「おやじファイト」で得られた生きがい!40代ボクサー、阿部浩治さん
2019年3月6日 更新

「おやじファイト」で得られた生きがい!40代ボクサー、阿部浩治さん

自分の過去を振り返った時、誰しも口惜しかったり恥ずかしかったことがあると思います。そんな過去をどう受け入れて消化するかは人それぞれ。40代でリングに立つボクサー阿部浩治さんはそんな自身の過去を美化することなく向き合うことで生きがいを手に入れることが出来ました。

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20年を経て、聖地・後楽園ホールへ

「おやじファイト」フェザー級日本チャンピオンの阿部浩治さんは、40代のチャンピオンとして2度後楽園ホールのリングに上がり2戦1勝1分とチャンピオンを防衛中。

彼にとって、後楽園ホールのリングに上がることはおよそ20年ぶり。

若き日に志したボクシングと夢が叶った後楽園のリング。
プロボクサーとして2度立った後楽園のリングでは、いずれも2Rにダウンを奪われた苦い過去を持っています。

プロを離れて堅実な人生を送る阿部さんが、なぜ20年経った後に再び後楽園のリングに立つこととなったのか。

その偽らざる心境を、ミドルエッジ編集部(ミド編)は伺って参りました。

おやじファイトとは

30歳以上の男性で、「プロフェッショナル、アマチュアを問わず、ジム及び道場、スポーツクラブ等に所属し日頃からボクシングの練習を行っていて、2分3Rの試合に出場」であれば参加可能。上限は事務局が可能と認めるコンディションであれば特になし。

年齢ごとのカテゴリーを設定し、体重別階級ごとに競技(スパーリング)を行う。プロ同様のタイトルマッチ制度で王座を決定しており、チャンピオンベルトも授与されている。

プロボクサーを夢見て国立大学を志望

タイトルからはちょっと違和感を感じるかもしれませんが、若き日の夢を追いかける誰しもが、周囲の反対を振り切ってまで猛進するドラマティックな展開を歩むとは限りません。

むしろそのような例は珍しく、多くの人にとっては現実的な環境との折り合いの中で夢は夢のままに終わることの方が多いのではないでしょうか。

中学2年のころ、プロボクサー鬼塚勝也選手に憧れてプロボクサーを夢見た阿部さん。
話はそんな阿部さんの中学生時代から始まりました。
阿部浩治さん

阿部浩治さん

1977年、宮城県気仙沼市生。
埼玉大学在学中にプロテスト合格。
大学卒業後には公務員試験に合格、現在は千葉県市川市役所に勤務。
2015年より「おやじファイト」に参戦。
現在は4勝1分、フェザー級の日本チャンピオン。

中学では卓球部、高校ではハンドボール部

「宮城県気仙沼市に生まれ高校までは仙台で育ちました。中学校では卓球部に所属して仙台市下で3位の成績を収めることが出来ました。」
-仙台といえば卓球少女愛ちゃんを思い出さずにいられません。その地で3位とは素晴らしい成績ですね。
「ええ、ですが当時は卓球というとマイナーなイメージがあって、自分が卓球部だということをあまりいいたくない、そんな気持ちでもあったんです。」
-たしかに、当時は室内部活ですとバスケットボールとバレーボールがカッコよくて卓球とバトミントンはマイナーというイメージはありましたね。また、ボクシングとも少し異なるイメージを抱くように思います。
「高校に進むとハンドボール部に所属しました。実践重視のハンドボール部で県下3位の強豪校でしたが団体スポーツの難しさも感じることとなり、高校2年の冬には退部しました。」
-県下3位、これもまた強豪校だったのですね。団体スポーツより個人スポーツ、、、ところでボクシングに関心を抱いたのはいつ頃だったのでしょうか。
「中学校2年のとき、鬼塚選手の試合を見てボクサーに憧れましたね。プロボクサーになりたいと思って大学は国立大学を志望することにしました。」
-えっ、プロボクサーになるため国立大学ですか?
「はい、公務員だった父親が厳格な家庭環境で育ったものですから親元にいる間はボクシングに挑戦することが出来なかったんです(笑。国立大学への進学なら一人暮らしも認めてくれたので、まずは国立大学を目指しました。そして大学に入ったら角海老宝石ボクシングジムに入ろうと決めていました。」
思わず「あ、分かるなあ~」などと感じてしまったミド編。

中高生の頃「〇〇がやりたい!」と思っても、親の目が気になって出来なかったこと。
大学生になったら、一人暮らしが出来るようになったら、などと考えた経験は多くの方に共通しているのではないでしょうか。

埼玉大学に入学、角海老宝石ボクシングジムへ

-角海老宝石ボクシングジムの門を叩いたのはなぜだったのでしょう?
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