CAMEL "Summer Lightning"
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日本との関わりの中で
初来日は、「ブレスレス」ツアーで
1979年1月に初来日を果たし、「ブレスレス・ツアー-Japan Tour '79」と銘打って、東京、大阪、名古屋で、5公演を開催した。
1979年のツアー後、キャラバン再結成のためデイブ・シンクレア、リチャード・シンクレアが脱退、さらにメル・コリンズも脱退。コリン・バスとキット・ワトキンスが加入。
なお、キャラバンとはキャメルを加入と脱退を繰り返したシンクレア兄弟なを介して、キャメルとのサウンドとは一脈通じるサウンドを持っている。
1979年、アルバム「リモート・ロマンス(I Can See Your House From Here)」を発表。
1980年1月に来日公演(リモート・ロマンス・ツアー-Japan Tour '80)。東京、大阪、名古屋にて、5公演を開催。
1981年、アルバム「ヌードの物語 ~Mr.Oの帰還~(Nude)」を発表。
このアルばむは、太平洋戦争での日本の敗戦を受け入れず、フィリピンのルバング島で29年間投降しなかった、元日本兵の小野田寛郎氏を題材としている。
その小野田氏の当時の生活の模様等を書いた本を、1979年の来日時、アンドリュー・ラティマーが日本のプローモーターより贈られ読み、心が動かされ制作したコンセプトアルバムとなった。
ところで、この「ヌードの物語 ~Mr.Oの帰還~(Nude)」では、女流詩人のスーザン・フーヴァーがコンセプト面で重要な役割を担うようになり、このアルバム以降もキーパーソンとなる。
彼女は詩人であり、音楽関連のライターなどで活動し、後にラティマー夫人となる。
1979年のツアー後、キャラバン再結成のためデイブ・シンクレア、リチャード・シンクレアが脱退、さらにメル・コリンズも脱退。コリン・バスとキット・ワトキンスが加入。
なお、キャラバンとはキャメルを加入と脱退を繰り返したシンクレア兄弟なを介して、キャメルとのサウンドとは一脈通じるサウンドを持っている。
1979年、アルバム「リモート・ロマンス(I Can See Your House From Here)」を発表。
1980年1月に来日公演(リモート・ロマンス・ツアー-Japan Tour '80)。東京、大阪、名古屋にて、5公演を開催。
1981年、アルバム「ヌードの物語 ~Mr.Oの帰還~(Nude)」を発表。
このアルばむは、太平洋戦争での日本の敗戦を受け入れず、フィリピンのルバング島で29年間投降しなかった、元日本兵の小野田寛郎氏を題材としている。
その小野田氏の当時の生活の模様等を書いた本を、1979年の来日時、アンドリュー・ラティマーが日本のプローモーターより贈られ読み、心が動かされ制作したコンセプトアルバムとなった。
ところで、この「ヌードの物語 ~Mr.Oの帰還~(Nude)」では、女流詩人のスーザン・フーヴァーがコンセプト面で重要な役割を担うようになり、このアルバム以降もキーパーソンとなる。
彼女は詩人であり、音楽関連のライターなどで活動し、後にラティマー夫人となる。
1980年代初頭 盟友の脱退で孤塁を護るラティマー
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1981年、ドラムスのアンディ・ウォードが、アルコールと薬物を乱用し体調を崩して脱退。「キャメル」としてのオリジナルメンバーはアンドリュー・ラティマーただ1人となる。
1981年、アルバム「シングル・ファクター(The Single Factor)」を発表。しかしこれは、事実上ゲストプレイヤーを集めて制作したラティマーのソロプロジェクトアルバムとなった。
以後「『キャメル」そのものが、アンドリュー・ラティマーのソロプロジェクトの性質を持つようになる。
1984年、アルバム「スタショナリー・トラベラー(Stationary Traveller)」を発表。これはドイツの東西分裂とベルリンの壁をモチーフとしたコンセプト・アルバムである。
このアルバム以降約5年後に、ベルリンの壁を作る体制は崩壊する。
1984年5月、キャメル結成20周年記念のライブを、イギリス・ロンドンのハマースミス・オデオン劇場で開催。
元メンバーのピーター・バーデンスがゲストとして参加し数曲を共演。(後に、公演の模様を「プレッシャー・ポインツ~キャメル・ライヴ~(Pressure Points)」としてリリース。
ここで、82年から84年の間で契約を消化し、活動休止。アンドリュー・ラティマーは自宅を売却し、活動の拠点をイギリスからアメリカに移し、1年間の休暇を過ごした。アンドリュー・ラティマー自身が「キャメル・プロダクション」を設立。
