UWF   そして復讐の団体は誕生した
2022年3月21日 更新

UWF そして復讐の団体は誕生した

「蛇の穴」ビリー・ライレージム、カール・ゴッチ、力道山、アントニオ猪木、藤原喜明、佐山サトル、前田日明、高田延彦、猪木舌出し失神事件、アントンハイセル事件、新日本プロレスクーデター事件、,タイガーマスク引退、1984年にUWFができるまで色々なことががありました。

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レスリングの起源は紀元前。
シュメール、エジプト、ギリシャ、古代の人々はレスリングを神と科学の芸術とみなし、実施者には文武両道が求められた。
そして数千年後の現在、

・つかむ場所に制限がなく全身を攻めることができるフリースタイル
・下半身を攻めてはいけないグレコローマンスタイル

という2つのスタイルで競技が行われている。
一方、プロフェッショナルレスリングは、1830年頃、フランスのサーカスや見世物小屋でレスラーが
「オレを倒せば50フランやる」
といって戦ったのが始まり。
それが広まり、レスリングだけの興業も行われ始めた。
試合は賭博の対象にもなり、プロレスラーは賞金稼ぎ。
勝敗に第3者が介入する余地はなく、試合はシュート(真剣勝負)で行われた。
以後、100年以上、プロレスは誇り高き格闘技だった。
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イギリスは、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド、4つの国から成る連合王国。
イングランドの西北部、ランカシャー地方には、ウィガンという町があり、かつて炭鉱で栄え、レスリングが盛んで、ストリートファイト賞金マッチも行われていた。
1920年頃、イギリスのレスリング、元ミドル級チャンピオン、ビリー・ライレーは、この賞金マッチで力自慢の炭鉱夫達を打ち負かし大金を手にした。
そしてジム(Billy Riley`s Gym)を建て、道場生と共に激しいトレーニングを積み、道場破りが来れば、自らねじ伏せた。
現在のレスリングは、基本的に相手を投げたり、押し倒す競技。
しかしビリー・ライレーが行っていたランカシャーレスリング、通称「Catch As Catch Can(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)」レスリングは異質。
キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは
「つかまえられるものならつかまえてみろ」
「やれるものならやってみろ」
という意味だが、投げやフォールに加え、相手を戦闘不能にするサブミッション(関節技)があるレスリングだった。
例えば通常のレスリングでは相手にバックをとられると、投げられるのを防ぐために亀になったり、うつ伏せに寝ることもあるが、関節技があるとそうはいかない。
ビリー・ライレーは、道場生がそんな体勢をとれば、
「この腰抜けが!」
とケツを蹴り、
「動け」
「立て」
と指示。
防戦一方になるのではなく、すぐにエスケープしたり、切り返しを試みることを求めた。
また関節を極めるためには指を眼に入れるなどのあらゆる技術を駆使。
その蛇のからみついて攻撃をかけ続けるファイトスタイルから、ビリー・ライレー・ジムは、
「(The Snake Pit、 蛇の穴」
と呼ばれ、恐れられた。
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ビリー・ライレージムからは、多くのプロのレスラーも育った。
午前中はプロクラスで、夜は子供と大人のアマチュアクラス。
月謝制ではなく、来る度に料金を払う1回いくらシステムで、子供も大勢通い、技の練習をした後、スパーリングを行った。
それが終わると大人の練習が始まり、まず休むことなく動き続けるサーキットトレーニング。
そしてスパーリングに移行。
道場生のやる気にさせるのがうまいビリー・ライレーは、スパーリングは複数組が同時に行うのではなく、1組ずつ行わせた。
そしてときどきスパーリングを止め、道場生がミスを指摘し、正しいやり方を反復練習させ、その後、再開。
スパーリング時間も、ビリー・ライレーが決め、
「やめ」
といったり、
「今から先に1本とったほうの勝ちで終わり!」 
というまで続いた。
スパーリングをしている者は、残り時間を計算してペース配分できないし、先生や道場生に注目されて手抜きすることもできず、たとえどんなにやられても全力で戦い続け、肉体と精神を鍛えていった。
時間はそれほど長くないものの最初から最後まで気が抜けないハードな練習で、道場には、真剣さ、厳しさ、熱さが漂い、道場生の強さへの憧れと探究心、モチベーションは高かった。
このビリー・ライレーのレスリングと精神が

カールゴッチ

アントニオ猪木

藤原喜明

佐山サトル

前田日明

高田延彦

と伝播していき、UWF誕生につながっていく。
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カール・ゴッチは、ベルギー生まれのドイツ育ち。
10代でレスリングを開始。
昼は鍛冶屋で働き、夜はジムでレスリングという生活をしていた。
第2次大戦中はナチス政権下のドイツで軍需工場で働き、事故で左手小指の大部分を失った。
終戦直前には、11ヵ月間、強制収容所に入れられ、1945年に終戦し解放されると再びレスリングに打ち込んだ。
1948年、24歳のとき、ロンドンオリンピックにフリースタイル、グレコローマンスタイル、両スタイルの87kg級ベルギー代表として出場し、共に予選落ち。
その後、プロの転向し、1950年、プロレスデビューし、ヨーロッパ各地でトーナメントへ参戦。
1951年、初めてビリー・ライレージムで練習し、最初のスパーリングで師範代のビリー・ジョイスにわずか1分程でサブミッションを極められてしまい、以後、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンを学んだ。
そして高いフィジカルとレスリング技術、オリジナルホールド「ジャーマン・スープレックス」でヨーロッパでトップレスラーとなり、1960年、アメリカへ進出した。

