プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その2外国人ヘビー級編
2017年5月14日 更新

プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その2外国人ヘビー級編

WBCの延長で放送時間がゴールデンから一気に深夜番組となってしまった「プロレス総選挙2017」!!こんな結果だったと言うお知らせとマツド・デラックス的にあたしの独断でそれぞれの部門のベスト10を作ってみたわ!これはひとそれぞれ好きな人が違うから皆にも投稿してもらいたいわよ!今回は、前回の「日本人ヘビー級レスラー」に続く「外国人ヘビー級レスラー」よ!!

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タイガー・ジェット・シンのキャリア(Wikipediaより抜粋)

1964年にシンガポールでデビューし、ジャイアント馬場のアメリカ修行時代の師匠で知られたフレッド・アトキンスに正統派レスリングを徹底的に叩き込まれ、1965年にトロントでデビュー。1967年6月にジョニー・バレンタインを破ってトロント地区のUSヘビー級王座を獲得すると、メインイベンターの地位を確立。1968年の暮れにベビーフェイスに転向するとさらに人気は増し、1971年2月に行われたザ・シークとの一騎討ちでは18000人を超える観衆を集め、当時の年収は約8万ドル(当時の為替レートで約2500万円ほど)にも達していたという。初来日直前はオーストラリアを主戦場とし、スティーブ・リッカードらとツアーを同行する。この出会いがきっかけで、後にシンは日本で大成功を収める。1973年5月、新日本プロレスに初来日。アントニオ猪木と因縁の抗争劇を繰り広げ悪役レスラーのトップとなり、ライバルの全日本プロレスに比べて外国人レスラー招聘ルートの弱かった新日本プロレスを支えた。1974年には新日本から追放処分を受けるが、猪木の返上で空位となっていたNWF世界ヘビー級王座決定戦への出場がNWFの仲裁により決まり、1975年3月に広島で行われた決定戦で猪木を破り王座を獲得した。同年6月に東京での防衛戦に敗れ、猪木に王座を奪回されるが、その後も再三来日し、猪木や坂口征二らと抗争を展開した。1977年2月には、国際プロレスを経て新日本に参戦した上田馬之助とタッグチームを組み、坂口征二&ストロング小林組からNWA北米タッグ王座を奪取。1980年、新日本の斡旋で登場していたメキシコマットで1月にカネックを破りUWA世界ヘビー級王座を獲得した。しかしこの1980年頃からスタン・ハンセンらの台頭により、人気に陰りが見えはじめてくる。1981年7月3日の全日本プロレス「'81サマー・アクション・シリーズ」熊谷大会にマネージャーのボビー・ヒーナンと共に乱入し、翌7月4日の後楽園ホール大会から全日本に正式参戦。再び上田とのタッグでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組からインタータッグ王座を獲得。1980年代前半はザ・シークやテリー・ファンクら外人選手との対戦で、シンの持ち味が発揮されることがあったが、ほぼ同時期に新日本プロレスから移籍したスタン・ハンセンらの影に隠れ、全日本プロレスでは精彩を欠く存在であった。輪島大士の国内デビュー戦の相手に抜擢されたり、全日本プロレスにUターンしたアブドーラ・ザ・ブッチャーとの凶悪タッグを結成するものの、人気低下に歯止めがかからず、一時的な話題を提供するだけに留まった。1990年9月に行われたアントニオ猪木デビュー30周年記念イベントにおいて、永遠のライバル猪木と一夜限りの特別タッグを組み、興行に花を添えた。全日本プロレス時代に比べて、シンの暴れっぷりはむしろ復活していた。シンより1〜2世代若い長州力、ブラック・キャット等のレスラーを次々と血祭りにあげたり、場外では馳浩が所有する自動車をバットでメッタ打ちにしその因縁から馳と巌流島決戦を行うなど、自らの健在ぶりをアピールした。1992年にFMWに参戦。ストリートファイトマッチを始め、過激なデスマッチ路線を邁進していたこの団体においてシンは、水を得た魚の如く蘇り大活躍をした。FMWのリングでは、大仁田と電流爆破デスマッチ、関ヶ原でのノーピープル電流爆破デスマッチ等多数の名勝負を繰り広げ、息子のアリ・シンと組んでタッグリーグ戦に参加した。また、シンをFMWに呼び寄せたともされたザ・シークともコンビを結成したが、後に仲間割れした。その後NOWに参戦し、上田馬之助とのタッグを復活させたが後に仲間割れし、一転して抗争状態に。さらに参戦したIWA・JAPANではベビーフェイスになってミスター・ポーゴと抗争するなど、インディー団体を中心に転戦し続けた。近年の来日ではハッスルで小川直也と戦い、敗れはしたものの小川を流血させた。2009年7月26日にはハッスル・両国国技館大会においてアブドーラ・ザ・ブッチャーと1989年以来20年ぶりのタッグを結成するも、お約束の同士討ちにより、シンがフォール負け。同大会の因縁勃発を受け、同月30日には19年ぶりにブッチャーとの一騎討ちを展開。2011年8月27日、東日本大震災復興イベント『INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜』に登場。恒例の猪木劇場において、ブッチャーとともにアントニオ猪木を襲撃した。 2011年12月27日、『元気ですか!! 大晦日!! 2011』では、相棒だった上田馬之助の遺影を持ってリングに上がり、故人を称えた。

