獣神サンダーライガー  山田恵一がライガーのマスクをかぶるまで
2024年9月30日 更新

獣神サンダーライガー 山田恵一がライガーのマスクをかぶるまで

獣神サンダーライガーの中身は山田さんは、超一途、超根アカ、超ピュア、超ポジティブなナイスガイ。

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獣神サンダー・ライガーこと山田 恵一は、1964年11月10日、広島県広島市で誕生。
バンドマンだった父親が大阪のクラブを周っていたとき、店で働いていた母親が一目惚れ。
広島にいた父親のところに押しかけて結婚。
山田恵一が生まれたとき、父親は肉体労働をしていたが、小学校2年生のときに離婚。
大阪の実家に戻りづらかった母親は、近くに住み続け、山田恵一は両親の間を自由に行き来。
その後、母親は2度再婚したので山田恵一には3人の父親がいる。
「家庭環境は複雑でも、まったくジメッとしてなくて、カラッとした感じでしたね。
父ちゃんがいっぱいいるのもええやんって。
弟は、今は真面目に勤め人になってますけど、昔は暴走族をしていて、警察のお世話になって、よく母親が迎えに行ってましたよ。
母親も警察に友達が随分いるっていってました」
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小学校6年生のとき、園芸部だった山田恵一は、本屋に植物の本を買いにいき、棚にささっていたプロレス誌「別冊ゴング」の表紙に目を奪われた。
それは筋骨隆々の藤波辰巳で、
「かっこいい」
と一気に引き込まれてしまった。
以後、プロレス誌を買い漁り、テレビ中継も無我夢中で観戦した。
「テレビ中継はゴールデンタイムで、雑誌も「月刊プロレス」や「月刊ゴング」の他に「月刊ビッグレスラー」や「デラックスプロレス」があって、お小遣いも全然足りなくて・・・」
(山田恵一)
それまで将来の夢は、
「動物園の飼育員とか農業関係の職につきたい」
だったが、
「これしかない‼」
とプロレスラーになることを決めた。
ジャイアント馬場率いる全日本プロレスとアントニオ猪木の新日本プロレスという2団体がしのぎを削っていたが、山田恵一は、どこか殺伐とした新日本プロレスに憧れ、憧れのヒーローは
「強者。
特にアントニオ猪木とゴジラ」
だった。
アントニオ猪木、本名:猪木寛至は、神奈川県横浜市鶴見区生まれ。
家は石炭問屋を営み、110坪もあるお屋敷だったが、中学生になると時代の流れは手間がかかる石炭から石油へと移行し、徐々の困窮。
最終的に石炭問屋を廃業することになり、砲丸投げに夢中で、中学校には砲丸を投げるために通っていたアントニオ猪木は、家族と共にブラジルへ移住。
ブラジルに着いた翌日の朝の5時からラッパの音で起こされて働かされ、1年半という契約期間中、週6日、5~17時までコーヒー園、綿花、落花生と季節ごとに現場を変えながら労働。
契約期間が終わると昼間はサンパウロの高校に通って砲丸投げの練習をし、夜は青果市場で働くという生活が始まり、16歳のとき、砲丸投げでブラジルの全国大会で優勝。
このとき力道山率いる日本プロレスがサンパウロ興業に来ていて、力道山は猪木の活躍を新聞で知り、興味を持った。
日本プロレスの招聘に携わっていた青果市場の市場長は、それを知ってアントニオ猪木を力道山のいるホテルに連れていった。
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力道山はいきなり、
「裸になれ」
といい、その肉体に納得すると
「よし、日本へ行くぞ」
猪木の家族には
「3年でモノにしてみます」
といって、アントニオ猪木を日本に連れて帰った。
それから猪木は、日本橋浪花町の力道山道場でのトレーニングと力道山の付き人の仕事が始まった。
日本プロレスの練習は半端なものではなく、
「常人では成しえないことを成すのがプロレスラー」
が信念の力道山は、なにかあれば容赦なく竹刀で殴った。
朝から夜まで付き人としてついていく猪木は、リングシューズを履かせていると
「違う」
と蹴飛ばされたり、飼い犬を番犬として育てるための実験台にされたり、ゴルフクラブで側頭部を殴打されたり、走っている車から突き落とされたり、一升瓶の日本酒を一気飲みさせられたり、
「声を出すなよ」
といわれた後、アイスピックで刺されたり、素人に殴られたりした。
ジャイアント馬場は、猪木がブラジルから帰ってきた直後に日本プロレスに入門。
209cm、135kgのジャイアント馬場は、猪木より5歳上の22歳。
高校の野球部でエースと4番を務め、1試合18脱三振を記録。
高校を2年生で中退し、大卒初任給が1万6千円の時代に支度金20万円、初任給1万2千円の条件で巨人に入団し、史上最年少、16歳のプロ野球選手となった。
5シーズン、巨人に在籍し、チームメイトには長嶋茂雄、王貞治もいたが、1軍登板は3試合のみ。
大洋ホエールズに移籍が決まり、準備を進めていたときに風呂場で転倒し、体ごとガラス戸に突っ込み、左肘に17針を縫い、左手の指が伸びない状態が続き、プロ野球選手の道を断念。
スポーツを続けたいという一心でボクシングジムでトレーニング。
そしてブラジルから帰国した力道山に入門を直訴。
ヒンズースクワット100回を命じられ、難なくこなし、その場で入門が決定。
しかも力動さんは、通常、練習生には支払われない給料を、ジャイアント馬場だけ月5万円、支給。
待遇面で雲泥の差のあったが、猪木と馬場は床に汗溜りをつくりながらスクワット。
入門して5ヵ月後、2人は同じ日にデビュー戦を行い、ジャイアント馬場は、田中米太郎に股裂きでギブアップ勝ちし、アントニオ猪木は、大木金太郎にギブアップ負け。
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2人が入門して3年半後、力道山が死去。
アントニオ猪木は、付き人として3年半の仕事を終え、さらに3年後には、自分の団体「東京プロレス」を旗揚げ。
しかし3ヵ月で破産し、日本プロレスに戻った。
アントニオ猪木は、ジャイアント馬場をタッグを組み、日本プロレスの看板コンビとして活躍。
さらにシングルでも大きなタイトルを獲得し、団体ナンバー2に。
しかし会社の経理の問題を追及したり、(力道山の生前、16戦16敗という)ジャイアント馬場との直接対決を要求したが認められないなど、日本プロレスとの間に確執が生まれた。
そんな状態で倍賞美津子と結婚。
京王プラザホテルで結婚披露宴は1億円と話題になったが、その1ヵ月後、日本プロレスは、アントニオ猪木の除名を発表。
その記者会見の後、代官山の日本プロレス事務所ではビールで乾杯が行われた。

