井上尭之バンドとは、第23回NHK紅白歌合戦(昭和47年)に初出場となった沢田研二専属バックバンドを担当。これこそが歌手が専属バンドを率いる最初の形となり、現代におけるバックバンドスタイルの基本となる。
クレジットでは『ザ・いのうえバンド』となっていた。
それに至るまでは、グループサウンズ時代含む数々の活動、歴史、想いがあり、
それら全てが凝縮し、新しいスタイルへの扉を開き続けた事には間違いない。
決して前には出ないが、アーティストを支えそして新時代をプロデュースしていく井上氏。
それを裏付ける様に数々の映画やドラマの主題歌なども手掛け、
確実に世の人々の記憶の中に音楽、メロディーを残していく。
当時、「ロックがロックであるのか」と、問いかけられる音楽シーンで、最も重要な時代であった中、
筆者が一番印象に残っている井上氏のTV番組での一言がある。
「否定があって肯定の時代がくる」
沢山揉めて、泣いたり、飲み明かしたり。
何事も乗り越えてこそ、新しいスタイルが生まれるのであろう。
クレジットでは『ザ・いのうえバンド』となっていた。
それに至るまでは、グループサウンズ時代含む数々の活動、歴史、想いがあり、
それら全てが凝縮し、新しいスタイルへの扉を開き続けた事には間違いない。
決して前には出ないが、アーティストを支えそして新時代をプロデュースしていく井上氏。
それを裏付ける様に数々の映画やドラマの主題歌なども手掛け、
確実に世の人々の記憶の中に音楽、メロディーを残していく。
当時、「ロックがロックであるのか」と、問いかけられる音楽シーンで、最も重要な時代であった中、
筆者が一番印象に残っている井上氏のTV番組での一言がある。
「否定があって肯定の時代がくる」
沢山揉めて、泣いたり、飲み明かしたり。
何事も乗り越えてこそ、新しいスタイルが生まれるのであろう。
1971年4月に、ザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・テンプターズの元メンバーで結成されたロックバンド、「PYG」から発展した。「PYG」時代から、リードボーカルで当時俳優として評価され始めていた萩原健一が参加できないときに、もう一人のリードボーカル沢田研二を前面に配した形で「沢田研二と井上堯之グループ」または「沢田研二と井上堯之バンド」と名乗り、その名義でのレコードも発売されている(沢田研二初リサイタルライヴ盤や、シングル「許されない愛」「あなただけでいい」など)。
「井上堯之バンド」初期の代表曲「太陽にほえろ!のテーマ」をはじめとする『太陽にほえろ!』サウンドトラックの楽曲も、マスターテープの箱ラベルには「アーティスト:PYG」と記載されている。
また、一時期(1975年9月~1976年10月)に「井上堯之とウォーターバンド」という名義を用いての活動を短期間ながら行っていた
井上尭之バンドの流れと移り変わり
1960年代はグループサウンズ。1970年前半にはそれらのバンドメンバーの有志でPYG(ピッグ)と言うロックバンドを結成した。
その中で一緒に組んでいた沢田研二そして萩原健一が俳優、歌手として独立した為PYGを脱退し、井上堯之、大野克夫、岸部一徳、原田裕臣の残った4人で晴れて井上堯之バンド結成となる。後の記事には残してあるが、映画のサントラや沢田研二のバックバンドとして、一世を風靡する。
1974年にて速水清司、田中清司の両名が加入となる。
(画像はその頃の写真)
翌年には岸部が脱退し、俳優に転向となる。
その際に『岸部一徳』として活動。
惜しまれながらも1980年に解散となる。
その中で一緒に組んでいた沢田研二そして萩原健一が俳優、歌手として独立した為PYGを脱退し、井上堯之、大野克夫、岸部一徳、原田裕臣の残った4人で晴れて井上堯之バンド結成となる。後の記事には残してあるが、映画のサントラや沢田研二のバックバンドとして、一世を風靡する。
1974年にて速水清司、田中清司の両名が加入となる。
(画像はその頃の写真)
翌年には岸部が脱退し、俳優に転向となる。
その際に『岸部一徳』として活動。
惜しまれながらも1980年に解散となる。
ザ・スパイダーズ時代の記憶
何と言っても欠かせないのが『ザ・スパイダーズ』の存在だ。
井上氏のメインギタリストそして音楽人生スタートとなったバンドである。
この頃の名前は孝之とクレジットされている。堺正章、井上順、かまやつひろし、のコミカルなバンドスタイルは音楽以外でも色々なシーンに影響を与えた。
この『夕陽が泣いてる』でのギターフレーズは強く心に響くのはなぜだろう。
ザ・スパイダーズの代表曲と言えば、「バン・バン・バン」「あの時君は若かった」「なんとなくなんとなく」、「風が泣いている」、「エレクトリックおばあちゃん」など、筆者が一番記憶に残っているのが「ノー・ノー・ボーイ」である。
