羽生に先んじた男 森内俊之九段
2017年5月17日 更新

羽生に先んじた男 森内俊之九段

1970年9月27日。埼玉は所沢でひとりの男児が誕生する。つけられた名は善治。やがて棋界を代表する男となる。 1970年10月10日。神奈川は横浜でひとりの男児が誕生する。つけられた名は俊之。棋界を代表する男に、先んじて偉業を達成した男となる。

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十八世名人の誕生

七冠制覇でおなじみの羽生善治

七冠制覇でおなじみの羽生善治

 2003年。第61期名人戦七番勝負の挑戦者は極上だった。
 彼は5年前には防衛する立場として同じ舞台にいた。しかしその時は挑戦者谷川浩司にフルセットを待たずして敗退した。
 俗にブランクと呼ばれる空白の時間があった。だが彼はそんなものに弱る男ではなかった。
 挑戦者の名は羽生善治。彼は名人に対して4連勝、文字通り一歩も譲らぬ結果をもって名人位就位式に臨むことと相成った。

 彼の名人就位について、ある予感をおぼえる関係者は少なくなかっただろう。

 将棋の《名人》は通算で5期獲得すると《永世名人》の称号が得られる。
 江戸の家元制度に始まり、実力制名人戦を開始した十三世名人関根金次郎、圧倒的な強さを誇った十四世名人木村義雄、昭和将棋の暗黒星雲十五世名人大山康晴、棋界の太陽十六世名人中原誠、光速と称された十七世名人谷川浩二。

 つぎの番勝負に勝てば、つづく十八世名人に羽生善治の名前が記されることになる。
 そしてそれはもしかすると数百年、千年と残っていく名前かもしれないのである。
 羽生その重圧に耐えきれない男ではない。すでに棋聖戦五連覇による永世棋聖、王位戦五連覇による永世王位、王座戦五連覇による永世王座、棋王戦五連覇による永世棋王の称号を獲得している。名乗るのは慣例によって引退後のことになるが、彼がそれを名乗るに値する実力を持ち結果を残したということはまやかしではない。

 残す永世位は竜王、王将そして名人のみ。いずれもすでに視界に入っている。彼ならば手を伸ばしつかみ取ることは容易なのではないか……?

 羽生善治による七冠制覇は前代未聞の事態であった。
 しかし当人にとっては終わりではなくさらなる始まりを意味してもいる。
 七冠という結果が、将棋界では《一時力》(いっときぢから)や《偏才》と呼ばれる一時的な、不自然な爆発なのか、あるいは真の才能が輝く過程で残した自然な軌跡なのか。これからの振舞いや結果でそれが問われていく。
 羽生はそれから十年以上、第一人者として君臨し続けた。この時点では三十過ぎとまだ若手に含まれる年齢であるが、同時に円熟の勝負帥でもある。

 2007年。
 第65期名人戦が終了し、十八世名人となる人物が確定した。

 名は、森内俊之。

 彼もまた羽生と同じ三十六歳。誕生日の違いでいえば、その差はわずか2週間であった。

少年、森内俊之

少年時代の森内

少年時代の森内

「暇だし将棋でも指すか」

 そんなありきたりな台詞を、森内も聞いたのかもしれない。
 彼が将棋をおぼえたのは小学校でのことであった。相手は当然のように同年代で、すると二歩も持将棋もあったものではない。銀が真横に動くことも一度や二度ではなかったろう。

 ここで飽きてしまうと棋士森内は当然誕生しない。
 彼はいつか名人になる器である――ということを見抜いていたかどうかは謎であり、仮に見抜いていたとしてもどこまで本気だったのかという気持ちになってしまうが、さておき少年森内が将棋を続けられた理由として父親の影響は小さくはなかっただろう。

 ある日。祖母がとあるものを森内少年に与えた。
 「将棋世界」である。
 これは、森内が欲しがったにしても、祖母が黙って買って渡したにしても、ちょっとスゴイ雑誌だった。

