【小橋建太インタビュー(中編)】青春の握りこぶし「全力ファイト、自分を信じて」
2020年2月29日 更新

【小橋建太インタビュー(中編)】青春の握りこぶし「全力ファイト、自分を信じて」

幾多の怪我、病気を乗り越えて多くのプロレスファンを魅了し続けた「鉄人プロレスラー」小橋建太。波乱万丈なレスラー人生を不屈の精神で歩み続けた小橋さん、その真っ直ぐな生き方に迫ります。

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言われてみれば…。1993年からの世界最強タッグリーグ戦3連覇など、当時の小橋さんといえばすでにトップレスラーの一角という印象しかなかったですが、シングルマッチで他の3人に勝つまでに実に3年を要したのですね。
「1995年、阪神淡路大震災の2日後に大阪府立体育会館で戦い抜いた60分間(VS川田選手)。あのときもVS四天王戦では未だ未勝利だったんです。僕はずっと他の3人に勝てないことが葛藤でしたが、でもあの3年間、他の四天王に勝てない僕を批判するファンがいなかった。“負けた試合の方がインパクトがある”なんて声をかけ続けてくれました。だから自分はいつでもどこでも全力ファイトで、応援してくれるファンの気持に訴えかけるファイトをと頑張ることが出来たんです。」

小橋選手の「技」へのこだわり

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ところで剛腕ラリアットやマシンガンチョップなど、「剛」のファイティングスタイルが印象的な小橋さんですが、ムーンサルトプレスをはじめ、とくに全日本時代には様々な技を用いていました。ときとして川田選手からの“もっと技を大事にしろ”発言などありましたが、小橋さんの技へのこだわりをお聞かせ下さい。
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「試合の中で色んな技を試しながら自分に合う技を探していきました。試すのは試合でなければ意味がないと思うんです。いくら道場での練習で手応えがあったとしても、やっぱりファンのみんなが見ている前でやってみないと。例えばトップロープに登るにしても、誰も見ていない道場なら緊張もしないんです。でも観客の前で失敗出来ない緊張感、そんななかで技を使ってファンの反応を直接肌で感じ取る、そして自分に合っているかを査定する。そこからひとつひとつの技を自分のモノに磨いていったんです。」
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どの技が自分に合っているかをファンの反応で査定していく。小橋さんらしいエピソードです。そんな過程を経てあの剛腕ラリアットが生まれたんですね。
「ラリアットはスタン・ハンセンのオリジナルですが、自分にとってもこだわりの技になりました。膝への負担が物凄いムーンサルトプレスに代わる技が欲しかったころ、毎回試合でボコボコにされていたスタン・ハンセンを見て“どこか自分の方が勝っている部分はないだろうか”と。体は大きいし突進力は半端ない。ところが腕の太さだけは自分のほうが勝っている。そこからラリアットを練習し始めました。剥き出しの鉄柱に何度も打ち込んで、自分に合った間合いを考えて。」
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鉄柱に向ってラリアットですか!?
「はい。ある時、後楽園ホールでの試合前にジョーさん(ジョー樋口レフェリー)が“おい小橋、ハンセンが呼んでるぞ”と。そこでハンセン選手の控室に行ったんです。すると“小橋、お前がラリアットを使うのは分かった。ただラリアットは相手を一発で倒す技だということを忘れるな”と言われました。たしかにハンセン選手は2mをゆうに上回るアンドレ・ザ・ジャイアント選手を相手にしても、ラリアット一撃でその巨体を吹っ飛ばしていましたからね。ラリアットを使うことに対しての責任と覚悟を問われたわけです。だからこの技にはこだわりを持って本当に大切に使い続けました。」
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「こだわり続けた技といえばもうひとつ、チョップがあります。コンクリートの壁に向ってさんざんに打ち込んで練習したものです。試合では逆水平をはじめ様々な角度やシチュエーションで試しました。そんななかから生み出したのがマシンガンチョップです。後に肘を悪くして、医者の先生からマシンガンチョップだけは止めるようにと言われましたが“先生、お断りします”と。地方のファンは1年に1回、もしかすると数年に1回のチャンスを楽しみに会場に足を運んでくれる。そんなファンがマシンガンチョップを期待している、肘が壊れたってやりますよと言いました。」

エースとは何か

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「自分の体がどうなろうとも全力ファイトを見せる」そんな小橋さんを体現するようなエピソードがあります。1997年1月の大阪府立体育会館、当時三冠チャンピオンだった小橋選手が全日本プロレスのエースだった三沢選手を迎え撃った試合。この試合前、小橋さんはお母様に「オレに何があっても三沢さんを恨まないでくれ」と電話されたそうですね。
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「あの試合は“チャンピオン小橋VSエース三沢”だったんです。僕は当時チャンピオンだったけれども、世間は三沢さんが団体のエースという見方でした。エースとは何か。尊敬する三沢さんの大きさを知るには、チャンピオンとしてエースを迎え撃つ、チャンピオンとしてエースに挑むことが出来る唯一の機会でした。絶対に悔いのない試合をしたい、そんな思いでした。」
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このシチュエーションによく似た試合を憶えています。2005年、小橋選手がプロレスリング・ノアのチャンピオンであるGHCヘビー級王座のベルトを失った年の大一番、東京ドーム大会で佐々木健介選手とシングルマッチを行ったときの会場の雰囲気。あのときは場内の誰もが小橋選手をプロレスリング・ノアのエースとして見ていました。
「そういえばあの当時、準(秋山選手)が東スポの取材かなにかで僕のことを“絶対王者”と呼んだんです。近年、様々なジャンルで“絶対王者”と呼ばれて活躍している人がいますが、実は一番最初に呼ばれていたのは撲なんだよと、ちょっと誇りに感じています(笑。」

盟友、秋山選手のこと

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その秋山選手ですが、全日本プロレスからプロレスリング・ノアを通してまさに小橋さんの「盟友」だったように感じます。出会った当時の秋山選手の印象はいかがでしたか。
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