クラッシャー・バンバン・ビガロのキャリア(Wikipediaより抜粋)
プロレスラー養成所のモンスター・ファクトリーを経て、1985年12月に「クラッシャー・ユーコフ(Crusher Yurkof)」のリングネームでデビュー。1987年1月、アントニオ猪木の新たなライバルとして新日本プロレスに初来日。当初はモンスター・ファクトリーの主宰者である元プロレスラーのラリー・シャープをマネージャーとして帯同していた。スキンヘッドに刺青を入れ、炎をあしらった全身コスチュームで人気を集め、大柄な体型の割りに軽快な身のこなしで側転をするパフォーマンスで「動けるデブ」としてファンに認知された。ニックネームは「刺青獣」、アメリカでは「Beast from the East」と呼ばれた。新日マット参戦中はクラッシャー・バンバン・ビガロのリングネームでビッグバン・ベイダーとタッグを組んで1992年3月にIWGPタッグ王座を獲得するなど活躍したが、次第に引き立て役にまわった。その後、日本では全日本プロレス、WAR、FMW、アメリカではWWF(現・WWE)、ECW、WCWにも参戦した。1987年のWWF初参戦時はサー・オリバー・フンパーディンクをマネージャーに、ベビーフェイスとしてハルク・ホーガンのタッグパートナーも務めている。1993年からの再登場の際は本来のヒールに戻り、テッド・デビアス率いるミリオンダラー・コーポレーションの主力としてブレット・ハートやジ・アンダーテイカーと対戦。ECWではタズとの抗争、WCWでは同郷のダイヤモンド・ダラス・ペイジらとのユニット「Jersey Triad」などで活躍した。1996年11月17日、U-JAPANのメインイベントでキモと総合格闘技ルールで対戦。「入れ墨対決」として話題を呼んだが、開始2分15秒にチョークスリーパーで一本負けを喫した。
2000年7月に、火事に巻き込まれた近所の子供を大火傷を負いながらも助けた。その後遺症もあり40代を過ぎてからセミリタイア状態となり、弁当屋経営などに携わっていたが、2005年にバイク事故を起こし鼻骨骨折。同乗の女性が意識不明の重体になるアクシデントに見舞われた。 同乗していた恋人の女性がヘルメットを着用していなかったために、警察からは殺人罪に問われるも彼女は快方へと向かい警察からの嫌疑も晴れる。 だが、これを機にプロレスから完全引退した。
2007年1月19日に、フロリダの自宅で45歳で死去。
7位 ビッグバン・ベイダー
TPG=たけしプロレス軍団として新日に登場したとき、新日ファンの殆どの人たちが敵だったと思うわ。たけし軍団に友人をもつ私でさえ違和感を感じたのを覚えているわ。でも、そのあとのベイダーはやはり「皇帝」だったと思うの。パワー&身軽さには度肝を抜かれたわ!「クラッシャー・バンバン・ビガロ」とのタッグには本当に胸がおどったわ!
ビッグバン・ベイダーのキャリア(Wikipediaより抜粋)
学生時代から全米オールスターのアメリカンフットボール選手として鳴らし、ジャパンボウルで来日。コロラド大学卒業後の1978年、NFLのロサンゼルズ・ラムズにドラフト3位で入団。チームは、そのシーズン、第14回スーパーボウルに出場した。ゆえに、本人の右手薬指には常に、その証となるスーパーボウルリングがつけられている。1979年7月、ひざの負傷により、リザーブリストに入った。レギュラーシーズンの試合に出場することなく、1980年8月、ラムズから解雇された。1985年にプロレス入りしベイビー・ブルのリングネームでAWAからデビュー。ブル・パワーのリングネームでヨーロッパCWAに転戦、オットー・ワンツを破りCWA世界ヘビー級王座を獲得。その後マサ斎藤にスカウトされ、1987年12月にTPG(たけしプロレス軍団)の刺客、ビッグバン・ベイダーとして新日本プロレスに登場。アントニオ猪木対長州力のIWGPヘビー級王座選手権が予定されていたところに TPG が割り込んだため観衆の不満が爆発し、最終的に暴動にまでなるが、ベイダー自身はその騒ぎの中、猪木から3分弱でフォールを奪う(混乱の末に猪木があっけなく負けたことが観衆の怒りに拍車をかけ、新日本はこの件で会場の両国国技館を管理する日本相撲協会から国技館の使用停止処分を受けている)。翌1988年から新日本の常連外人として定着、IWGPヘビー級王座、IWGPタッグ王座を獲得したほか、1991年より並行して当時新日本と提携していたWCWにも登場。WCW世界ヘビー級王座を獲得している。