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「迷わず行けよ」
と行動主義のアントニオ猪木は、すぐさま「新日本プロレス」を旗揚げ。
それは

1971年11月、結婚
12月、日本プロレス追放
1972年1月、「新日本プロレス」を会社登記
3月、旗揚げ戦

という異例のスピードで行われた。
練習第一の猪木が1番最初に行ったのは、道場の建設。
世田谷区野毛、多摩川沿いの倍賞美津子との新居となるはずだった一戸建てを改造し、庭を潰して道場を建て、家の2階部分を増築して寮をつくった。
練習生を募集したものの、あまりの厳しさに全員が逃げ出してしまい、旗揚げ戦を行ったとき、アントニオ猪木、山本小鉄、木戸修、藤波辰巳、北沢幹之、柴田勝久のわずか6人。


「燃える闘魂」
は決してダテではなく、アントニオ猪木は、誰よりも練習した。
所属レスラー全員に毎朝10時から、合同練習を課し、まず30分ぐらい走った後、全員がリングの周囲を囲んでスクワット、腕立て伏せ、縄跳びなどのトレーニングを1時間半から2時間行うが、夏は40度を超えて汗だまりができた。
次はリングの上でストレッチ、腹筋、ブリッジ、受け身、タックル、ロープワークなど基本技術。
それが終わるとスパーリングとなる。
たくさんの人間がリングでひしめくため、自然と寝技多くなった。
それは関節技あり、締め技あり、フォールなしのサブミッションレスリングで、道場ではスパーリングと呼ばず、
「セメント」
あるいは
「ガチ」
「ガチンコ」
などと呼んだ。
3、4時間練習し、14~15時で終わると、その後に食事。
そのためにチャンコ番は早めに練習を終える。
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試合で遠征中も必ず合同練習は行われ、朝は晴れていればランニング、雨なら風呂場でスクワット。
午後も試合が始まる30分前まで試合用のリングでスパーリングや会場でトレーニングをしてから客を入れた。
あるとき3週間休みなしで巡業が続き、後半、みんな疲れて合同練習に参加しなくなったが、アントニオ猪木は1人で黙々とスクワット。
そして所属レスラーを呼んで、リングの周りに並べ
「やる気がないなら帰れ」
といって全員を殴った。
プロレスには台本があり、勝敗は事前に決まっていて、プロレスラーの目的は勝利ではなく観客を興奮させ、楽しませること。
だからプロレスラーは、パイルドライバー、バックドロップ、ボディスラム、4の字固めなど技のかけ方、受け方を練習する。
一見派手なパンチやキックも攻める側は急所を避け、受ける側は、逃げることなく受ける。
しかし新日本プロレスでは、そういった技のかけや受けの練習をほとんどせず、基本的にトレーニングとセメントだけ。
試合はケツ(最後の勝敗)は決まっていたが、試合中はすべてアドリブでセメント(真剣勝負)も行った。
「どんなに素晴らしい試合より街のケンカのほうがおもしろい」
というアントニオ猪木は、感情ムキ出しのファイト、気迫あふれる試合を推奨。
そして試合でセメントの要素がないと
「何やってるんだ!」
と怒った。
若手がリングで挑戦的なことをやったり、それを失敗しても責めないが、気合が入っていない試合をすれば怒り、試合中でも竹刀を持ってリングに上がって滅多打ちにすることもあった。
だから新日本プロレスのリングには、常に危険な香りが漂っていた。
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新日本プロレスに夢中な山田恵一は、中学生になると体が大きくするために水泳部に入り、県の新人戦で優勝。
「少年ジャンプ」に載っていた「ぐんぐん伸びる ヨーガ伸長法!」という教材の通信販売の広告に申し込み、ブルーワーカーなどのトレーニング器具を購入。
プロレス誌に
「レスラーはスクワットを毎日3000回やる」
と書いてあるのをみて、少しずつ回数を増やしていき、数ヵ月後、3000回をこなせるようになった。
「もう自分の部屋の畳が汗で腐るくらいに(笑)」
勉強は全くダメで
「学校には給食と運動をするために行っていた」
という山田恵一は、デカくなった体でプロレスごっこ。
すぐに女の子を好きになり、すぐに告白し、すぐにフラれた。
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