何故ならばCーC-Bがカヴァーしていたからだ。
このC-C-Bも、井上尭之氏のラジオ番組から高く評価され、井上氏の後押しがその後のC-C-B人気のキッカケになった事は間違いない。
因みにカラオケでスパイダーズを歌おうと思った時、「ザ」を忘れずに。
井上氏のメインギタリストそして音楽人生スタートとなったバンドである。
この頃の名前は孝之とクレジットされている。堺正章、井上順、かまやつひろし、のコミカルなバンドスタイルは音楽以外でも色々なシーンに影響を与えた。
この『夕陽が泣いてる』でのギターフレーズは強く心に響くのはなぜだろう。
ザ・スパイダーズの代表曲と言えば、「バン・バン・バン」「あの時君は若かった」「なんとなくなんとなく」、「風が泣いている」、「エレクトリックおばあちゃん」など、筆者が一番記憶に残っているのが「ノー・ノー・ボーイ」である。
何故ならばCーC-Bがカヴァーしていたからだ。
このC-C-Bも、井上尭之氏のラジオ番組から高く評価され、井上氏の後押しがその後のC-C-B人気のキッカケになった事は間違いない。
因みにカラオケでスパイダーズを歌おうと思った時、「ザ」を忘れずに。
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懐メロ:グループサウンズ【ノー・ノー・ボーイ】 ザ・スパイダース - YouTube
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日本のロック界の始まりとも言える名曲フリフリ
ザ・スパイダースのフリフリは、かまやつひろし氏の曲であるが、
これは日本のロック界の名曲として書かざるを得ない。
井上氏作曲の物とは作風も異なるが、演奏では見事に融合し新時代を築き上げたと言える。
シングルB面では、モンキーダンスならぬ曲が収録されており、(この時代とても流行していたものだ)この作詞を担当したのが、なんとあの阿久悠先生である。そしてこれがデビュー作と記録されているのである。
これは日本のロック界の名曲として書かざるを得ない。
井上氏作曲の物とは作風も異なるが、演奏では見事に融合し新時代を築き上げたと言える。
シングルB面では、モンキーダンスならぬ曲が収録されており、(この時代とても流行していたものだ)この作詞を担当したのが、なんとあの阿久悠先生である。そしてこれがデビュー作と記録されているのである。
ザ・スパイダースフリフリ - YouTube
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時代を分けた幻のバンド『PYG』
PYG(ピッグ)は、1971年に結成され、当時はニューロックと呼ばれた日本のロックバンド。
グループ名の由来は「豚のように蔑まれても生きてゆく」。同じ渡辺プロダクション所属だったアラン・メリルのアイディアによって本来のpigをPYGとした。
『PYG』は何と言っても全ての輪を繋げた大事なバンドである。
グループサウンズ以降、スターが集まって結成されたグループ。
花・太陽・雨は『PYG』のデビュー・シングルとなり、作曲は井上氏が担当する。
しかしデビュー当時は2大スター、ジュリーとショーケンのファンがライブ中に激突したり、商業ベースに乗った形のバンド結成だった為、ロックファンからは罵声を浴びるなど、散々なスタートとなった。
グループサウンズ以降、スターが集まって結成されたグループ。
花・太陽・雨は『PYG』のデビュー・シングルとなり、作曲は井上氏が担当する。
しかしデビュー当時は2大スター、ジュリーとショーケンのファンがライブ中に激突したり、商業ベースに乗った形のバンド結成だった為、ロックファンからは罵声を浴びるなど、散々なスタートとなった。
PYG / LIVE Part 1 - YouTube
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伝説の刑事ドラマ「太陽にほえろ!」での超有名ギターフレーズ
ギターが好きなら誰もが真似したこの曲のフレーズ。
イントロはもちろん、曲の終わり方の印象もヤバい最高のアレンジ。
当時、主題歌はドラマとのタイアップなどは無く、番組用に書き下ろす時代である。
マカロニ刑事で出演の萩原健一氏が、このドラマのイメージ(衣装などを見ても)は
「型にはまらない方が良い。」
と、ロックバンドとして活躍していた井上氏に依頼した経緯があると言う。
イントロはもちろん、曲の終わり方の印象もヤバい最高のアレンジ。
当時、主題歌はドラマとのタイアップなどは無く、番組用に書き下ろす時代である。
マカロニ刑事で出演の萩原健一氏が、このドラマのイメージ(衣装などを見ても)は
「型にはまらない方が良い。」
と、ロックバンドとして活躍していた井上氏に依頼した経緯があると言う。