バリ強! 田村(谷)亮子
2021年10月26日 更新

バリ強! 田村(谷)亮子

柔道を始めて4ヵ月で男子相手に5人抜き(5連勝) うち2人は病院送り。中3で世界選手権4度優勝のカレン・ブリッグスを28秒で1本勝ち。国際大会初出場初優勝を果たす。

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「とっとーと?(取っているの?)」
「すーすーすー(スースーする)」
「好いとーよ(好きだよ)」
「食べり(食べて)」
「早よ来んね(早く来て)」
「なんしよーと?(何してるの?)」
「ちかっぱ(力いっぱい)」
「バリ(すごく)」
「よか(良い、いい、これでいい?)」
「しゃーしい(うるさい、めんどうくさい、もういい)」
「どげんしたと?(どうしたの?)」
「どげんね?(どうですか?)」
「~やけんね(だからね)」
「~かいな?(~なの?)」
「はらかいとる(機嫌が悪い、拗ねてる)」
「私もかたらして(私も仲間に入れて)」
「よかろうもん(いいでしょ)」
「しとろうもん(してるでしょ)」
「あったろうもん(あったでしょ)」
「寒かろうもん(寒いでしょ)」
田村(谷)亮子はかわいい博多弁が飛び交う福岡県福岡市生まれ。
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「面白そう!」
小2のとき見学にいった柔道教室でそう思って入門を決めた。
たくさんの優勝旗が飾ってあり、100人以上が練習する中でしゃべったり笑っている人は人間は1人もいない。
そんな「東福岡柔道教室」は、福岡県警の機動隊にいた稲田明が27歳のときに開き、数年後には全国大会に出るようになった道場。
稲田明は体が小さな田村亮子に相手の下にもぐり込むような背負い投げを教えた。
すると面白いように人間を投げることができ、田村亮子は柔道に夢中になった。
ケガをしていても、体調が悪くても、天気が悪くても、誰より早く道場にいき、掃除したり、ゴムチューブを引いたりして練習が始まるのを待った。
練習中も絶対に手を抜かず、小学生の部が終わった後も居残りし高校生や大人たちと夜10時半まで練習した。
城浜小学校では、ムツコウ(富安陸子)とリサコウ(小林理砂)という仲良しがいたが、休み時間になるとタムコウ(田村亮子)は彼女たちに足払いを見舞い、体育の授業でマットが使用されると目を輝かせ、背負い投げで転がした。
母:和代はたくさんの人が練習する道場の中で体が小さな娘をみつける目印として、また
「ちょっとでも女の子らしく、かわいらしくみせたい」
という思いから赤いゴムを髪につけた。
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毎年、櫛田神社では「博多おくんち」という祭りがあり、その中で境内で奉納柔道大会が行われていて、柔道を始めて4ヵ月の田村亮子も参加。
「亮子、5人勝てれば、アレがもらえるとよ」
稲田明にいわれ、目は台の上に置かれた金メダルに釘づけになった。
(ヨシッ、あれをもらって帰ろう)
そして5人抜き(5連勝)を達成。
相手はすべて男子、すべて覚えたての背負い投げによる1本勝ちだった。
5人のうち2人は脳振盪を起こし病院送り、5人目は90kgはありそうな大きな子だった。
こうして最初に手に入れたメダルは金メダルだった。
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小学6年生のとき、田村亮子は東福岡柔道教室チームの先鋒として全国少年錬成大会の団体戦に出場。
残る4人は男子だったが女の子の先鋒が勝っているのに負けるわけにいかず、必死で戦い、チームは優勝した。
田村亮子は他の道場に出稽古にいっていたが、そこでも男子を投げまくり
「道場破りだ」
といわれ、体も大きく年も上なのに投げられてしまいショックで柔道を辞めた男子もいた。
ある意味、男子にとって脅威の存在だった。
田村亮子より年下で男子としては小柄だった坂井秀行は、東福岡柔道教室でよく打ち込みや投げ込みの相手を務め、100本以上投げられることもあった。
練習を休もうとしても、仲間から
「亮子ちゃん、来とるとよ」
と電話がかかってくると急いで道場に走った。
夏休みには、田村亮子、坂井秀行、その姉の坂井みきの3人で自主トレを行った。
6時、博多湾に面した高台にある名島神社に集合。
砂浜を走って、階段をダッシュした。
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マンガ「YAWARA!」の主人公、猪熊柔も髪にゴムをつけていた。
得意技は1本背負い、48kg級、柔の道を極めオリンピック制覇を目指すというストーリーは、谷良子をモデルにしたのではと思うくらい似ていた。
しかし実際のモデルは「女三四郎」と呼ばれた山口香。
谷亮子は中学生くらいのときにこのマンガと出会い、猪熊滋悟郎(猪熊柔の祖父、全日本5連覇、7段)の名言、
「柔の道は1日にしてならずぢゃ」
を本気で信じ、実践しようとした。
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中2のとき、田村亮子は大人も出場する全日本選抜柔道体重別選手権大会の九州予選に出場。
準決勝で柳川高校3年生の衛藤裕美子(1993年、ドイツ国際優勝)に立技でポイントをとってリードしながら試合終了間際に寝技に持ち込まれ、残り時間20秒、送襟絞で
「参った」
し逆転負け。
試合後、稲田明に戦いを放棄したことに怒られ、初めて顔を叩かれた。
その後、大分県別府市で行われた全日本女子の強化合宿に参加。
乱取りが始まっても、まだ白帯で140cmそこそこの中学生を誰も相手にしようとしない。
やがてコーチにうながされた鈴木若葉(埼玉大学)が田村亮子に
「おいで」
と声をかけた。
イザッ乱取りが始まると田村亮子はすぐにその懐に飛び込み、背負い投げで鈴木若葉の体を宙に舞わせ、周囲をザワつかせた。
城香中学校でもムツコウ(富安陸子)とリサコウ(小林理砂)にニコニコしながら近づき
「みてて」
といって力を入れて筋肉を緊張させて制服のボタンが外して2人を驚かせた。