 それなりに厚いが月刊誌である。ずば抜けて厚いでかいというわけではない。
 だが、載っている情報は棋士と将棋で埋まっている。そして濃さが半端ではない。
 将棋をおぼえたばかりの子供に「将棋世界」を渡すということは、新聞を読んだことが無いという子供に《新聞年鑑》を渡すようなものではないかと思う。

 例えば《棋譜》というものがある。これは野球で言うところのスコアボードである。
 何回にどっちが何点取り、どういう試合展開でいつ頃終わったかというのがわかる。

 《棋譜》の役目はそれだけではない。
 投手は誰か、何を投げたか、打者はどう振ったか、ボールはどこに飛んだか、誰が捕ったか、どこまで走ったか……といったあたりまで1ページでわかる。
 二人零和有限確定完全情報ゲームの醍醐味である。

 こんなものが数百ページにわたって掲載されている。もちろん全ページが棋譜しかないというわけではないが、電車での移動時間、ラーメン屋での待ち時間に読むような雑誌ではない。
 読みこもうとするとたいへんな労力や集中力が必要となる。自分の恥をさらすかたちになってしまうが私は人生で1回も将棋世界をちゃんと読み切ったことが無い。

 森内はこれを読んだ。読みこみ、おそらく読み切った。とんでもない児童である。
 そして将棋道場に通うことになった。

 他の趣味への取り組み方を見ている限り、森内は合理的で、適度に凝り性である。ありあまる才気もあった。
 才能がなければ、同級生が少年マンガを読みふけるようにして将棋世界を読むということはできなかっただろう。
将棋世界

将棋世界

1937年創刊の「将棋世界」。定価800円で、近頃は電子版もある。

強者の居場所

 実力があれば結果がでる。将棋が誇るべき特徴である。

 1982年。森内は第7回小学生将棋名人戦において3位という結果をだす。この時の1位は羽生であった。
 同年、プロ棋士を養成するための組織「新進棋士奨励会」すなわち《奨励会》の試験を突破する。
 同期は17名ほどいたが、まだ小学生だったのは森内含め3人だけであったという。うちひとりは羽生である。

 森内は奨励会で順調に昇段し、1987年の第18期新人王戦参加途中にプロ入りを果たす。
 新人王戦は若手であればプロでも参加できる棋戦であり、森内は翌88年の大会でも準優勝している。
 なお88年大会で優勝したのは羽生であった。

 同世代、同期のライバルというのは長い付き合いになりやすい。
 昭和将棋でも升田大山という同門のスターがいて、55年組という集団があった。
 ライバルとして考えると、羽生という男の魅力は抜群であると言われている。
 常にトップを走り続けているから能力が低下するどころか停滞する心配もない。特定の誰かを倒すために偏るということもない。おとなしいが朗らかで、感想戦や研究などをしている際に出し惜しみをするということが無いという。

 森内にはもうひとり、星を争う競争相手であり頼りになる研究相手がいた。佐藤康光という。
 芸術家気質の棋士島朗を中心として佐藤と森内が参加した研究会を《島研》と呼ぶ。
 参加した全員が後にタイトル、島以外が名人を経験するという伝説的な研究会である。

 おおいなる才能はおおいなる舞台において輝く。
 では才能を持つ人間は大舞台にしかいないかと言えばそうではない。
 将棋界は才能や実力に対してシビアな世界でもある。舞台に上がる時が勝負の時である以上、必要に応じて練習場や研究場で腕を磨くのもたしなみである。
 現代感覚の申し子である島朗や同年の佐藤康光は、羽生と同じように極上に強いライバルであり、比例して極上の研究相手であったことだろう。

 さて。
 森内がプロになったかならないかという頃、研究会のメンバーが増えることになった。
 長いこと3人だけでやってきた小さな会合である。島は研究会の雰囲気を変えたがっていた。
 部屋に入ってきた青年は、歳の頃は森内や佐藤と同じあたり。中肉中背で特に印象的なわけでもないが、その才気を疑う者はその場にはいなかった。

