不動心を背負い「平成のKOキング」「和製デュラン」の異名でファンを魅了したプロボクサー坂本博之さん。
2000年の畑山隆則(横浜光ジム)に挑んだWBA世界ライト級王座戦は、結果として敗けたとはいえファンにより同年年間最高試合に選ばれています。ボクシングに惹かれボクサーとして生き抜き、そして今彼が目指しているものは何か――編集部がインタビューしました。
2000年の畑山隆則(横浜光ジム)に挑んだWBA世界ライト級王座戦は、結果として敗けたとはいえファンにより同年年間最高試合に選ばれています。ボクシングに惹かれボクサーとして生き抜き、そして今彼が目指しているものは何か――編集部がインタビューしました。
「平成のKOキング」坂本博之さん
壮絶な少年期、ボクシングとの出会い
編集 いつからボクシングに惹かれるように?
僕が幼少時代の頃に両親が離婚して、母に引き取られました。母子家庭ということもあり乳児院に預けられて。幼すぎてその当時の記憶は無いのですが6才~7才の頃に母と博多に引っ越して、そこの小学校に入学しました。
その後に母は再婚し、僕が小学校二年生の時に仕事に出るようになったため、僕と弟は知人宅に預けられることになったのですが、知人宅でも色々なことがありまして、ご飯を与えられるような余裕はなかったんですね。
平時、学校で給食があるときはいいんですが、休日が大変で。僕らも生きる為に近くの川のザリガニとか食べるんだけども、そういう生活をしていたら弟が栄養失調、僕自身も拒食症というのになってしまって。そんな状況で児童相談所が入って、和白青松園という養護施設に行くことになりました。そこでボクシングと出会うんです、テレビで。
施設には当時128名の子供が生活していました。幼稚園から小学生、中学生、高校生が全部で128名。どんな理由でここにいるのかなんて子供にとってはなかなか説明できないことだし、別に言わなくても平等じゃないですか。
施設の生活は当たり前のように三食ご飯がある、当たり前のように布団もあるでしょ。そうするとだんだん夢が見えてくるんです。「あれやりたい」「これやりたい」って、そう思える余裕が出てくる。ご飯たべるのに一生懸命だったり、叩かれないためにはどうしたらとか考えてきたのが、ここは当たり前のように食事があって、笑う余裕ができる。そんな時に128名が、みんなが食堂に集まってテレビを見るんですけども、そこでみんなでボクシングを見てた。それがボクシングと僕の出会いです。
その後に母は再婚し、僕が小学校二年生の時に仕事に出るようになったため、僕と弟は知人宅に預けられることになったのですが、知人宅でも色々なことがありまして、ご飯を与えられるような余裕はなかったんですね。
平時、学校で給食があるときはいいんですが、休日が大変で。僕らも生きる為に近くの川のザリガニとか食べるんだけども、そういう生活をしていたら弟が栄養失調、僕自身も拒食症というのになってしまって。そんな状況で児童相談所が入って、和白青松園という養護施設に行くことになりました。そこでボクシングと出会うんです、テレビで。
施設には当時128名の子供が生活していました。幼稚園から小学生、中学生、高校生が全部で128名。どんな理由でここにいるのかなんて子供にとってはなかなか説明できないことだし、別に言わなくても平等じゃないですか。
施設の生活は当たり前のように三食ご飯がある、当たり前のように布団もあるでしょ。そうするとだんだん夢が見えてくるんです。「あれやりたい」「これやりたい」って、そう思える余裕が出てくる。ご飯たべるのに一生懸命だったり、叩かれないためにはどうしたらとか考えてきたのが、ここは当たり前のように食事があって、笑う余裕ができる。そんな時に128名が、みんなが食堂に集まってテレビを見るんですけども、そこでみんなでボクシングを見てた。それがボクシングと僕の出会いです。
編集 ボクシングの何に惹かれたのでしょうか。
「この人(選手)が好き」とか「この人(選手)がかっこいい」とかではなくて、ボクシングというスポーツに。きらびやかなガウンにチャンピオンベルト巻いて、あの大歓声で花道を通る姿に魅了されたんですね。
「うわあ、すごい、かっこいいな!」って。それが「プロボクサーになる!」っていう夢との出会いになりました。
「うわあ、すごい、かっこいいな!」って。それが「プロボクサーになる!」っていう夢との出会いになりました。
編集 小学生の時に抱いた夢ですね。ボクシングを具体的に始めたのはいつ頃からなのでしょう?