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しかしアメリカのプロレスは、純朴さを失っていた。
必要なのは強さや地味な寝技ではなく、体操のようなアクロバティックな動き、巨大な肉体とアスリート的身体能力によるアクション、派手なパフォーマンス。
仕事として試合をするプロレスラーにとって、大事なのはケガをしないことで、その技は、観客に
「死んでしまうのではないか」
と思わせながら、実際はできるだけ相手にダメージを与えないというのが理想的。
最強のレスラーがチャンピオンになると信じ、日々、トレーニング、練習、研究を怠らず、圧倒的な体力とレスリングとサブミッションの技術を持っていたカール・ゴッチは、自分より弱いレスラーに負けなければいけないことに嫌悪感と罪悪感を抱いた。
カールゴッチにとってレスリングは誇りであり、偉大な格闘技で、キング・オブ・スポーツだったが、アメリカのプロレスはビジネスで、契約して雇用されるプロレスラーは、雇い主に逆らえば解雇された。
客を喜ばそうとか相手に花を持たせようなど微塵も考えず、妥協も派手さもないゴッチのファイトスタイルは、一部のプロモーターから
「独り善がり」
「プロレスを理解していない」
と煙たがられた一方、その実力からファンに
「真のプロレスラーでありシューター」
と評価された。
アメリカでは賛否両論だった。
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カール・ゴッチは、1961年5月、来日できなくなったレスラーの代役として、力道山が設立した日本プロレスのリングで吉村道明に、(日本初の)ジャーマン・スープレックスを決めた。
観客は、その技の美しさと迫力に
「原爆固め」
と呼んだ。
その後、ゴッチはアメリカへ戻り、AWA世界ヘビー級王座を奪取。
しかし世界最強の男、NWA世界ヘビー級チャンピオン「鉄人」ルー・テーズには、タイトルマッチで9戦5敗4分、ノンタイトルマッチでも7戦7分と勝つことができなかった。
6回目のタイトルマッチでは、テーズにバックドロップをしかけられ、、わき固めにいこうとして体重をあずけ、テーズは肋骨を骨折。
翌日、見舞いにいったゴッチはテーズに
「なぜこんな馬鹿な真似をしたんだ!」
と怒られ
「無我夢中でやってしまった…」
と申し訳なさそうに答えた。
この後、テーズが戦線を離脱したため、興行的にも大きな損害が出て、ゴッチはプロモーターから恨まれた。
1966年にNWA世界王座から陥落したテーズは、
「ゴッチさえいなかったら私の王座は2年は長持ちしていた。
本当に恐ろしい男だった」
「私をもっとも苦しめた挑戦者」
とその実力を認めた。
しかし結局、カール・ゴッチは世界最強にはなれず「無冠の帝王」で終わった。
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1967年11月、ゴッチは再来日し、日本プロレスのコーチに就任。
東京、恵比寿に住み、渋谷のリキ・スポーツパレス(力道山が建てた総合スポーツレジャービル)で若手を徹底的に鍛えた。
ゴッチはすさまじいパワーとレスリング、関節技の技術、そしてさまざまなトレーニングメソッドを持ち
「プロレスの神様」
と呼ばれた。
このとき日本プロレスにアントニオ猪木がいた。
神奈川県横浜市鶴見区の生家は石炭問屋を営んでいたが、時代の流れで石炭から石油へ移行するとブラジルへ移住。
着いた翌日の5時、ラッパの音で叩き起こされ、17時まで12時間、コーヒー豆の収穫の仕事を行った。
「次の日から、希望に燃えた私たちを待っていたのは、過酷な奴隷労働であった。
1年半の契約期間中は何があってもこの農場で働き続けなければならないのである」
中には過酷な環境に逃亡を企てて撃ち殺される人たちもいたが、猪木は耐えた。
転機はサンパウロで興業を行っていた力道山の目に止まったこと。
「裸になれ」
といい、猪木の肉体に納得した力道山は
「よし、日本へ行くぞ」
家族には
「3年でモノにしてみます」
といい日本につれて帰った。
帰国すると力道山の付き人としての仕事と日本橋浪花町の力道山道場でのトレーニングが始まった。
日本プロレスの練習は半端なものではなく、スクワットによって流した汗が水溜りとなり、スタミナ強化のために締め切った道場で湯気となって漂った。
「常人では成しえないことを成すのがプロレスラー」
という力道山は、なにかあれば容赦なくゲキと竹刀を飛ばした。
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猪木は朝から夜の遊びまで力道山の付き人をさせられ、力道山はまるで目の仇のように厳しく育てた。
リングシューズを履かせ、
「(紐を掛け方が)違う」
と蹴飛ばし、普通の靴も
「履かせ方が悪い」
と殴った。
