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こうして内藤大助は、東京の北部、足立区と葛飾区に隣接する埼玉県八潮市の兄のマンションへ転がり込んだ。
兄は、内装会社に勤めていて、
「やりたい仕事が見つかるまでは俺が働いている会社で手伝ってもらうぞ」
といわれ、上京した翌日から、内装会社の中にある木工所でアルバイトとして働いた。
8時半~17時半まで、資材を運んだり、掃除をしたり、住宅や店舗に必要な建具や什器をつくる職人の手伝いを行った。
「現場に出ると徹夜で作業することもあった。
見習いとして大工仕事をやっていくうちに意外と木材の加工という仕事が楽しく感じられて、ほかに何かやりたいこともないので、しばらく続けていく気になっていた」
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ある日、本屋でスポーツ雑誌を立ち読みしていると、ある記事が目に飛び込んできた。
それは兄のマンションの最寄り駅、綾瀬駅のそばにあるボクシングジムの記事で、見た瞬間、
「ドクンッ」
と心臓が鳴った。
それまでボクシングに興味を持ったことは1度もなく、ボクシングジムというものもみたことがなかったが、「ボクサー=強い」というイメージがあった。
「たとえどこにいたって、結局、僕はイジメられっ子のままだった。
強くなって自分をイジメた同級生たちを見返したい」
それは強烈かつ切実な思いで、翌日、木工所の仕事が終わると、さっそく雑誌に載っていたボクシングジムへ。
勇気を出して扉を開けると中は狭く、小さなリングとサンドバッグが3つ、ブラ下がっているだけ。
そして人間は、会長らしき人と練習生が2人いるだけだった。
「あの、見学させてもらえますか?」
「はい、どうぞ」
会長らしき人は笑顔でいった。
その後、3人の練習を見学し、申込書をもらって帰り、翌日に入会。
木工所の仕事を終えてからジムに通う毎日が始まった。
それは兄のマンションの最寄り駅、綾瀬駅のそばにあるボクシングジムの記事で、見た瞬間、
「ドクンッ」
と心臓が鳴った。
それまでボクシングに興味を持ったことは1度もなく、ボクシングジムというものもみたことがなかったが、「ボクサー=強い」というイメージがあった。
「たとえどこにいたって、結局、僕はイジメられっ子のままだった。
強くなって自分をイジメた同級生たちを見返したい」
それは強烈かつ切実な思いで、翌日、木工所の仕事が終わると、さっそく雑誌に載っていたボクシングジムへ。
勇気を出して扉を開けると中は狭く、小さなリングとサンドバッグが3つ、ブラ下がっているだけ。
そして人間は、会長らしき人と練習生が2人いるだけだった。
「あの、見学させてもらえますか?」
「はい、どうぞ」
会長らしき人は笑顔でいった。
その後、3人の練習を見学し、申込書をもらって帰り、翌日に入会。
木工所の仕事を終えてからジムに通う毎日が始まった。
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母親にはボクシングのことは内緒にしていたが、電話で
「スポーツジムに通うことにしたんだわ」
とちょっとだけ報告。
「何のジム?」
「いや、その・・」
「まさかボクシングじゃないだろうね」
「・・・・・(なんて勘がいいんだ!)」
「殴り合いさせるために東京にやったわけじゃない!
お前はどこかの料理店に住み込みして、料理の勉強をしてくるんだ!
調理師になるんだよ!!」
「はあ?
なにそれ?」
母親が、民宿を継がそうとしていることに気づいた内藤大助は、その後、電話をせず、母親も電話をしてこず、少しの間、冷戦が続いた。
「スポーツジムに通うことにしたんだわ」
とちょっとだけ報告。
「何のジム?」
「いや、その・・」
「まさかボクシングじゃないだろうね」
「・・・・・(なんて勘がいいんだ!)」
「殴り合いさせるために東京にやったわけじゃない!
お前はどこかの料理店に住み込みして、料理の勉強をしてくるんだ!
調理師になるんだよ!!」
「はあ?