 島に連れてこられたのは、羽生善治その人であった。
読みの技法 (最強将棋塾)

読みの技法 (最強将棋塾)

著者は島朗、羽生善治、森内俊之、佐藤康光。《島研》の4人である。

羽生に先んじた男

十六世名人中原誠

十六世名人中原誠

 優れたチームに所属すれば優れた結果が出るかと言えば、将棋においては否である。
 盤の向こうには相手がいる。その相手は自分よりも何百回も勝利している文字通りの《名人》かもしれないし、才能ひとつでそこまできた少年かもしれない。同じチームの佐藤や島かもしれないのである。

 森内はそういった戦いでも引けをとらなかった。
 大会の決勝で羽生にあたって勝つこともできた。第7回全日本プロトーナメントにおいては当時の谷川名人と三番勝負を行い、2勝1敗で優勝した。
 順位戦での昇級も順調であり、95年にはA級初参加と同時に名人戦の挑戦者に躍り出る。
 だがそこで道を阻んだのもまた羽生であった。
 森内は、当時七冠であった羽生から名人を奪取することができなかった。

 順調と言えば順調。しかし羽生は目上でもなければ先輩でもない。同年であり同期である。
 彼が七冠を制覇し、永世位を獲得し数々の記録を樹立していくなかで、森内はまだタイトルを取れていなかった。
 2001年の棋王戦でもタイトル挑戦者として番勝負に臨むも、羽生棋王の前に敗れた。その勝負で羽生はまたもや棋王戦10連覇という記録を達成した。
棋神―中野英伴写真集

棋神―中野英伴写真集

将棋界に偉業を達成した人物はたくさんいる。しかし《棋神》とまで呼ばれた者はどれほどいるだろう。
 かつて最年少デビューを果たし、ノンストップで名人挑戦にまで進んだ天才少年は当時の名人に阻まれ、名人を獲得するまで20年以上もかかった。彼を倒すために時間の使い方が変わり、研究方法が変わった。
 少年の名は加藤一二三。名人は大山康晴であった。

 自分も名人になるのに二十年かかるのだろうか。その時まで実力を保っていられるのか。
 大山康晴と羽生善治はどちらが強いのか。自分と加藤一二三と大山康晴と羽生善治ではいったい誰が強いのか。
 そんなことを考える日もあったかもしれない。

 だが森内は芸術家気質の、繊細な、爆発的な男ではなかった。
 安定性があり、棋風重厚、勝負どころでも相手に手を渡すような一種の老獪さがある――と表現したのは「週刊将棋」に連載を行っていた小室明である。

 待てば海路の、とでも言うのだろうか。
 97年。名人位は羽生から谷川の手に移る。
 谷川浩司35歳。初めてのタイトルは加藤一二三から奪取した《名人》であった。その後、様々なタイトルを手に入れて円熟の指し手となった彼であったが、そのすぐ後ろには羽生世代がいた。
 98、99年の名人位は佐藤康光に、00、01年は丸山忠久の手に渡った。どちらも羽生世代の一員とされている棋士である。名人戦のゼロ年代、世代交代が起こるか否かの分水嶺であった。谷川も98には挑戦を受ける側、99、01年には挑戦する側として登場している。

 そこに隙があったのか。あったとして、森内はそれを狙っていたのか?

