はじめに
第一次競馬ブームの立役者
1970年3月6日武田牧場にて誕生。 父:チャイナロック、母:ハイユウ。
1973年7月12日、大井競馬場で行われた未出走戦でデビューします。このレースのコースレコードとなる59秒4で走破し、2着馬に8馬身の着差をつけて優勝しました。従来のレコードはヒカルタカイが記録した1分0秒3で、ハイセイコーは大井競馬史上初めて1000mを1分を切って走った馬となったのです。それから11月の青雲賞(のちのハイセイコー記念)まで6連勝という成績。1973年に中央競馬へ移籍し、同年3月4日の中山競馬場で行われた弥生賞でみごと1着となります。それから5月のNHK杯まで4連勝という成績を修めました。
大井競馬場で連勝劇でハイセイコーの名は世間に知られ、デビューから無敗のまま中央競馬デビューする彼を一目見ようと中山競馬場は12万人以上の超満員だったのです。ハイセイコーの人気は、ギャンブルをしない子どもから女性にも広がり、ファンレターが届くほどでした。この頃から競馬場には馬券を買わない子どもや女性、シニア世代も訪れるようになり、ギャンブル=悪というイメージの競馬が健全な娯楽として認識されるようになったのだそうです。
ただ、なぜこんなにもハイセイコーに人気が出たのかというのは、いまだ謎だそうです。当時マスコミの現場にいた遠山彰(元朝日新聞記者)や橋本邦治(元日刊スポーツ記者)は、
「マスコミがハイセイコーを擬人化し、地方出身者が中央のエリートに挑戦する。
もしくは、地方から這い上がった野武士が貴公子に挑むといったストーリーを
作り上げ、当時上京していた地方出身者がハイセイコーに夢を託した。」
と分析しています。
彼が引退しブームが沈静化しても競馬場の入場人員は増え続け、中央競馬では1975年に過去最高の年間観客動員数となる延べ約1500万人を記録しています。
彼の生涯成績は、22戦13勝(地方競馬:6戦6勝、中央競馬:16戦7勝)で、タイトルは、1973年優駿賞大衆賞、1984年JRA顕彰馬選出、2000年NARグランプリ特別表彰馬です。
第二次競馬ブーム
第二次競馬ブームは、競走馬だけでなく騎手の活躍も目立ち、ファンは騎手や競走馬の関係者にも目を向けるようになりました。
このブームでは、競走馬のぬいぐるみが発売され大人気でした。
それでは、この第二次ブームの競走馬たちをご紹介します。
1985年3月27日稲葉牧場にて誕生。 父:ダンシングキャップ、母:ホワイトナルビー。
1987年5月19日の笠松競馬でのデビュー戦は2着に終わりましたが、その後ジュニアクラウン、中京盃、中日スポーツ杯、ジュニアグランプリ、ゴールドジュニアを制し、12勝10敗という成績を残し、1988年に中央競馬へと移籍します。1988年3月6日ペガサスステークスで中央競馬でデビューするや、4カ月の間に重賞レースを6連勝しました。天皇賞では勝利することができませんでしたが、有馬記念を2度勝利しています。
引退レースとなった第35回有馬記念のパドックにはオグリキャップへの応援幕が20本も張られ、1頭の馬が張り出した本数は史上最多を記録するほどでした。5歳ころから脚の故障などを繰り返しましたが、引退するまでの3年間は第二次競馬ブームを引っ張て来た競走馬です。
彼の生涯成績は、32戦22勝(地方競馬:12戦10勝、中央競馬:20戦12勝)で、タイトルは、1988年最優秀4歳牡馬、1989年JRA賞特別賞、1990年JRA賞年度代表馬・最優秀5歳以上牡馬・NARグランプリ特別表彰馬、1991年顕彰馬選出です。
1984年5月23日錦野牧場にて誕生。父:シービークロス、母:グリーンシャトー。
