イギリス発のネオ・ロカビリーブームに乗るようにしてヒットした「ヒルビリー・バップス」。売れた期間は短かったが、ボーカルの突然の死とともに印象に残るバンドとなった。
また、個人的な思い出として、宮城の死は、彼の生前に某大物アーティストが「日本のロックなんてまだ誰も死んでないじゃないか。まだまだだよ」というような発言していたのとどうしても結びついてしまう。
また、宮城のファンだった小説家折原みとにより、彼をモデルにした「真夜中を駆けぬける」という小説が書かれている。
また、個人的な思い出として、宮城の死は、彼の生前に某大物アーティストが「日本のロックなんてまだ誰も死んでないじゃないか。まだまだだよ」というような発言していたのとどうしても結びついてしまう。
また、宮城のファンだった小説家折原みとにより、彼をモデルにした「真夜中を駆けぬける」という小説が書かれている。
メジャーデビュー前は硬派なロカビリーバンドだった
1983年4月結成。元々はジョニー・バーネット・トリオやジーン・ヴィンセント等のカバーを中心に演奏するロカビリーバンドであった。確かな演奏力に加え、人目を惹くメンバーの容姿の相乗効果で硬派・軟派の両方から支持された。インディーズ時代はライブハウスの動員記録を次々と塗り替える勢いがあった。
メジャーデビューでアイドル化?
1986年4月25日、シングル「微熱なキ・ブ・ン(とびきり16歳)」でキティレコード(現:ユニバーサルミュージック)からメジャーデビュー。同曲はライオンの制汗デオドラント“BAN16”のCM曲に起用されたこともあり、スマッシュヒット。好調なスタートを切った。
しかし、レコード会社の判断で当時人気のあった“アイドルバンド”と呼ばれるそれらに沿う売り出し方を余儀なくされ、硬派な印象の強いリーゼントを下ろし、衣装もポップなものを着せられた。撮影ではニコニコと作り笑いをし、歯を見せて笑わなければいけないことに釈然としない思いをしながらも、新人と言うこともあり「仕事だから」と割り切って淡々とこなしていった。
ヒルビリーバップス 微熱なキ・ブ・ン(とびきり16歳) - YouTube
メジャー・デビュー曲(1986年4月25日)
via www.youtube.com
忌野清志郎との出会いと楽曲の提供
この頃、ボーカルの宮城は忌野清志郎と意気投合し、セカンドシングル「バカンス」の楽曲提供を受ける。この曲は、のちに宮城の追悼コンサートで「いなくなったヤツよりも残された人のために」という名言とともに清志郎自身によって歌われている。また、忌野清志郎&RAZOR SHARPSのライブアルバム「HAPPY HEADS」にも収録されている。
バカンス / HILLBILLY BOPS - YouTube
セカンドシングル(1986年7月25日)
via www.youtube.com
順調なバンド活動と宮城個人の人気上昇、その裏に付き纏った過密スケジュール、そして。。。
メジャーデビュー2年目の1987年はレコーディング、全国ライブ、テレビ出演、映画出演(松本隆原作の『微熱少年』に宮城が出演)、地方キャンペーンと休む暇のない1年だった。10月からは、前年度放送された主演バラエティ番組が好評だったため、同じテレビ朝日で新番組『ヒルビリー・ザ・キッド』(1988年3月までの2クール)の放送が始まる。
この時期のスケジュールは過密であり(レギュラーテレビの収録、『ミュージックステーション』、『オールナイトフジ』などの生放送などテレビラジオ収録、学園祭出演、ワンマンライブ、東名阪札の地方キャンペーン、そして大晦日には名古屋にてオールナイトのライブイベント『ロックンロールバンドスタンド』出演)メディア露出も多かった。加えてレコーディングもこなし、極度のストレスを感じていたという。しかし、このすさまじい活動のおかげか、翌1988年早々に売り出した春の全国ツアーのチケットは最短5時間で完売。この人気に応えるべく、グループは急遽ミニアルバムのレコーディングに入り、約4週間で完成させた。
全国ツアー初日公演(1988年3月28日、日清パワーステーション)の翌日、3月29日、ボーカルの宮城宗典がビルから飛び降り自殺を図り、死亡。動機は未だ不明。予定されていた残りのツアーは全てキャンセル。3月31日に放送された主演テレビ番組『ヒルビリー・ザ・キッド』(3月5日に収録されたもの)の最終回は変更なく放映、深夜にも関わらず5.5%の視聴率を記録。番組の最後に「宮城君の愛した音楽は永遠に残ります」のテロップが映し出された。
ビシバシ純情!~HILLBILLY BOPS~ - YouTube
4枚目のシングル(1987年2月25日)。ダンロップCMのタイアップ曲でもあった。
via www.youtube.com
HILLBILLY BOPS【LIVE】僕たちのピリオド - YouTube
HILLBILLY BOPS LIVE at Maebashi Rattan, Gunma in 1987. JAPANESE ROCKABILLY.
なんとも意味深なタイトルとなってしまった5枚目のシングル(1987年5月25日)。
なんとも意味深なタイトルとなってしまった5枚目のシングル(1987年5月25日)。
via www.youtube.com
追悼コンサート
同年5月5日には日比谷野音で追悼ライブが行われ、以前より親交のあった音楽仲間や映画を通じて親しくなったミュージシャン(忌野清志郎、仲井戸麗市、BARBEE BOYSの杏子、エンリケ、MOJO-CLUB、THE REDSの大平太一、レピッシュのMAGUMI、元C-C-Bの関口誠人、UP-BEATの広石武彦、長島ナオトらなど多数)が参加した。
再スタート、解散、現在の状況
一年間の活動休止期間を経て、2代目Vo.横山裕高を迎え再始動するが、セールス的には宮城在籍時ほどの成功を収める事ができず、1990年5月5日の日比谷野外音楽堂でのライブを最後に解散。
バンド解散から14年後の2004年5月4日・5日、四谷フォーバレーにて2DAYSワンマン『HillbillyBops Mania Good Rock'in Tonight』を行った(メンバーはVo.横山 Gt.平野・佐藤 Ba.川上 Dr.小西 Sax.樋口)。9月には大阪・名古屋でコンサートも行われた(その後のライブに佐藤・小西は不参加。現在はサポートドラマーとして元MOJO CLUBの杉山章二丸がドラマーとして参加している)。
メンバー全員が社会人として働いており多忙であるため、ライブは数年に1回程度しか行われていないが2014年現在もバンド活動は継続中である。
via www.amazon.co.jp
Amazon.co.jp: HILLBILLY BOPS : TEAR IT UP - 音楽
¥
HILLBILLY BOPS TEAR IT UP -
デビューアルバム。4枚目までのシングルが全て収録されている。
デビューアルバム。4枚目までのシングルが全て収録されている。