3位 アンドレ・ザ・ジャイアント

アンドレ・ザ・ジャイアント

アンドレ・ザ・ジャイアント

「大巨人」
「人間山脈」
「一人民族大移動」
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もうここからは誰が一位になったもおかしくないわ!あたしはここに「アンドレ・ザ・ジャイアント」をランクインさせたわ。やっぱり、この人は規格外よね。身体自体が凶器、いや存在自体が凶器だったわ。そして、忘れもしないのがやはり「ジャイアント・マシーン」よね。国際プロレス時代の恩を「KY若松」に返すために変身したとも言われたわ。でも「正体不明」って「平田」よりもバレバレよね。

アンドレ・ザ・ジャイアントのキャリア(Wikipediaより抜粋)

フランスのグルノーブルにて、ブルガリア=ポーランド系の家庭に生まれる。1964年、18歳の時にパリでアンドレ "ザ・ブッチャー" ロシモフとしてデビュー。フランス時代はジェアン・フェレ、モンスター・エッフェルタワーなどの名義で活動していた。初来日は1970年1月。まだアメリカで注目を浴びる前の無名時代、吉原功にスカウトされモンスター・ロシモフのリングネーム(吉原命名)で国際プロレスへ参戦した。この前年5月18日にパリで行われた初代IWA世界タッグ王座決定戦でイワン・ストロゴフと組み、豊登&ストロング小林と戦うも1-2で敗れているが、日本でも報道されて評判は伝わっていた。この初来日時、AWAの総帥バーン・ガニアと邂逅、北米進出のきっかけを掴む。1971年の再来日ではカール・ゴッチやビル・ロビンソンを抑え、第3回IWAワールド・シリーズで優勝を果たした。その後、ブッキング権がガニアからWWFのビンス・マクマホン・シニアに移行したことに伴い、1974年2月より日本でのリングをWWFと提携していた新日本プロレスへ移し、アントニオ猪木との抗争を開始。1974年3月15日に岡山武道館で行われた猪木との初のシングルマッチでは、当時のマネージャーだったフランク・バロアがロープに飛んだ猪木の足を取ってダウンさせ、ジャイアント・プレスでフォール勝ちを収めた。以降の対戦では、猪木が掛けたキーロックをアンドレが軽々と持ち上げる、アンドレが掛けたカナディアン・バックブリーカーを猪木がロープを蹴って返しリバース・スープレックスで投げる、というムーブが見せ場として定着した。新日本プロレスではスタン・ハンセンとも外国人同士によるスーパーヘビー級の抗争を繰り広げ、1981年9月23日、田園コロシアムで行われたハンセンとの一騎討ちは、日本のプロレス史に残る伝説の名勝負とされる。同年12月10日には、レネ・グレイをパートナーに大阪府立体育館にて猪木&藤波辰巳を破り、第2回MSGタッグ・リーグ戦に優勝。1982年4月1日には蔵前国技館にてキラー・カーンを下し第5回MSGシリーズも制覇している。新日本プロレス参戦時は、実況アナウンサーである古舘伊知郎が、大巨人、巨大なる人間山脈、一人民族大移動などの表現を使ったことから、これらがアンドレのニックネームとなった。1985年には将軍KYワカマツをマネージャーに従え、ジャイアント・マシーンなる覆面レスラーにも変身した。マシーン軍団はWWFでもコピーされたため、アメリカにも同様のギミックで登場したことがある。なお、ジャイアント・マシーンの正体は公然の秘密だったが、相棒であったスーパー・マシーン(正体はマスクド・スーパースター)については、WWFオフィシャル発表では「北海道生まれの日本人」ということにされていた。WWFと新日本プロレスの提携解消後も、1986年まで新日本プロレスに参戦し、4月29日にはUWFの前田日明との不穏試合も行われている。5月開幕のIWGPチャンピオン・シリーズでは、6月17日の愛知県体育館における公式戦にて、アントニオ猪木に腕固めで初のギブアップ負けを喫した。1990年4月13日に東京ドームで開催された日米レスリングサミットにて久々に日本マットに登場し、ジャイアント馬場と大巨人コンビを結成。同年9月30日、馬場のデビュー30周年記念試合でタッグながら初対決してからは全日本プロレスへ主戦場を移し、1990年、1991年と世界最強タッグ決定リーグ戦には馬場との大巨人コンビで出場し、1991年には準優勝している。10月21日に日本武道館で行われた全日本プロレス創立20周年記念試合では、アンドレvsハンセンの対決が再び実現。アンドレの動きは全盛期とは程遠かったものの、ハンセンのウエスタン・ラリアットを喰らっても倒れず、ロープにもたれる程度に踏み留まってみせるなど、最後の最後まで怪物ぶりを見せつけた。全日本プロレスへ参戦していた当時のアンドレは、馬場とコンビを組んでいたこともあって、新日本時代とは異なり完全なベビーフェイスとなった。全日本登場第1戦から出番のたびに大アンドレ・コールで迎えられ、笑顔でファンの声援に応じたり、入場時の花束贈呈の際には、花束を受け取るとブーケ・トスのように後方の客席に投げてプレゼントしたり、コールの時には二本指を立てて腕を上げるアピールも見せていた。体調不良のため1990年にWWFを退団。父親の葬儀へ出席するためフランスに帰国していた1993年1月27日、パリのホテル内で死去。死因は急性心不全であった。長年に渡る過度の飲酒が原因と言われている。WWFは生前の活躍に敬意を表するために、WWF殿堂を設立し、殿堂入りの第一号を彼に与えた。