飼い犬を番犬として教育するための実験台にしたり、ゴルフクラブで側頭部を殴打したり、走っている車から突き落としたり、クラブでは灰皿を投げつけたり、一升瓶の日本酒を一気飲みさせたり
「声を出すなよ」
といってアイスピックで刺したり、素人に殴らせたりした。
猪木は本気で殺意を覚えたが耐え抜き、力道山が死去して3年後、東京プロレスを旗揚げ。
しかしし3ヵ月で破産。
ゴッチがやってきたのは猪木が日本プロレスに戻り、ジャイアント馬場とタッグを組んだ頃だった。
ゴッチは稀有な身体能力を持つアントニオ猪木に、ジャーマン・スープレックスや卍固めを教えた。
「君たち日本人の手で、本物のプロフェッショナル・レスリングを取り戻してほしい」
24歳のアントニオ猪木はゴッチの言葉を熱心に聞き、ゴッチイズムの継承者となっていく。
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「世界の荒鷲」「ビッグ・サカ」196cm、130kgの坂口征二は猪木より1つ歳上で、日本プロレスでは、ジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐスターだった。
明治大学柔道部で神永昭夫の指導を受け、大学で団体でも個人戦でも優勝し、旭化成に入った。
1964年の東京オリンピックでは日本代表候補だったが最後の夏合宿で腰を痛め、神永昭夫が決勝戦でオランダのアントン・ヘーシングに1本負けするのを間近で目撃。
「打倒ヘーシンク」に燃え、東京オリンピックの翌年、全日本大会で優勝し、世界選手権の決勝でヘーシングに優勢負け。
その後、ヘーシングが引退したためメキシコオリンピックに目標を切り替え、必死に練習したが、メキシコオリンピックで柔道競技は外されることが決まると
「8年も待てない」
と目標を失い稽古に身が入らなくなった。
そんなとき日本プロレスからスカウトを受け、旭化成を退職し入団した。
「すごく怒られてねえ。
明治大学柔道部のOB会なんて破門同様ですよ。
除名です。
明治大学の監督だった曽根康治さんとか神永昭夫さんとかにね、『お前、なに考えてるんだ!』って相当いわれたんですよ」
25歳の誕生日にジャイアント馬場と一緒にプロ入り記者会見をした坂口はカール・ゴッチにプロレスの基本を教わった。
「ゴッチさんの指導は厳しいけれど、すごく真っ直ぐな人でプロレスに対する考えをハッキリ持っている。
まあ頑固おやじという感じ。
あまりガアガアはいってこないですよ。
お前、出来ないんならいいよと突き放す感じで、来る者は拒まず、去る者は追わずという人だった。
だからみんな必死でついていくんです」
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1969年5月、日本プロレスとのコーチ契約が終わったゴッチはアメリカに帰国。
TVが普及し、ますますショーアップされたアメリカのプロレスとは合わず、自分のスタイルを変えることはできないゴッチはプロモーターからも敬遠され、ハワイへ移住。
ホノルルで、プロレスラーとして活躍したが、プロモーターとトラブルになり解雇され、ゴミ収集の仕事をした。
トレーニングのために車には乗らずに並走し、集積所につくとバケツの中のゴミを1人で収集車に放り込んだ。
仕事が終わると試合もないのにハードトレーニングをして、夜は早く寝た。
日本プロレスで営業部長だった吉原功(早稲田大学レスリング部出身、元プロレスラー)は、力道山の死後、独立して国際プロレスを設立し、日本プロレスに対抗していたが、ハワイでのゴッチの近況を聞くと
「もったいない」
と招聘を決めた。
1971年3月、46歳のゴッチは来日。
2m23cm、170kgモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)にジャーマン・スープレックスを決めた。
そしてアニマル浜口ら国際プロレス所属の日本人レスラーをスパーリングでおもちゃにして鍛えていった。
アニマル浜口は、暇さえあれば青山の国際プロレスのビルの地下で練習をするゴッチをみて
「プロレスの神様じゃなく練習の神様」
と思った。
「ゴッチさんはプロレス、いやレスリングといったほうがいいかな。
レスリングで勝つためにはどうしたらいいか、四六時中考えていました。
ヨガを研究するために古代インドの歴史やヒンドゥー教、さらにはアーユルヴェーダ(インドの伝統的医学)など、あらゆることを学んでいました。
また独自のトレーニング法も考えていて、日本のプロレス界にヒンズー・スクワットを本格的に教えたのはゴッチさんといわれています。
僕も勝つために『ヨガをやれ』といわれましたよ」
国際プロレスで再びプロレスラーとして再生したゴッチは、6年ぶりにアメリカのマットに復帰。
日本プロレスを追放され、新しい団体を立ち上げようとしていたアントニオ猪木は、ニュージャージまで行ってゴッチに協力を依頼した。
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