高校を卒業してからです。高校は埼玉の小松原高等学校(以下高校)でした。今は名称が変わり「叡明高校」になっていますが。ただ、僕がいた時の小松原高校にはボクシング部は無かったんです。ぼくらが卒業した後にはできたんですが。
編集 なんと!そういえば、以前私たちがインタビューさせていただいた西島洋介さんも確か小松原高校ご出身とおっしゃってました。
孤高の求道者は今なおボクシングの夢を追う、西島洋介山! - Middle Edge(ミドルエッジ)
日本クルーザー級のパイオニアとしてその名を轟かせた西島洋介山を知らない人はいないだろう。手裏剣パンチを武器に闘った地下足袋ファイターは、そのボクサー人生の多くをアメリカで過ごした。またボクサーとして現役を退いた後には、日本国内で総合格闘技やキックボクシングにも出陣することに。様々なバックボーンを持ったファイター達とリング上で相見えてきた西島洋介山、孤高のボクサーはその拳にどんな想いを乗せて闘っていたのだろうか。
そうそう。あと、ボクシング部がないのに細野雄一がいて。彼も日本チャンピオンを2階級(ストロー級、ジュニアフライ級)制覇してますね。で、僕でしょ。で、西島洋介。あと渡嘉敷ボクシングジムの山口真吾も小松原高校。あとワタナベジムの福原力也も。
ボクシング部がないのにここまで日本チャンピオン、東洋チャンピオン、世界タイトルマッチをやるような連中が小松原高校にいるということは・・・という話が出て、後にボクシング同好会ができたんですよ。
ボクシング部がないのにここまで日本チャンピオン、東洋チャンピオン、世界タイトルマッチをやるような連中が小松原高校にいるということは・・・という話が出て、後にボクシング同好会ができたんですよ。
編集 そして高校を卒業してからボクシングを始められた、と。
はい。僕、高校の時はアルバイトしながら、高校通ってましたし。小松原高校は私立高校だから決して(学費は)安くはないんでね、アルバイトしながらね。
でもその間も、というか中学生の頃から自主トレはしていました 。ボクシングの本を読んで左フックの角度とかそういうのをやって、あと鉄アレイとか腕立てとか。部活は無くても、そうやって自分で練習をやっていましたね。
でもその間も、というか中学生の頃から自主トレはしていました 。ボクシングの本を読んで左フックの角度とかそういうのをやって、あと鉄アレイとか腕立てとか。部活は無くても、そうやって自分で練習をやっていましたね。
編集 アルバイトをしながら自主トレはされて、そして高校を卒業されていよいよボクシングジムに、という。
そうですね。だから18歳で本格的にボクシングの世界に入りました。練習してデビューしたのは勝又ジムです。18歳で入門して2年間練習して20歳(1991年)でデビューです。
プロデビューから一気にスターダムへ
編集 デビューまでの2年間は。
アルバイト一色、ボクシング一色。江戸川区小岩にある焼き鳥屋でアルバイトをしてそこから勝又ジムに向かう、というね。
ボクシングが出来る時間とトレーニング時間を作りたいから、それを考えて生計を立てられるようにしました。アルバイト先の焼き鳥屋は昼の営業だったので昼から焼き鳥を焼いて、18時までそうやってアルバイトをやって、18時半くらいからジムに入って21時~22時とか、そのくらいまでボクシングという日々です。
ボクシングが出来る時間とトレーニング時間を作りたいから、それを考えて生計を立てられるようにしました。アルバイト先の焼き鳥屋は昼の営業だったので昼から焼き鳥を焼いて、18時までそうやってアルバイトをやって、18時半くらいからジムに入って21時~22時とか、そのくらいまでボクシングという日々です。
・第39代全日本ライト級新人王
・第44代日本ライト級王座
・第30代OPBF東洋太平洋ライト級王座
1970年12月30日生、福岡県田川市出身。