なにそれ?」
母親が、民宿を継がそうとしていることに気づいた内藤大助は、その後、電話をせず、母親も電話をしてこず、少しの間、冷戦が続いた。
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「ただ強さだけを求めてボクシングジムの門を叩いた」
という内藤大助は、木工所の仕事を辞めて転職し、ボクシングジムに近い場所で1人暮らしを開始。
ボクシングに打ち込んだが、大きな悩みがあった。
ジムにいる練習生は、いついっても1人か2人。
会長は不在が多く、おじいちゃんトレーナーが1人いるだけ。
おじいちゃんは、元ボクサーで現役の中古車販売店経営者。
いつも目を細めながら自分の店の帳簿をみていて、トレーナーというよりは留守番だった。
内藤大助は、あまり指導してもらえないまま、先輩のマネをしながら練習したが
「これじゃ強くなれないんじゃないか?」
という不安があった。
そんな中、ジム仲間との会話で
「宮田ジムは、4回戦無敵っていわれてるんだよね」
と聞き、「宮田ジム」の存在を知った。
プロボクシングは、デビュー戦は4回戦(4ラウンド)で試合が行われる。
4回戦で4勝すれば、6回戦(6ラウンド)、6回戦で2勝すれば、8回戦以上(8ラウンド以上)の試合に出場できるようになり、日本タイトルマッチは、10回戦(10R)、東洋太平洋や世界タイトルマッチは、12回戦(12R)で行われる。
だから「4回戦無敵」とは、有望な新人選手を多いということで、内藤大助はボクシング雑誌で、
「日本スーパーバンタム級1位 真部豊(宮田ジム)」
という文字を見つけるなどして、宮田ジムという名前が頭から離れなくなった。
という内藤大助は、木工所の仕事を辞めて転職し、ボクシングジムに近い場所で1人暮らしを開始。
ボクシングに打ち込んだが、大きな悩みがあった。
ジムにいる練習生は、いついっても1人か2人。
会長は不在が多く、おじいちゃんトレーナーが1人いるだけ。
おじいちゃんは、元ボクサーで現役の中古車販売店経営者。
いつも目を細めながら自分の店の帳簿をみていて、トレーナーというよりは留守番だった。
内藤大助は、あまり指導してもらえないまま、先輩のマネをしながら練習したが
「これじゃ強くなれないんじゃないか?」
という不安があった。
そんな中、ジム仲間との会話で
「宮田ジムは、4回戦無敵っていわれてるんだよね」
と聞き、「宮田ジム」の存在を知った。
プロボクシングは、デビュー戦は4回戦(4ラウンド)で試合が行われる。
4回戦で4勝すれば、6回戦(6ラウンド)、6回戦で2勝すれば、8回戦以上(8ラウンド以上)の試合に出場できるようになり、日本タイトルマッチは、10回戦(10R)、東洋太平洋や世界タイトルマッチは、12回戦(12R)で行われる。
だから「4回戦無敵」とは、有望な新人選手を多いということで、内藤大助はボクシング雑誌で、
「日本スーパーバンタム級1位 真部豊(宮田ジム)」
という文字を見つけるなどして、宮田ジムという名前が頭から離れなくなった。
ある日、ジムの先輩がいった。
「明日、宮田ジムに出稽古に行くんだ」
その人は、ジムで唯一の6回戦ボクサー。
明治大学を卒業し、教員免許を持っているのに、あえてボクシングの道を選び、
「日本ランキングに入るのが夢なんだ」
といっており、勉強が苦手で母親に
「バカ」
「頭が足りない」
といわれ続けた内藤大助にとって衝撃的な生き方をしている人物。
そんな先輩が出稽古にいった後、右目に大きな内出血がつくりながら、
「いやあ、東日本新人王の決勝までいった、すごいパンチを持ったヤツがいてさ」
と話し、内藤大助の宮田ジムに対する興味は、ますます高まった。
「明日、宮田ジムに出稽古に行くんだ」
その人は、ジムで唯一の6回戦ボクサー。
明治大学を卒業し、教員免許を持っているのに、あえてボクシングの道を選び、
「日本ランキングに入るのが夢なんだ」
といっており、勉強が苦手で母親に
「バカ」
「頭が足りない」
といわれ続けた内藤大助にとって衝撃的な生き方をしている人物。
そんな先輩が出稽古にいった後、右目に大きな内出血がつくりながら、
「いやあ、東日本新人王の決勝までいった、すごいパンチを持ったヤツがいてさ」
と話し、内藤大助の宮田ジムに対する興味は、ますます高まった。
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ジムに入って11ヵ月後、プロテストを受けるよう勧められた内藤大助は、
