山下達郎オールド・ポップス~シティ・ポップへ
山下達郎は、1973年22歳の時にシュガーベイブとしてデビュー。1976年にRCAレコードからアルバム「CIRCUS TOWN」でソロデビューした。1978年頃まで、まだ無名だった坂本龍一をキーボードに迎え東京都内のライブハウスに出演していた。1980年にマクセル・カセット・テープのTVコマーシャルのタイアップ曲「RIDE ON TIME」を発表。そのコマーシャルに山下自身が出演してブレイクした。
マクセルUDカセットテープCM (RIDE ON TIME 朝日篇)
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山下達郎の武勇伝!?「まりやは純潔だった!?」
1982年に山下達郎は竹内まりやと入籍した。当時、私が聴いていたラジオ番組で「まりやは、初めてだった(純潔だった)」と発言。まだインターネットが存在しなかった時代、炎上は起こらないものの物議を醸し出した。当時アイドル的な存在だった竹内まりやは、山下にとってトロフィーワイフだったのか?シティ・ポップ路線を走り出していた山下の生々しい言葉に絶句した。
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中森明菜「駅」酷評騒動
1986年にワーナー・パイオニアより中森明菜のアルバム「CRIMSON」がリリースされた。収録された「駅」を聞いた山下が、椎名和夫のアレンジや中森の楽曲に対する解釈や歌い方に憤慨し激怒した。
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『駅'97』中森明菜
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1987年に山下の妻・竹内まりやが「AFTER YEARS」と両A面シングルとして「駅」をセルフカバーして発売した。更に1991年にも「駅」をシングルとして再発され、合計10.7万枚を売り上げた。
山下達郎が、編曲:プロデュースした「駅」は、竹内の人気シングルナンバー1となり、同時に代表曲として認知されるようになった。
山下達郎が、編曲:プロデュースした「駅」は、竹内の人気シングルナンバー1となり、同時に代表曲として認知されるようになった。
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「駅」は、1986年に竹内まりやが作詞、作曲した中森明菜への提供曲だ。
竹内まりやがスタッフと中森のイメージにあった曲作りをして制作した作品に対し、山下が独自解釈でアレンジして妻を説得、レコーディングをしたのか。
竹内まりやがスタッフと中森のイメージにあった曲作りをして制作した作品に対し、山下が独自解釈でアレンジして妻を説得、レコーディングをしたのか。
駅 (The Station) - 竹内まりや (Mariya Takeuchi) 〔Live 2000〕
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そして、1994年に竹内まりやのベスト・アルバム『Impressions』のリリース、ライナーノーツに山下が登場「アイドル・シンガーがこの曲に対して示した解釈のひどさに、かなり憤慨した」。中森の名前を明示することは避けているが、アイドル歌手が明菜であることは明白だ。
すっかり忘れていたのだが、Impressions(竹内まりや)の中で山下達郎さんが書いている「駅」の解説を読んで衝撃を受けた。もちろん、中森明菜のことを言っているはず。CDを買って20年以上経ってから、新たなパンチを食らった感じ。 pic.twitter.com/KYisFfeQTW
— Kenzy (@KenzyPowell) February 21, 2016
山下達郎とジャニーズ事務所関係、そして、近藤真彦~中森明菜へ
翌1982年、RCAレコード(RVC株式会社)から独立した小杉理宇造氏と「アルファ・ムーン株式会社(現:ムーン・レコード)」設立。山下達郎は、1982年4月に発売されたシングル「あまく危険な香り」を最後にRCAから、ムーン・レコードに移籍した。
同年、山下は近藤真彦の7枚目のシングル「ハイティーン・ブギ」へ楽曲提供。山下はミーティングのためにジャニーズ事務所の合宿所を訪れたという。この頃から山下達郎とジャニース事務所との関係が始まる。
1984年にMoon Recordsを設立した小杉理宇造が、山下が所属する芸能プロダクション「スマイルカンパニー」の社長に就任した。
1986年中森明菜は、竹内まりや提供曲「駅」をワーナー・パイオニアより発売
1987年に竹内まりやが「駅」をセルフカバー発売。
1989年7月11日、中森明菜が、近藤真彦の自宅マンションの浴室で自殺を図る。
同年暮れに中森明菜と近藤真彦の“金屏風会見”が開かれる。
1991年に竹内まりや「駅」を再発売。
1994年、山下が竹内まりやのベスト・アルバムのライナーノーツにアイドル・シンガー(中森明菜)を酷評する。
1986年中森明菜は、竹内まりや提供曲「駅」をワーナー・パイオニアより発売
1987年に竹内まりやが「駅」をセルフカバー発売。
1989年7月11日、中森明菜が、近藤真彦の自宅マンションの浴室で自殺を図る。
同年暮れに中森明菜と近藤真彦の“金屏風会見”が開かれる。
1991年に竹内まりや「駅」を再発売。
1994年、山下が竹内まりやのベスト・アルバムのライナーノーツにアイドル・シンガー(中森明菜)を酷評する。