永久欠番とは
永久欠番(えいきゅうけつばん、英語:retired number)とは、背番号などを使用するスポーツにおいて、多大な功績を残した人物の使用した背番号を、その人物の栄誉と栄光の歴史を末永く称えるために、団体内で対象となった人物のみが使用できるように欠番にした番号をいう。
読売ジャイアンツの永久欠番
4 黒沢俊夫 (1947年7月9日制定)
1947年、腸チフスを発病し現役選手のまま6月23日に急死。黒沢の欠番については、ほとんどの主力選手を徴兵された戦時下の巨人で4番を打ち、戦後も病に倒れるまで5番・6番打者として活躍した本人への感謝の意として千葉茂を中心とする選手有志が提案し、沢村栄治と共に欠番になった。
16 川上哲治(1965年1月18日制定)
首位打者5回といいう記録を残し「プロ野球界の生き神様」とまで呼ばれる伝説的な存在でした。1958年の現役引退、1965年に野球殿堂入りが決定したことで永久欠番となりました。
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34 金田正一(1970年4月2日制定)
通算400勝は歴代最多の金田正一は国鉄スワローズでは15年間、巨人で5年間活躍した金田正一ですが、国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)の34は欠番となっていない。
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阪神タイガースの永久欠番
10 藤村富美男( 1958年11月30日制定)
初代「ミスタータイガース」。史上初となるサイクル安打を記録を残しました。なんと、阪神タイガースで10番を付けたことがあるのはこの藤村富美男だけ。これは選手に対する永久欠番で唯一の事例である。
11 村山実( 1972年11月2日制定)
入団まで阪神の背番号11は着用した選手が故障を含め、何らかの形で不幸が襲っていたために「不吉な番号」と言われていたが、村山は「自分は昭和11年生まれなので、あくまでも11にこだわりたいんです」と頑としてはねつけている。そうした経緯もあってか、村山自身は永久欠番の栄誉を終生誇りにしていた。通算222勝。通算防御率2.09はセリーグ記録。
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23 吉田義男(1987年10月13日制定)
1969年の引退以降、ふさわしい人物の入団まで欠番とされたが、使用した選手はいなかった。日本一となった第2期監督退任に合わせて永久欠番とされた。1864安打。350盗塁と素晴らし成績を残しました。
中日ドラゴンズの永久欠番
10 服部受弘( 1960年3月20日制定)
現役時代の背番号10は永久欠番で、中日で服部の他は西沢道夫だけである欠番は、両選手を辞めさせるときの「妥協点」という杉下茂の談話が中日の球団史に掲載されている。
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15 西沢道夫( 1959年3月15日制定)
現役時代(1948年 - 1958年)ヘッドコーチ・監督時代(1963年 - 1966年)の期間15番をつけていました。ドラゴンズでの永久欠番は二人だけ。中日の初優勝にも貢献した自分です。
広島東洋カープの永久欠番
8 山本浩二(1986年10月27日制定)
大学出身者での通算536本塁打は日本最多記録である。7度にわたる打点・本塁打のタイトルはいずれも30歳以降であり、通算本塁打の7割を30代以降で放つなど、典型的な大器晩成型の選手であった。その功績を讃え、背番号「8」は広島球団史上初の永久欠番となっている。
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