「スパーリングさえ、まともにしてないのに・・・」
と動揺した。
これまでスパーリングをしたのは、2、3回。
以前から
「このジムでは強くなれそうにない」
と思っていたが、ここに来て、
「プロテストを受ける前にジムを移ろう」
と決意。
内藤大助は、他のジムをみて回り、4つ目に訪れたのが、東京都葛飾区立石にある宮田ジムだった。
中に入ると、ちょうどスパーリングが始まった。
それは練習なのに本気の殴り合いで、あまりの迫力に息を飲んでみていると
「ストップ、ストップ」
といかつい顔をしたジムの人が割って入り、目尻が切れたボクサーの顔を覗き込んで、
「あ~、こりゃ縫わなきゃダメだな。
今から病院行ってこい。
なに大丈夫だって。
2、3針縫えばくっつくからよ」
「スパーリングさえ、まともにしてないのに・・・」
と動揺した。
これまでスパーリングをしたのは、2、3回。
以前から
「このジムでは強くなれそうにない」
と思っていたが、ここに来て、
「プロテストを受ける前にジムを移ろう」
と決意。
内藤大助は、他のジムをみて回り、4つ目に訪れたのが、東京都葛飾区立石にある宮田ジムだった。
中に入ると、ちょうどスパーリングが始まった。
それは練習なのに本気の殴り合いで、あまりの迫力に息を飲んでみていると
「ストップ、ストップ」
といかつい顔をしたジムの人が割って入り、目尻が切れたボクサーの顔を覗き込んで、
「あ~、こりゃ縫わなきゃダメだな。
今から病院行ってこい。
なに大丈夫だって。
2、3針縫えばくっつくからよ」
メンタルを強くする指導術 ~宮田 博行のメンタル・トレーニング~ Disc1
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それをみて内藤大助は
「これだ!
僕が求めていたのは!」
と直感。
宮田ジムは、練習生の数も、ジムの活気も、指導者も、すべてが違っていた。
さっそく入会申込用紙をもらい、さらに会長に挨拶することに。
さっきのいかつい顔をした人が会長だと思っていたが、
「こんにちは~」
と明るく甲高い声でいいながらやってきたのは、人懐っこい顔をしていた男性で、、
(さっきからニコニコしながらジムをチョコチョコ歩いていたこの小っちゃい人が会長?)
と驚いた。
宮田博行会長は、内藤大助より8歳上。
東京出身で墨田区の白髭橋を渡った先の向島にあった墨東ジムでボクシングを開始。
狭いため、正方形ではない手作りのリングが置かれた墨東ジムは、立地といい建物といい、
「泪橋を逆に渡り、明日の栄光を目指して」
というセリフで有名な「あしたのジョー」の丹下ジムにソックリ。
結局、会長が自殺したことで閉鎖となった墨東ジムは、独特の雰囲気があったが、宮田会長は大きな声で挨拶をし、周りを明るくしながら練習。
ヘビー級の体格の相手にTシャツを血に染めながらスパーリングし、練習後、Tシャツを搾ると汗と血が混ざったものが滴った。
高校生でプロデビューし、3R KO勝ち。
その後、全日本新人王になり
「天才現役高校生ボクサー」
といわれたが、網膜剥離のために20歳で引退を余儀なくされ、21歳で宮田ジムを設立。
1年365日、必ずジムに出て、14~16時と18~23時の練習時間に必ずミットを持つ宮田会長は、映画「ゴッドファーザー」が大好きで尊敬する人は、ラッキー・ルチアーノ。
座右の銘は「花己れの美しさを知らず、されば奥床し」
顔だけでなく考え方も柔軟で、私語をするのがためらわれるような雰囲気のボクシングジムもあるが、練習中、会長自らもジョークを連発させながら明るく練習。
かつ
「みんなが主役」
という考え方のもと、プロボクサー、プロ志望はもちろん、女性から子供まで幅広い練習生と、その目標を
「カラダ的にはキツいけど、精神的には楽しい」
という練習方法でサポートした。
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「明日から来ます」
内藤大助はそういって宮田ジムを出て、元のジムの会長に話をして移籍を認めてもらった。
宮田ジムに入門すると経験者ということで、
「どれくらいやるかみてやる」
といわれ、いきなりスパーリングで力量を試された。
相手は、元ムエタイ王者のタイ人。
宮田会長に
「大丈夫、大丈夫。
絶対に手を出せないから」
といわれ、内藤大助は
「一方的に殴っちゃっていいんですか?」
「そう。
でもまず当たらないから」
しかし内藤大助のパンチは、ヒット。