1987年3月1日阪神競馬場で新馬戦でデビューします。3歳秋まではダート向きの馬だとされていましたが、約半年ぶりに芝に戻った京都2200m戦で一変し、後続に7馬身もの差をつけて大楽勝します。さらに続く藤森特別では8馬身差、そして格上挑戦のG2・鳴尾記念でも6馬身差の圧勝を飾り、わずか2カ月で一躍「芝のスターホース」候補の1頭にまでのし上がったのです。それから、天皇賞(春)、宝塚記念、天皇賞(秋)とGI3連勝を含む8連勝を挙げました。
オグリキャップのライバルでもあり、1988年の秋の天皇賞は、重賞6連勝中のオグリキャップと同5連勝中のタマモクロスによる「芦毛対決」として注目を集めました。直線で迫るオグリキャップの追撃を振り切り、見事「芦毛対決」を制するとともに、史上初の天皇賞春秋連覇を成し遂げたのです。
彼の生涯成績は、中央競馬での18戦9勝。獲得タイトルは、1988年JRA賞年度代表馬・JRA賞最優秀5歳以上牡馬・JRA賞最優秀父内国産馬・東京競馬記者クラブ賞・関西競馬記者クラブ賞です。
ファルコンSの前身、1988年の中日スポーツ賞4歳Sを制した #サッカーボーイ 皐月賞馬ヤエノムテキを並ぶ間もなく差し切っての圧勝。日本ダービーでの敗戦(1番人気)の鬱憤を見事に晴らすと共に、以降の函館記念でのレコード勝ち、マイルCSでの圧勝劇へと繋げる大きな勝利でした。 pic.twitter.com/Jgwm17O8M8
— Stay Dream (@StayDream21) March 20, 2021
1985年4月28日社台ファームにて誕生。 父:ディクタス、母:ダイナサッシュ。
1987年8月9日、函館競馬場の新馬戦(芝1200メートル)でデビューし、直線だけで9馬身差をつけて初勝利を挙げました。その後重賞レースでは1987年の阪神3歳ステークス(GI)、1988年のマイルチャンピオンシップ(GI)、中日スポーツ賞4歳ステークス(GIII)、函館記念(GIII)で勝利を挙げています。
その中でも函館記念では、強敵相手にも1番人気に推されたサッカーボーイは中団から徐々に進出すると、直線で強豪を一気に突き放し5馬身差で勝利します。当時としては驚異的な1分57秒8の日本レコードで駆け抜けたのでした。
彼の生涯成績は、中央競馬にて11戦6勝。獲得タイトルは、1987年JRA賞最優秀3歳牡馬、1988年最優秀スプリンターです。
1988年の菊花賞。トライアルで権利が取れず除外対象だったスーパークリークでしたが、賞金上位馬の回避により出走を果たすと、クラシックの大舞台でステイヤーの血が開花したか、2着馬に5馬身差をつける圧勝。鞍上の武豊騎手は若干19歳、デビュー2年目でのG1初勝利でした。#昔の競馬 #菊花賞 #武豊 pic.twitter.com/MclV4LzeoY
— ビッグワン (@umauma1987) October 14, 2018
1985年5月27日柏台牧場にて誕生。 父:ノーアテンション、母:ナイスデイ。
1987年12月5日阪神競馬場での3歳新馬でデビューしますが2着に終わりました。しかし同月26日のレースで初勝利を挙げます。翌年に重賞レースに初出走しますが勝てませんでした。
1988年秋、菊花賞に登録するもスーパークリークは獲得賞金順で出走資格19番目、同賞金のガクエンツービートとともに回避馬待ちでした。ですが騎手の武豊がクリーク騎乗の意思を堅持したのを受け、クリークの配合を考案した岡田繁幸が、自身が運営するクラブ所有馬マイネルフリッセの出走の辞退を表明したうえ、センシュオーカンが出走を回避したことで、ガクエンツービートともども抽選なしでの出走が叶ったのです。そしてこのレースで、後続を大きく引き放して2着馬と5馬身差を付けての優勝を果たしたのでした。
