【最強BI砲】ジャイアント馬場&アントニオ猪木 vs ザ・ファンクス他
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豊登の画策で旗揚げされた東京プロレスでしたが、長くは続かず、わずか3ヶ月で倒産しました。アントニオ猪木は日本プロレスに戻り、ジャイアント馬場との二大エースがついに誕生しました。そうなると大木金太郎はNo.3になってしまうので、我慢できずに韓国に活路を見出そうとしました。
「BI砲」は並み居る外国人タッグ選手をなぎ倒し人気絶頂でしたが、アントニオ猪木は金銭トラブルから「会社を乗っ取る」と首謀者にされ追放されてしまいました。一方のジャイアント馬場は日本テレビと組んで全日本プロレスを旗揚げしたのです。
「BI砲」は並み居る外国人タッグ選手をなぎ倒し人気絶頂でしたが、アントニオ猪木は金銭トラブルから「会社を乗っ取る」と首謀者にされ追放されてしまいました。一方のジャイアント馬場は日本テレビと組んで全日本プロレスを旗揚げしたのです。
ついに日本プロレスのエースに
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力道山の後継者として大木金太郎は、日本プロレスを「力道山先生の興した団体を潰すわけにはいかん」と日本プロレスを支えると決意しました。しかし選手はほとんどがジャイアント馬場のいる全日本プロレスに流れてしまい、残った選手は柔道界から鳴り物入りで入団した坂口征二しかいない状態でした。これで日本プロレスのエースになったわけだが皮肉なものである。
しかし大木金太郎は奮起しました。1972年「魔神」ボボ・ブラジルとの頭突き世界一決定戦を制し、インターナショナル・ヘビー級を獲得し、名実ともに正統な力道山の後継者になりました。
しかし大木金太郎は奮起しました。1972年「魔神」ボボ・ブラジルとの頭突き世界一決定戦を制し、インターナショナル・ヘビー級を獲得し、名実ともに正統な力道山の後継者になりました。
日本プロレス崩壊
No.1になったものの華が無いことで、日本プロレスを中継していたNET(現テレビ朝日)は、坂口征二を頼りにアントニオ猪木との合流を提案したが、「力道山先生を裏切った奴らとは一緒にできない」と坂口征二とも決裂し、坂口はNET(現テレビ朝日)と木村健吾、キラーカーンと共にアントニオ猪木に合流しました。
大木金太郎は残った選手と結局ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに吸収されました。師匠力道山が興した日本プロレスを、力道山を崇拝したあまりに、祖国の弟子である大木金太郎が崩壊させてしまいした。1973年の桜咲く4月でした。
大木金太郎は残った選手と結局ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに吸収されました。師匠力道山が興した日本プロレスを、力道山を崇拝したあまりに、祖国の弟子である大木金太郎が崩壊させてしまいした。1973年の桜咲く4月でした。