1998年、まゆみっちとつき合い始めた内藤大助は、2度(現在は3度)までエントリーが許される新人王トーナメントに再チャレンジ。
4月23日、1R 1分45秒KO
6月30日、1R 1分24秒TKO
8月7日、1R 2分20秒KO
9月28日、4R判定
と勝ち進み、決勝進出。
北海道の新聞「室蘭民報」が、それを取り上げ、それを読んだ人が
「息子さんのことじゃないのかい?」
と聞くと、母親はそっけなく、
「はあ、まあ、そうです」
それはすぐに人口5000人ほどの小さな田舎町に知れ渡り「内藤大助後援会」が発足。
11月、内地で行われた決勝戦に、母親と再婚した父親と一緒に応援に駆けつけた。
これまでは4ラウンドだったが、決勝戦は6ラウンドで行われ、スタミナに自信がない内藤大助は、
「早く倒せばいいや」
と思いながらリングイン。
実は身長が
「161㎝なんぼ」
と161㎝台の内藤大助は、少し盛ったりサバを読んで164㎝や165㎝と試合登録していたが、決勝戦の相手は177㎝。
「ガンガン前に来られるより、距離をとってくる相手のほうがやりやすい」
という内藤大助にとって177cmの相手はやりやすい方だったが、あまりの懐の深さにパンチが届かない。
結局、まったく早く倒せず、6ラウンドの接戦の末、
「ギリギリで」
判定勝ち。
こうして東日本フライ級新人王になった1ヵ月後の12月、全日本フライ級新人王決定戦が行われた。
相手の西日本新人王は大阪帝拳所属で、試合前に写真をみると眉毛がなく、
「ヤンキーだ!」
と驚いたが、1Rにいきなり2度のダウンを奪ってKO勝ち。
24歳にして4回戦ボクサーの頂点、全日本新人王となった。
4月23日、1R 1分45秒KO
6月30日、1R 1分24秒TKO
8月7日、1R 2分20秒KO
9月28日、4R判定
と勝ち進み、決勝進出。
北海道の新聞「室蘭民報」が、それを取り上げ、それを読んだ人が
「息子さんのことじゃないのかい?」
と聞くと、母親はそっけなく、
「はあ、まあ、そうです」
それはすぐに人口5000人ほどの小さな田舎町に知れ渡り「内藤大助後援会」が発足。
11月、内地で行われた決勝戦に、母親と再婚した父親と一緒に応援に駆けつけた。
これまでは4ラウンドだったが、決勝戦は6ラウンドで行われ、スタミナに自信がない内藤大助は、
「早く倒せばいいや」
と思いながらリングイン。
実は身長が
「161㎝なんぼ」
と161㎝台の内藤大助は、少し盛ったりサバを読んで164㎝や165㎝と試合登録していたが、決勝戦の相手は177㎝。
「ガンガン前に来られるより、距離をとってくる相手のほうがやりやすい」
という内藤大助にとって177cmの相手はやりやすい方だったが、あまりの懐の深さにパンチが届かない。
結局、まったく早く倒せず、6ラウンドの接戦の末、
「ギリギリで」
判定勝ち。
こうして東日本フライ級新人王になった1ヵ月後の12月、全日本フライ級新人王決定戦が行われた。
相手の西日本新人王は大阪帝拳所属で、試合前に写真をみると眉毛がなく、
「ヤンキーだ!」
と驚いたが、1Rにいきなり2度のダウンを奪ってKO勝ち。
24歳にして4回戦ボクサーの頂点、全日本新人王となった。
via pixabay.com
初タイトル獲得後、後援会が北海道で祝勝会を開催。
内藤大助は、控室で待っている間、隙間から会場をチェック。
すると中学時代に散々イジメられた「アイツ」がいた。
ここまで9勝1分、無敗のチャンピオンは、急に
(なんで!)
(どうしよう)
とオロオロ。
ツラい思い出が蘇り、逃げ出したくなったが、
(こういう日が来たときのためにボクシングを始めたんじゃないか。
アイツらに仕返ししたい、そう思い続けて頑張ってきたんじゃないか)
と自分を奮い立たせ、
(今日、仕返しするんだ)
と決めた。
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いよいよ祝勝会が始まり、司会者に
『全日本新人王、内藤大助さんです!』
とコールされ、拍手が鳴る中、
「リングに上がるときより、さらに覚悟を決めて」
舞台へ。
マイクを握り、感謝を述べ、舞台を降りると各テーブルを回って挨拶。
すると不意にアイツが近寄ってきた。
手には、
『元イジメられっ子、全日本新人王に!』
という見出しがついた新聞記事を持っていて、
「おう、お前さ、ここに中学時代にイジメに遭ったって書いてあるけど、お前をイジメてたヤツって誰だ?」
内藤大助は心臓がバクバクさせながら、思い切って、
「お前だよ!」
するとアイツは、ショックを受けた様子で、暗い顔になり、
「やっぱりオレのことかぁ・・」
この瞬間、内藤大助の中で何かが弾け、これまで心に抱えていた昔のトラウマが一瞬で消えた。
「そのときすべてが許せたんだ」
アイツも、この後、内藤大助の試合を観に行くなど応援するようになった。
幼い頃の苦い記憶に長い間、苦しみ
「このままでいたくない」
という気持ちが原動力となって、強さを求め、ボクシングジムに入り、、日本フライ級チャンピオン、東洋太平洋フライ級チャンピオン、WBC世界フライ級にまでなった内藤大助だが、
「結局、弱い自分が自分の中からなくなることはなく、常に弱い自分と必死に戦うしかなかった」
という。
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🥊 👊 2025/4/16 16:23
チャンピオンは幼少期いじめにあったり家庭が不和の環境も多い