2位 ブルーザー・ブロディ

ブルーザー・ブロディ

ブルーザー・ブロディ

「超獣」
「キングコング」
via imgur.com
飛びぬけた身体能力とずば抜けた怪力で日本人レスラーを手玉に取っていたブロディ。独特の風貌と毛皮のベスト、そしてチェーンを振り回しながら入場するシーンは圧巻だったわ。「レッド・ツェッペリン」の「移民の歌」は彼の入場曲としてはぴったりだったのよね。ショーマンでありながらもガチに強い「ベビーフェイス」でも「ヒール」でもなかった「不思議」なポジションのレスラーだったかも知れないわ。

ブルーザー・ブロディのキャリア(Wikipediaより抜粋)

フリッツ・フォン・エリックにスカウトされ、1973年にヒューストンでプロレスラーとしてデビュー。デビュー時は本名のフランク・グーディッシュをリングネームに活動。1974年8月、彼に先んじてデビューしていたスタン・ハンセンとトライステート地区でタッグチームを結成。同年10月10日にトライステート版のUSタッグ王座を奪取するが、翌1975年7月の陥落後にタッグを解消し、以降はシングルプレイヤーとして活動。1976年7月、ブルーザー・ブロディに改名してニューヨークのWWWFへ参戦。アンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦して知名度を高め、メインイベンターとしての地位を築く。1977年にはWWWFとの提携ルートでハンセンが新日本プロレスに来日しているが、ブロディの新日本登場は実現しなかった。WWWFを離れた1977年、ダラス地区に凱旋。1月3日にフリッツ・フォン・エリックを破りNWAアメリカン・ヘビー級王座を獲得する。翌1978年8月25日にはキラー・カール・クラップからテキサス・ブラスナックル王座を奪取。キングコング・ブロディと名乗ってインディアナポリスのWWAにも参戦し、1979年8月4日にディック・ザ・ブルーザーとの「ブルーザー対決」を制してWWA世界ヘビー級王座を奪取した。日本には1979年1月、フリッツ・フォン・エリックの斡旋により全日本プロレスに初来日。ジャイアント馬場に反則負けした以外、負けなしの好成績で帰国。1981年10月にはドリー・ファンク・ジュニアからインターナショナル・ヘビー級王座を奪取。1982年からはスタン・ハンセンと全日本プロレスにてコンビを再結成。「超獣コンビ」とのネーミングが与えられた。ハンセンとのコンビでは年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝1回・準優勝2回の戦績を残し、また1984年に新設されたPWF世界タッグ王座でも初代王者となった。1985年3月21日、新日本プロレスへ引き抜かれる形で移籍。アントニオ猪木とは、東京・大阪・札幌・ハワイで7度シングルマッチで対決。同年12月、IWGPタッグリーグ戦にジミー・スヌーカとのタッグで出場するが、宮城県スポーツセンターでの決勝戦出場を、上野駅で仙台への移動のために乗車した東北新幹線から発車直前にスヌーカと一緒に下車した後、そのまま新宿のホテルへ直行し、ボイコットして突然の帰国。