき
「調子はどうですか」
と聞いた
患部を冷やす氷を取り換え
洗濯をし
食事を運んだ
気分転換にと古賀を自転車に乗せてビーチにも行った
古賀は試合までケガの治療と減量が課題だった
体が動かせない状態で4㎏減量しなければならない
「古賀先輩は減量も大変で
毎日カロリーメイトだけ
それでも絶対に弱気はみせなかった
「大丈夫だから」って
普通じゃないですよ
絶対無理だと思った
練習どころか歩けないんだから」
(吉田秀彦)
そして吉田秀彦はオール1本勝ちで優勝し金メダルを獲得した
「今日の金メダルは半分です
明日、古賀先輩が金メダルを獲って初めてこのメダルが1つになります」
(吉田秀彦、試合後のインタビュー)
そして帰ってきて古賀の部屋に来た吉田は
金メダルのことは一切しゃべらず
古賀の左膝に両手を当てて祈っていた
「1番つらかったのは自分が金メダルを取った夜
試合前日の先輩と顔を合わせるのが嫌でリビングで寝た」
(吉田秀彦)
7月30日
いよいよ試合の日
膝に消炎剤を注射した
医師が注射するとき古賀の手足をコーチが押さえつけた
6か所の注射で
悪くもない場所に注射するとそこの筋肉まで麻痺してしまうからだ
コーチたちは古賀の痛さを紛らわそうと歌を歌った
40を超えた大男たちの歌う歌は不気味だったが
彼らはみんな真剣だった
注射をしてテーピングで固め
ケガをして以来の柔道着に袖を通し
ぶっつけ本番で畳に向かった
古賀は2回戦から登場
開始20秒、巴投げでバルガス選手(エルサルバドル)に1本勝ち
3回戦は
石承勝選手(中国)を右小内刈りで投げ技ありで優勢勝ち
4回戦は
終始攻めてブラハ(ポーランド)に判定勝ち
準決勝は
トッド選手(ドイツ)にケガがうそのように鮮やかな1本背負いを決めて1本勝ち
決勝は
ハイトシュ選手(ハンガリー)に苦戦したが3-0の判定で金メダルを獲得した
帰国後、
吉村が2人を病院に連れていき精密検査を受けさせた
結果
吉田秀彦は腓骨が折れていた
折れた足で全試合1本勝ちで優勝していた
また古賀稔彦は
「普通なら歩けないのに」
とその膝をみて医者はあきれた
そしてさらにいった
「胃に穴が開いています」
強烈なストレスで胃潰瘍になっていた
ディスコ、カラオケ、ボーリング、居酒屋
これまでになかった自由を満喫した
しかしたとえ酒に酔い深夜に帰宅しても
5:30には起きて講道学舎でやっていたのと同じ練習をこなした