驚いた宮田会長は、別の日に1階級上の6回戦ボクサーのスパーリング相手に内藤大助を抜擢した。
プロで何戦もしていて、自分より体重が重い相手に内藤大助が恐怖を感じていると、いかつい顔をしたトレーナーが
「手加減してくれるから大丈夫だよ」
しかしラウンド開始のブザーがなった直後、
「パンッ」
という破裂音がして
「アレッ」
と思った瞬間、膝の力がスッと抜け、内藤大助はリングにうずくまった。
破裂音はボディを打たれた音で、息が詰まって呼吸がしたくても苦しくてできず、のたうちまわった。
「しょうがねえなあ」
いかつい顔をしたトレーナーは、そういって内藤大助を抱えるようにしてリングから下ろした。
このボディブローは、内藤大助のボクサー人生で、最も痛かったことランキングで3位に入る出来事となった。
ちなみに2位は、眼球パンチ(眼球にパンチをもらったとき)
1位は、バッティングをもらって折れた鼻を鉄の棒を突っ込んで治したときだった。
内藤大助はそういって宮田ジムを出て、元のジムの会長に話をして移籍を認めてもらった。
宮田ジムに入門すると経験者ということで、
「どれくらいやるかみてやる」
といわれ、いきなりスパーリングで力量を試された。
相手は、元ムエタイ王者のタイ人。
宮田会長に
「大丈夫、大丈夫。
絶対に手を出せないから」
といわれ、内藤大助は
「一方的に殴っちゃっていいんですか?」
「そう。
でもまず当たらないから」
しかし内藤大助のパンチは、ヒット。
驚いた宮田会長は、別の日に1階級上の6回戦ボクサーのスパーリング相手に内藤大助を抜擢した。
プロで何戦もしていて、自分より体重が重い相手に内藤大助が恐怖を感じていると、いかつい顔をしたトレーナーが
「手加減してくれるから大丈夫だよ」
しかしラウンド開始のブザーがなった直後、
「パンッ」
という破裂音がして
「アレッ」
と思った瞬間、膝の力がスッと抜け、内藤大助はリングにうずくまった。
破裂音はボディを打たれた音で、息が詰まって呼吸がしたくても苦しくてできず、のたうちまわった。
「しょうがねえなあ」
いかつい顔をしたトレーナーは、そういって内藤大助を抱えるようにしてリングから下ろした。
このボディブローは、内藤大助のボクサー人生で、最も痛かったことランキングで3位に入る出来事となった。
ちなみに2位は、眼球パンチ(眼球にパンチをもらったとき)
1位は、バッティングをもらって折れた鼻を鉄の棒を突っ込んで治したときだった。
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見事にプロの洗礼を浴びた内藤大助だが、心の中は、
「やっとやりたいものを見つけた」
とウキウキ。
宮田ジムに通っているうちに自然と仲間が増え、夢中で練習していると自分でも上達していくのがわかった。
宮田ジムに入って数ヵ月後、プロテストを受けた。
後楽園ホールのリングで行われる3分×2ランドのスパーリングテストは、1分もたたないうちに相手をノックダウンさせてしまい、レフリーの指示で残り時間はシャドーボクシング。
テスト終了後、宮田会長に
「スパーリングはよかったけどシャドーはタコ踊りみたいだったから落ちたかもな」
と脅されたが、合格だった。
内藤大助デビュー戦 対 西野龍三 1996/10/11
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プロテストに受かると、すぐにデビュー戦が決定。
ヘッドギアなし。
練習用のものより小さく、いかにも効きそうなグローブ。
しかもボクシングの聖地、後楽園ホールでお金を払って観に来ている人の前で戦うのである。
そんな過度なプレッシャーの中、リングイン。
内藤大助は20歳でボクシングを始め、22歳とかなり遅咲きのデビュー戦だったが、相手も、これがデビュー戦。
宮田会長に
「絶対にKOしろ」
といわれていた内藤大助は、もみ合いになってレフリーのブレイクで離れた後、
「プロボクサー同士、普通に打っても当たらない。
じゃあどうする?
やっぱりフェイント。
フェイク、フェク」
という内藤大助は、いかにも左でボディを打つと見せかけ、相手の意識を下に向けさせ、右を顔面に叩き込み、ダウンを奪った。
相手は立ち上がったが、打ち合いで内藤大助のパンチがヒットしたのをみて、レフリーが試合をストップ。
デビュー戦を、1ラウンド55秒でKO勝ち。
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