新日本プロレスからは、永久追放処分となる。このように、ブロディはブッカーにとって扱いにくいレスラーであり、そのことが後の死につながる。その後、一度は新日本プロレスと和解し、1986年9月に再来日して大阪城ホールにて猪木と、福岡スポーツセンターにて藤波とそれぞれシングルで対決し、11月開幕の'86ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦への出場を来日直前にキャンセルし、再び新日本プロレスから永久追放を宣言された。1984年よりビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でスタートしたWWFの全米侵攻への参加も噂され、新日本プロレス移籍時の記者会見でも新WWF王者ハルク・ホーガンへの挑戦をアピールしたが、結局は実現しなかった。1986年5月17日、本拠地WCCWにてリック・ルードを破りTV王座を獲得、これがアメリカ国内での最後のタイトル戴冠となった。1987年10月4日、全日本プロレスに復帰。ジャイアント馬場は当初は来日中止となったリック・フレアーの代役の名前を「X」として公表していなかった。当日の伊勢崎大会のメインイベント終了後にブロディが乱入したことから、「X」はブロディと明らかとなった。同年暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦では、タッグマッチながらスタン・ハンセンとの日本における最初で最後の対戦が実現した。1988年3月にはジャンボ鶴田からインターナショナル・ヘビー級王座を奪回。野獣ギミックのキャラクターを守り通したブロディが、この時ばかりはファンや関係者と抱き合って歓びを分かち合った。同年4月19日、鶴田にピンフォール負けを喫し王座転落、3日後の4月22日の川崎市体育館におけるトミー・リッチと組んでの天龍源一郎&阿修羅・原(龍原砲)とのPWF世界タッグ王座戦が日本での最後の試合となった。1988年7月16日、プエルトリコ・バヤモンのバヤモン・スタジアムでのWWCの興行中、レスラー兼ブッカーのホセ・ゴンザレスと口論を起こし、ドレッシング・ルームにて腹部をナイフで刺される。刺し傷が肝臓に達し、翌7月17日、出血多量により死亡。痛み止めのために常用していたアスピリンの副作用により、出血が止まらなかったともいわれている。なお、裁判では、現場に居合わせたレスラー仲間たちが揃って証言を拒否し最終的にホセ・ゴンザレスは正当防衛として無罪判決を得ている。

1位 スタン・ハンセン

1位 スタン・ハンセン

1位 スタン・ハンセン

「ブレーキの壊れたダンプカー」
「不沈艦」
「テキサスの暴れん坊」
via imgur.com
全日ファン、新日ファンにとってやはり「スタン・ハンセン」は外国人レスラーとして上位にランクインされるのは当然よね!ハンセンによって日本のプロレス界は活性化され、「ラリアート(ラリアット)」がフィニッシュホールドとして流行したのもハンセンの功績だと思うわ!そして、ブロディもそうだったけど、あの入場シーンは鮮烈だったわ!「スペクトラム」の「サンライズ」は彼にピッタリの入場曲よね!