Ryoko Tamura Special 1990 FUKUOKA WOMENS JUDO

中3になると全日本女子のフランス遠征に参加し、練習試合で5戦全勝。
その実績を買われ、国際大会である福岡国際女子柔道選手権大会の48kg級日本代表に選ばれた。
1990年12月9日、地元、福岡の博多区にある福岡国際センターで第8回福岡国際女子が行われた
中学3年生の田村亮子は1ヵ月前に黒帯になったばかり。
体重は41kgしかなかった。
通常、48kg級の選手の多くは50kg台の体を絞って試合に出ている。
あまりに減量が大きいと不利だが、小さすぎるのも不利。
しかも重い階級ならともかく軽量級において数kgの差は非常に大きくなる。
しかし田村亮子は外国人相手に勝ち進んだ。
準決勝で1982、84、86、89年と4度世界チャンピオンになった「Queen of The JUDO」カレン・ブリッグス(イギリス)と対戦。
大内刈り、背負い投げ、大内刈り、田村亮子は試合開始から休む間もなく攻め続け、20秒、コーナーで
「練習してきた技を出してみよう」
と思い切ってかけた大内刈りからの体落としで女王の体が空中で半回転させた。
「技あり!」
カレン・ブリッグスは何が起こったのか理解できない様子で立ち上がった。
反撃にきたカレン・ブリッグスに田村亮子はすかさず大内刈りで
「技あり!」
28秒、合わせ技で1本勝ち。
カレン・ブリッグスは、生まれて初めての1本負け。
畳から下りると物陰に入ってしゃがみこみ頭からタオルをかぶって泣いた。
続く決勝戦、田村亮子は李愛月(中国)の内股を見切り、内股すかしで1本勝ち。
こうして15歳の少女が国際大会初出場初優勝。
衝撃的なデビューを飾った後も国内の大会で立て続けに優勝。
「柔ちゃん(ヤワラちゃん)」
と呼ばれ、一躍、人気者となった。
アニメ放映されていた「YAWARA!」の影響もあって、女子柔道ブームが起こり、全国の中学や高校で女子柔道部員が急増。
それまでほぼ皆無だった女子の大会も各地で行われるようになった。
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全国の強豪高校から勧誘を受けながら田村亮子は地元の福岡工大付高に進学。
少し前まで男子校だった福岡工大付高は、田村亮子が中学1年生のときに普通科が設けられ共学となり、女子柔道部もそのときに創設された。
ここで田村亮子を指導したのは、1969年の世界選手権で兄弟優勝を果たした「園田兄弟」
まず柔道部部長の園田義男。
その指導法は、畳の縁で腕組みをして指示を出すのではなく、1対1で直接、体と技をぶつけて伝えるスタイルで、特に田村亮子はマンツーマンで鍛え上げた。
そしてモントリオールオリンピック金メダリストで福岡県警主席師範の園田勇。
園田勇は、東福岡柔道教室に息子を通わせ、指導も行っていたが、兄と田村亮子の練習もよく手伝った。
福岡工大付高に入ったとき、田村亮子は抜群の俊敏性と絶妙のタイミングによって相手を投げていた。
園田兄弟は、このスピードとタイミングに「力強さ」を加えることを目指した。
また軽量級だった園田義男は背負い投げ、中量級だった園田勇は内股、それぞれの得意技を教え込んでいった。
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女子柔道部は全員が寮で生活し、6時50分から朝練開始。

