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ビックリハウサーからこんな人が
ビックリハウスでは読者・投稿者の事を「ビックリハウサー(ハウサー)」と呼んでいましたが、そのビックリハウサーには後の著名人になる人もいました。 この項目ではかつてのビックリハウサーだった著名人を紹介していきます。
大槻ケンヂ
「ビッグムーン大月」というペンネームで様々なコーナーに投稿。
あまりにも投稿数が膨大なためビックラゲーションで優秀賞を取ったりベストビックリハウサーに任命されたりするなどの実績もありましたが、「ハジラ」になってしまう事も多かったそうです。彼のエッセイでもビックリハウスに夢中だった頃の話が出てきます。
あまりにも投稿数が膨大なためビックラゲーションで優秀賞を取ったりベストビックリハウサーに任命されたりするなどの実績もありましたが、「ハジラ」になってしまう事も多かったそうです。彼のエッセイでもビックリハウスに夢中だった頃の話が出てきます。
13歳のビッグムーン大槻 (大槻ケンヂ)、ビックリハウスの『ビックラゲーション』コーナーで最優秀賞受賞!1979年11月号 pic.twitter.com/pwrpIrXA92
— ZERO(音楽専用) (@Limited_Night_) July 17, 2018
清水ミチコ
「シミズミチコ」のペンネームで御教訓カレンダーなどに投稿。 彼女のものまねネタの対象になっている矢野顕子もビックリハウスに度々出ており、サブカルの血脈を感じさせます。
ナンシー関
当時は本名の「関直美」で投稿。 雑誌末期には小説「通天閣はもう唄わない」を連載。(ただし雑誌終刊で打ち切りになっている)ハウサーからビックリハウスでプロデビューする稀有な人になりました。
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ビックリハウスの「くだらないものを敢えて面白がる」というスタンスはその後インターネットが普及した今では当たり前になっており、そういう現代の観点で見るとわざわざ雑誌という媒体で行う必要性がないかもしれません。
しかしネットや携帯電話が存在せず、パソコンも普及していなかった当時、都会の「ナウい」文化を知るためには「ビックリハウス」や「宝島」のような雑誌が必要だったのです。
本当はエンピツ賞やカートゥーン大賞、鮫肌文殊についても触れたいのですが、字数がオーバーしてしまったのでまた次の機会に…
しかしネットや携帯電話が存在せず、パソコンも普及していなかった当時、都会の「ナウい」文化を知るためには「ビックリハウス」や「宝島」のような雑誌が必要だったのです。
本当はエンピツ賞やカートゥーン大賞、鮫肌文殊についても触れたいのですが、字数がオーバーしてしまったのでまた次の機会に…
💛👑 2020/1/5 15:44
こんな雑誌があったんですか?
まぁ、当時SNSなんて無いですもんね♪