このレースでは、人馬ともにGⅠレース初勝利となり、騎乗した武豊騎手は史上最年少でのクラシック勝利(19歳8か月)となり、さらには父・邦彦との菊花賞親子制覇も達成、また調教師の伊藤修司は1965年札幌記念のハツライオーから、24年連続での重賞勝利となる記念すべきレースとなりました。
その後、1989年天皇賞(秋)、1990年天皇賞(春)と天皇賞連覇を達成。第二次競馬ブームにおいて、オグリキャップ、イナリワンとともに「平成三強」と呼ばれました。
彼の生涯成績は、中央競馬での16戦8勝。
1984年5月7日山本実儀牧場にて誕生。 父:ミルジョージ、母:テイトヤシマ。
1986年12月9日、大井競馬場の新馬戦(ダート1000メートル)でデビューし、2着に4馬身差を付けて初勝利を挙げました。2戦目のレースは出走を取り消しましたが、1987年5月から出馬したレースは全て勝利しています。
1989年からは中央競馬に移籍し、デビュー戦、重賞レース初出走ともに成績は振るいませんでしたが、同年4月29日に行われた春の天皇賞では、コースレコード、レースレコードともに更新し初勝利を挙げます。走破タイムは、3分18秒8で、1982年天皇賞(春)でモンテプリンスが樹立したコースレコードおよびレースレコードを0.4秒更新しています。さらには史上6頭目、21年ぶりとなる地方競馬出身競走馬による天皇賞勝利となりました。その後も宝塚記念、有馬記念と勝利を挙げています。
イナリワンが中央競馬で頂点に君臨したのはたったの1年でしたが、一歳下のオグリキャップとともに「マル地旋風」を巻き起こし、その後、中央と地方の垣根を低くすることに大きく貢献した競走馬です。
彼の生涯成績は、25戦12勝(地方競馬:14戦9勝、中央競馬:11戦3勝)で、獲得タイトルは1989年JRA賞年度代表馬・JRA賞最優秀5歳以上牡馬・東京競馬記者クラブ賞、2016年NARグランプリ特別表彰馬です。
入場者数・世界レコードの逃げ切り劇(1990年第57回日本ダービー・アイネスフウジン)
1987年4月10日競走馬生産者の中村幸蔵のもとで誕生。 父:シーホーク、母:テスコパール。
1989年9月10日、中山競馬場の新馬戦(芝1600メートル)でデビューしました。3戦目で初勝利を挙げます。デビューから日本ダービーまで、わずか8戦と現役生活の短かったのですが、同年12月17日の朝日杯3歳ステークスでは、走破タイムが1分34秒4と1976年にマルゼンスキーが記録した「不滅」とも称された3歳レコードに並ぶ記録でした。
1990年の東京優駿(日本ダービー)では中野栄治騎手が騎乗し、1988年のサクラチヨノオーが記録したレコードタイムを1秒更新する2分25秒3で走破し勝利しました。しかし、ゴール直後に躓くなど余力が尽き、ゆっくりとスタンド前からの退場を目指す姿を観客は注目し、多くの観客はその場から立ち去ることはなかったそうです。そして、彼がスタンドに近づくにつれ、観客の若者から手拍子に合わせて、自然発生的に「ナ・カ・ノ・ナ・カ・ノ」と歓声が上がり、コール競馬場にいる19万人全体の合唱へ変化し、音量は、スタンドを越えて正門付近で聞こえるほどだったのでした。この後、脚の故障で療養を行いましたが、このレースを最後に引退となりました。
この時の、ナカノ・コールが勝利した馬や騎手をコールで称えるという文化となり、大レースでの入場制限や警備、救護などを強化するきっかけとなっています。また発走前のファンファーレに合わせた手拍子をする文化も生まれています。
彼の生涯成績は、中央競馬で8戦4勝。獲得タイトルは、1989年JRA賞最優秀3歳牡馬、1990年JRA賞最優秀4歳牡馬です。