沖縄浦添市出身でハーフの野球選手 デニー友利
1967年9月21日生まれ。沖縄県浦添市出身。
日本名は「友利 結(ともり ゆい)」、アメリカ名はローレンス・フランクリン・デニー。
友利とは母親の姓であり、デニーとは父親の姓である。
高校時代に日本に帰化し、友利結と名乗る。
結という字が起承転結の「結」ことで縁起が悪いとされデニー友利という登録名にした。
※本稿ではデニー友利の呼称で統一する。
日本名は「友利 結(ともり ゆい)」、アメリカ名はローレンス・フランクリン・デニー。
友利とは母親の姓であり、デニーとは父親の姓である。
高校時代に日本に帰化し、友利結と名乗る。
結という字が起承転結の「結」ことで縁起が悪いとされデニー友利という登録名にした。
※本稿ではデニー友利の呼称で統一する。
via jumbow.main.jp
【個人データ】
・身長 191cm
・体重 88 kg
・投手
・右投げ右打ち
・1986年 ドラフト1位(横浜大洋ホエールズ入団)
・1987年10月8日初出場
・2007年10月4日最終出場
・身長 191cm
・体重 88 kg
・投手
・右投げ右打ち
・1986年 ドラフト1位(横浜大洋ホエールズ入団)
・1987年10月8日初出場
・2007年10月4日最終出場
≪小学校~ドラフトで指名されるまで≫
小学生時代に野球を始め、常に投手を務めた。
野球の強豪校、興南高校に進学後は、後にNPB公式審判員となる名幸一明とバッテリーを組んでいた。
1986年度のドラフト会議で、横浜大洋ホエールズから阿波野秀幸のハズレ1位で指名を受けて入団。背番号は30だった。
プロに指名されなければ松下電器野球部に入団予定で、後にチームメイトになる潮崎哲也、原井和也とは顔合わせなどでプロ入団前から面識があった。
ちなみに名幸一明も横浜大洋ホエールズにドラフト外で入団。
一軍での出場がないまま1995年に現役引退し、チームに残りブルペン捕手を務めていた。
野球の強豪校、興南高校に進学後は、後にNPB公式審判員となる名幸一明とバッテリーを組んでいた。
1986年度のドラフト会議で、横浜大洋ホエールズから阿波野秀幸のハズレ1位で指名を受けて入団。背番号は30だった。
プロに指名されなければ松下電器野球部に入団予定で、後にチームメイトになる潮崎哲也、原井和也とは顔合わせなどでプロ入団前から面識があった。
ちなみに名幸一明も横浜大洋ホエールズにドラフト外で入団。
一軍での出場がないまま1995年に現役引退し、チームに残りブルペン捕手を務めていた。
≪大洋・横浜時代時代≫
新人ながら1987年の終盤に初登板・初先発を果たす。
しかし、身体能力はピカイチだったものの入団後は伸び悩み、特に制球が全く定まらず、一時は任意引退選手となって支配下登録から外れたこともあった(現在で言う育成落ちに近い処置)。
投球フォームを試行錯誤しながら改善させていく。オーバースローを止め、サイドスローでの投球フォームに固定してからは、長年指摘され続けていた制球力の悪さが改善され、潜在能力を開花させることになる(類似の例に角盈男などがいる)。
しかし、身体能力はピカイチだったものの入団後は伸び悩み、特に制球が全く定まらず、一時は任意引退選手となって支配下登録から外れたこともあった(現在で言う育成落ちに近い処置)。
投球フォームを試行錯誤しながら改善させていく。オーバースローを止め、サイドスローでの投球フォームに固定してからは、長年指摘され続けていた制球力の悪さが改善され、潜在能力を開花させることになる(類似の例に角盈男などがいる)。
1995年に登録名を日本名の友利結からデニー友利に変更。
同年10月6日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)で4番手として登板し、その後チームが逆転したため9年目にして初勝利を挙げる。
翌7日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)では3番手として登板して試合を締めくくり、初セーブを挙げた。
≪西武ライオンズ時代≫
1997年には本人の志願、当時の西武監督東尾修の希望もあり、長見賢司との交換トレードで西武ライオンズに移籍した。登録名はデニーとなった。
西武では、同じサイドスローの鹿取義隆や潮崎哲也の助言を受けて、セットアッパーとして成長。チームの勝利に貢献していく。
また、当時の東尾修監督から「どうせお前のコントロールなんて大したことないんだから、全力で真ん中に投げろ。そうすりゃ勝手にどっちかに散るわい」、「細かい事を気にするな。お前のストレートはど真ん中でも打たれない。」などと言われたことでピッチングのコツをつかんだという。
西武では、同じサイドスローの鹿取義隆や潮崎哲也の助言を受けて、セットアッパーとして成長。チームの勝利に貢献していく。
また、当時の東尾修監督から「どうせお前のコントロールなんて大したことないんだから、全力で真ん中に投げろ。そうすりゃ勝手にどっちかに散るわい」、「細かい事を気にするな。お前のストレートはど真ん中でも打たれない。」などと言われたことでピッチングのコツをつかんだという。
右の中継ぎ投手としてチームに欠かせない存在となったデニー友利は、同年及び翌1998年のリーグ連覇にも大きく貢献。1998年にはオールスターゲーム出場も果たした。
1998年の古巣・横浜ベイスターズとの日本シリーズでは横浜スタジアムでの1戦目と西武ドームでの3戦目に登板。
この際、同僚からも対戦相手ながら声をかけられたり、登板時に横浜ファンからも声援があった。登板2試合でいずれも好投。
以降も平均50試合を投げ、チームの戦力的・精神的支柱な存在になった。
1998年の古巣・横浜ベイスターズとの日本シリーズでは横浜スタジアムでの1戦目と西武ドームでの3戦目に登板。
この際、同僚からも対戦相手ながら声をかけられたり、登板時に横浜ファンからも声援があった。登板2試合でいずれも好投。
以降も平均50試合を投げ、チームの戦力的・精神的支柱な存在になった。
タフィ・ローズが捕手・伊東勤に強烈タックル!デニー友利が激怒!
気性が激しく、有名なのは、1998年4月の対近鉄戦でタフィ・ローズがホーム突入時に捕手伊東勤に無茶なタックルをし、デニーがローズに激怒、ローズも応戦しその場で殴りあいになり乱闘になった。
その際に須藤豊、中村紀洋らに必死に止められていたにも関わらず大暴れし、ローズに向かって「Fuck you!!」など暴言を連発し、ローズだけでなくフィル・クラークからも怒りを買った。
【プロ野球】 デニー友利 vs タフィ・ローズ
1:34~ デニー友利の投球から乱闘までの一連のシーン
via www.youtube.com