ランニング×トラック10周
50mダッシュ×10本
タイヤ引き
タイヤ押し
ケンケン

などのトレーニングを行った後、15時25分まで学校で授業を受け、放課後の掃除などを行った後、16時から道場で練習開始。

立ち技 1時間
寝技 30分

残り時間をトレーニングに使って19時まで3時間練習。
週2回、20時から夜練があり

チューブ引き
前後左右に投げられるバレーボールを捕球
寝ころんだ状態から 両足の上げ下げ、横の揺さぶり、
つま先跳び、つま先後退り跳び
幅跳び

などのトレーニングを行った。
このときバーベルやダンベルは使わない。
農家に生まれた園田義男は、少年時代に家業を手伝って体が鍛えられるのを実体験。
また畑に切ったジャガイモをまいて土をかけ水をやると青い芽が出てくるのをみて、
「自然の力は人間の想像をはるかに超えている」
と感じた。
だから
「柔道の力や技は日常生活の中で自然につけるべきで専門の器具や科学的なトレーニングでつけるべきではない。
余計な筋肉がつくと技の邪魔になる。
筋肉とは必要な部分について初めて自分の筋力になる」
という考え方を持っていた。
田村亮子は、夜練がない日は東福岡柔道教室にいき2時間練習。
練習の合間には、仲間とショッピングに出かけたりパフェやケーキを食べて女子高生をエンジョイした。
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高1の田村亮子は、全日本体重別選手権の決勝で江崎史子と対戦。
江崎史子は同大会5連覇中で、ソウルオリンピック銀メダリストという国内最強の柔道家。
また江崎史子は寝技が得意で、田村亮子はアリ地獄のような寝技をコマネズミのようにクルクルと逃げまくり、試合終了間際、少ない立技のチャンスに足払いを決めて「効果」を奪い、判定で勝った。
1991年7月、4年に1度行われる世界選手権がスペインのバルセロナで開催。
江崎史子に勝って日本代表となった田村亮子は準決勝でカレン・ブリッグス(イギリス)が2度目の対決。
リベンジに燃えるカレン・ブリッグスは、試合開始13秒、腰を引いた姿勢からいきなり巴投げ。
本来、外すと上から押え込まれる危険性が高い捨て身技だが、寝技が得意なカレン・ブリッグスにとっては合理的な攻め方。
実際、寝技に入るとカレン・ブリッグスはすぐに上になり、田村亮子は必死に逃げたが、最後は上四方固で押え込まれた。
こうして28歳のブリッグスは見事に復讐を果たした。
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