1981年、アルバム「シングル・ファクター(The Single Factor)」を発表。しかしこれは、事実上ゲストプレイヤーを集めて制作したラティマーのソロプロジェクトアルバムとなった。
以後「『キャメル」そのものが、アンドリュー・ラティマーのソロプロジェクトの性質を持つようになる。
1984年、アルバム「スタショナリー・トラベラー(Stationary Traveller)」を発表。これはドイツの東西分裂とベルリンの壁をモチーフとしたコンセプト・アルバムである。
このアルバム以降約5年後に、ベルリンの壁を作る体制は崩壊する。
1984年5月、キャメル結成20周年記念のライブを、イギリス・ロンドンのハマースミス・オデオン劇場で開催。
元メンバーのピーター・バーデンスがゲストとして参加し数曲を共演。(後に、公演の模様を「プレッシャー・ポインツ~キャメル・ライヴ~(Pressure Points)」としてリリース。
ここで、82年から84年の間で契約を消化し、活動休止。アンドリュー・ラティマーは自宅を売却し、活動の拠点をイギリスからアメリカに移し、1年間の休暇を過ごした。アンドリュー・ラティマー自身が「キャメル・プロダクション」を設立。
1990年代の復活へ ただラティマーは病魔に
1991年、復活アルバム、ジョン・スタインベックの小説「怒りの葡萄」をもとにしたコンセプト・アルバム「DUST AND DREAMS」を発表。
1992年 Dust And Dreams Tour(ダスト・アンド・ドリームス・ツアー)を、東京、大阪、名古屋でのライブハウスで公演。
1996年、アルバム「ハーバー・オブ・ティアーズ 港町コーヴの物語(Harbour Of Tears)」を発表。
1997年 Harbour Of Tears Tour(ハーバー・オブ・ティアーズ・ツアー)を、東京、大阪、名古屋でのライブハウスで公演。
1999年、アルバム「ラージャーズ 別れの詩(Rajaz)」を発表。
1992年 Dust And Dreams Tour(ダスト・アンド・ドリームス・ツアー)を、東京、大阪、名古屋でのライブハウスで公演。
1996年、アルバム「ハーバー・オブ・ティアーズ 港町コーヴの物語(Harbour Of Tears)」を発表。
1997年 Harbour Of Tears Tour(ハーバー・オブ・ティアーズ・ツアー)を、東京、大阪、名古屋でのライブハウスで公演。
1999年、アルバム「ラージャーズ 別れの詩(Rajaz)」を発表。
ラティマーのキャメルも2000年代に突入するが
2000年代以降の活動
2000年 Rajaz Tour(ラージャーズ・ツアー)を、東京、大阪、のライブハウスで公演。
2002年、過去のライブ音源より、アルバム「ノッド・アンド・ウィンク(A Nod And A Wink)」を発表。元メンバーのピーター・バーデンスが肺癌で死去。
2006年、アンドリュー・ラティマーの「キャメル・プロダクション」が、活動拠点をアメリカからイギリスにUターン。
2007年5月、今度はアンドリュー・ラティマー自身が1992年以来、骨髄線維症に罹っていた事を妻のスーザン・フーヴァーが公表。病気の進行状況の悪化により予定していたツアーを中止した。
けれども2007年後半に、アンドリュー・ラティマーは骨髄移植を受け、2008年9月「彼は徐々に回復しており、音楽活動を再開する意欲を示した」と妻のスーザン・フーバーが公表。
2010年には、音楽活動も徐々にではあるが奇跡の復活を果たした。
2013年10月、ロンドンにて「The Snow Goose」を完全再現するライブを行う事が発表される。
2002年、過去のライブ音源より、アルバム「ノッド・アンド・ウィンク(A Nod And A Wink)」を発表。元メンバーのピーター・バーデンスが肺癌で死去。
2006年、アンドリュー・ラティマーの「キャメル・プロダクション」が、活動拠点をアメリカからイギリスにUターン。
2007年5月、今度はアンドリュー・ラティマー自身が1992年以来、骨髄線維症に罹っていた事を妻のスーザン・フーヴァーが公表。病気の進行状況の悪化により予定していたツアーを中止した。
けれども2007年後半に、アンドリュー・ラティマーは骨髄移植を受け、2008年9月「彼は徐々に回復しており、音楽活動を再開する意欲を示した」と妻のスーザン・フーバーが公表。
2010年には、音楽活動も徐々にではあるが奇跡の復活を果たした。
2013年10月、ロンドンにて「The Snow Goose」を完全再現するライブを行う事が発表される。
キャメルのメンバー構成
初期からの現メンバー
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