スタン・ハンセンのキャリア(Wikipediaより抜粋)

1973年1月1日、アマリロ地区にてプロレスラーとしてデビュー。同地区では若手時代のジャンボ鶴田やボブ・バックランドとも邂逅した。1974年10月10日にUSタッグ王座を獲得し、初戴冠を果たす。1976年上期にWWWFに登場。同年4月26日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、当時のWWWFヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノの首を骨折させた事件、以降はクラッシャー(壊し屋)の烙印を押されたために対戦を嫌われ、アメリカでの活躍の機会は少なくなった。日本初参戦は1975年9月。まだ一介の若手であったが、シリーズ最終戦は蔵前国技館でのダブル・メインを控えたセミファイナル・マッチであった。サンマルチノ戦後の1977年1月、WWWFとの提携ルートで新日本プロレスに初参戦。同年秋の再来日からはシリーズの外国人エースを務め、9月2日に愛知県体育館にてアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に初挑戦。1979年のMSGシリーズではアンドレ・ザ・ジャイアントを抑えて猪木と優勝戦を闘い、1980年2月にはウィリー・ウィリアムスが観戦する面前で猪木からNWFヘビー級王座を奪取した。「0.X秒差の逆ラリアート」などのドラマを生み、それまでのメイン・イベンターであったタイガー・ジェット・シンを抜いて新日本プロレスのトップ外国人レスラーとなった。1981年9月には田園コロシアムにおいて、アンドレと伝説として語り継がれる名勝負を産んだ。その圧倒的な強さは当時の実況アナウンサー古舘伊知郎により、「不沈艦」「ブレーキの壊れたダンプカー」などと形容された。1981年には再びニューヨークのWWFに参戦。1981年6月にテリー・ファンクの仲介によってテキサス州ダラスで馬場と会談を持ち、新日本プロレスから全日本プロレスへの移籍を確約。新日本プロレス「第2回MSGタッグ・リーグ戦」の全日程が終了した2日後である、同年12月12日の全日本プロレス「世界最強タッグ決定リーグ戦」横須賀大会にブロディを激励するために現れ、ブロディに対してハンセン本人が直接状況説明をしたと同時に、ハンセンは「明日にはアメリカへ帰る」とコメントしていたが、翌12月13日の蔵前国技館で行われた「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦にブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして全日本プロレスに登場した。ハンセンの移籍は秘密裏に行われており、ファンばかりでなく、当時の関係者をも大いに驚かせた。テッド・デビアス、テリー・ゴディらをパートナーに、PWF世界タッグ王座、世界タッグ王座を数回獲得、最強タッグでも優勝を果たした。また天龍とのコンビでも世界タッグ王座を獲得したほか、史上初の最強タッグ全勝優勝を達成した。本国では1985年12月29日、ニュージャージー州イーストラザフォードでリック・マーテルを破りAWA世界ヘビー級王座を奪取。またAWA王座在位中の1986年3月29日には、自身の保持するAWA世界ヘビー級・PWFヘビー級両王座と、インターナショナル・ヘビー級王座を保持する鶴田との間で、日本初となるトリプル・タイトルマッチが実現した。1990年2月10日の新日本プロレス主催・東京ドーム大会では、目玉の一つとなった「新日本vs全日本」の一環として、当時IWGPヘビー級チャンピオンであったベイダーに挑戦。両者リングアウトとなるも、ド迫力の戦いは語り草となった。4月13日の日米レスリングサミットでは、メインイベントでハルク・ホーガンと戦い敗れる。チャンピオン・カーニバルでは1992年と1993年で2連覇を達成した。1990年代後半は衰えたと言われながらも、1998年(w / ベイダー)・1999年(w / 田上明)と、世界最強タッグ決定リーグ戦で2年連続準優勝を果たし、不沈艦健在を見せつけた。両膝の故障が元で2000年11月19日に引退を表明。2001年1月28日、東京ドームでのジャイアント馬場三回忌追悼興行で引退セレモニーが行われた。新日本・全日本の各選手が参列する引退セレモニーもまた異例のことであった。引退後はPWF会長を2007年7月15日まで務め、地元の少年たちにスポーツを教えつつ、悠々自適の人生を送っているという。2010年3月27日には、アリゾナ州フェニックスにて開催されたWWE殿堂の顕彰セレモニーにおいて、殿堂入りを果たしたアントニオ猪木のインダクターを務めた。2016年3月21日放送のRAWにおいて、 ハンセン自身のWWE殿堂入りが発表された。4月2日にテキサス州ダラスのアメリカン・エアラインズ・センターにて行われた式典では、日本とアメリカを股にかけて激闘を展開したベイダーがインダクターを務めた。
みなさんいかがだったかしら?「日本人ヘビー級レスラー」に続き、自分の好きなレスラーは入っていたかしら?「プロレス総選挙」を細かく分けていくと意外な選手がランクインするかも知れないわ!あなたもやってみたらどうかしら?次は「マスクマンレスラー」編でお会いしたいわ!
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