 02年。96年に羽生名人に敗れて以来番勝負に出てこなかった森内が丸山から名人位を奪取。4勝0敗のストレートであった。名人位は翌03年に羽生に奪われるも、04年には奪い返している。
 森内は竜王戦、王将戦にも現れた。現れただけではなくタイトルを奪っていった。それも全部羽生善治からであった。
 森内は数年の間で無冠の強豪から三冠王名人へ変貌を遂げていた。この時に森内時代の到来を予感した人間もいただろう。

 だが時代の王の候補者はあまりにも多かった。
 森内は棋聖戦、王座戦にも挑戦者として登場していたがそれぞれ佐藤棋聖、羽生王座に阻まれている。佐藤康光も名人を経験済みの男で、棋聖戦については02年から5連覇をしていた。うち3回がストレートである。
 渡辺明という異才も登場する。彼は以後10年近く竜王位を独占する男で、森内は後の初代永世竜王にその座を追われてしまうかたちとなった。

 あらゆるタイトルが新しい主を求め、あるいはそれを拒んでいた。
 そのなかで森内は名人位だけは保ち続ける。
 04年、羽生を相手に4勝2敗。05年も同じく羽生に4勝3敗のフルセット。このどちらかを譲っていれば羽生は永世名人位を獲得するという大一番を森内は指し切ったのである。
 06年には谷川が挑戦者になったが、4勝2敗で耐えた。

 07年。順位戦で抜群の成績を見せた郷田真隆が名人戦挑戦者となった。
 19歳でデビューしてから2年半でタイトルを手に入れた人物である。羽生世代随一の爆発力を持っているとされていた。71年3月生まれなので、森内との年齢差は約半年である。

 森内はここで2連敗を喫したが、5月に行われる3局を連勝。6月の最初の対局は落としフルセットにもちこまれたものの、最終局で後手番の有力戦法であった角換わりを採用。159手かけて勝利した。
 穴熊に組んだ郷田の玉をいぶりだしてから最後の攻撃を受け切るという棋風の出た1局であった。
 森内は、羽生に先んじて名人5期を獲得。十八世名人を名乗る資格を得た。
将棋世界Special Vol.3「森内俊之」~宿敵・...

将棋世界Special Vol.3「森内俊之」~宿敵・羽生との闘いの軌跡~

それからの森内名人とこれからの森内九段

2004年、王将獲得時の森内

2004年、王将獲得時の森内

 02年に森内が登場してから、14期にわたって名人位は森内と羽生の独占状態だった。内訳は森内8期、羽生6期。
 森内時代と呼べるほどの圧倒的な数字ではなかった。他棋戦にも登場しないのはしかし、好き好んでそうしたわけではないだろう。2011年については全体での勝率が3割台にまで落ちてしまったのである。
 しかしそれで土俵を割らないのもまた森内である。
 11、12、13年の名人戦挑戦者はすべて羽生であったが森内はことごとく防衛した。
 13年については竜王戦の挑戦者となり4勝1敗でこれを奪取。渡辺に竜王を渡したのは森内であったが、取りあげたのもまた森内であった。

 2015年。竜王を糸谷に、名人を羽生に奪われた森内はタイトル戦から姿を消してしまう。

 そして2017年春。
 森内はフリークラス宣言を提出した。順位戦から退くという意志表明である。
 引退ではない。順位戦、名人戦で対局することはなくなるが、他の棋戦なら65歳まで指し続けることができる。タイトル戦にも登場する。
 加藤一二三九段がC級2組から降級するときフリークラスを経過せずに引退となったのはこの65歳という年齢が鍵となっている。

 フリークラス宣言の延長線上には引退の二文字が存在している。
 この件については、森内はもう第一線を去ってしまうのだなという寂しげな声と、いや森内ならばフリークラスでもタイトルが取れるという期待の声があがっているようだ。

 危所遊という言葉がある。
 名人は危うきに遊ぶという。
 一見らしくない言葉である。
 だが森内は重厚にして果敢、勝負所を避けず、それでいて土俵を割らない強靭さがある。
 ついたあだ名が《鉄板流》だった。

 二十年以上居座ったA級という居場所を退き、森内はなにを見据えているのか。
 すべてを捨てて去りゆくにしては、彼はまだあまりにも若い。
九段 森内俊之扇子「日々新」

九段 森内俊之扇子「日々新」

森内俊之九段揮毫の扇子。
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