1993年5月、UWFインターナショナルに移籍。スーパー・ベイダーに改名し、1994年8月には高田延彦を破ってプロレスリング世界ヘビー級ベルトを奪取した。1996年1月に新日本プロレスに参戦し、正月恒例の東京ドーム大会でアントニオ猪木と対戦するも敗北。翌2月には WWFに移籍。1997年9月には、ケン・シャムロックとの試合貸し出しの形でFMW川崎球場大会に参戦。1998年5月、全日本プロレスに初登場する。そしてWWFとの契約解除後の同年11月より本格的に全日本プロレスに参戦。年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦にも出場し、準優勝(パートナーはスタン・ハンセン、公式戦は全勝)。1999年3月、ジャイアント馬場没後初の三冠戦(王座決定戦)で田上明を破り三冠ヘビー級王座を獲得、4月にはチャンピオン・カーニバル優勝。5月の東京ドーム大会(馬場の追悼興行)で三沢光晴に敗れて三冠王座を陥落したものの10月に奪還。2000年2月にはスティーブ・ウィリアムスとコンビ結成し世界タッグ王座を奪取。全日本プロレス分裂後の2000年10月からは、外国人勢では珍しくプロレスリング・ノアに参加。2001年10月にはスコーピオと組んで初代GHCタッグ王座を獲得。ノア離脱後はWJプロレスを経て、ハッスル、全日本プロレス、MAKEHEN、WWE、TNA、レッスルランドに登場。2009年2月に元WWEのテストとともに来日し、ベイダータイム1, 2を開催。7月にはトレバー・マードック、ヘイリー・ヘイトレッド、ランス・ケイドらを伴い、ベイダータイム3, 4を開催した。ベイダータイム3での花束贈呈役は当時グラビアアイドルで翌年プロレス入りする愛川ゆず季であった。2010年4月29日、ベイダータイム5において、自らの復帰戦を息子ジェシー・ホワイトの日本デビュー戦とともに開催し、往年のライバル藤波と18年ぶりに対戦した。近年は2005年から本人の権利となっているビッグバン・ベイダーのリングネームを用いることが多い。また、日本でのマネジメントはベイダータイムプロモーションが担っている。2012年では、TBSの「クイズタレント名鑑」の人気企画、「USC~史上最大ガチ相撲トーナメント」第三回に登場。また、この年の中盤では、WWE・RAW1000回目を祝うために、1000回目とその数回前の放送にレジェンドとしてサプライズ登場。観客に大歓声で迎えられ、若手のヒールであるヒース・スレイターと対戦し、勝利を飾った。2016年11月、交通事故に見舞われた後日、自身のTwitterで、うっ血性心不全により医師から余命2年であると宣告されていたことを明らかにした。現在、複数の医師の診察を受け、前向きに回復へ向けて取り組んでいる。
6位 デック・マードック
「ディック・マードック」ほど日本を愛してくれていたレスラーはいないと思うの。どんなマイナーな団体でも全力でプロレスをしてくれたわ。54回の来日がその証拠よ!「垂直落下式ブレンバスター」「子牛の烙印焼き」「ブルドッキングヘッドロック」たまらない技のオンパレードだったわよね。NOWリーダーとNEWリーダーの5対5の戦いには、猪木側に参戦したのも印象強かったわ。でもねマードックと言えばやはり、リングインの時の「半ケツ」だったわね!
ディック・マードックのキャリア(Wikipediaより抜粋)
父のフランキー・マードックもプロレスラーだったことから、幼少期からレスリングの英才教育を受け1965年テキサス州アマリロの「ファンク道場」に入門しプロレス入り。そのほかにもウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボールの選手として活動したとされているが、実際には大学には入学しておらず、勝手に出入りしていたらしい。また、ボクシングの心得もあったとされ、そのキャリアはアメリカ海兵隊時代に身につけたものといわれている。ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクとは幼なじみである。キャリア開始直後はドン・カーソンの弟と称しカーソン・ブラザースでデビュー、その後キラー・カール・コックスとタッグを組み、垂直落下式ブレーンバスターを伝授されている。1968年2月に日本プロレスに初来日。同年10月にダスティ・ローデスとタッグチーム「テキサス・アウトローズ」を結成し、全米各地区を転戦し活躍した。また、1971年の来日の際には、12月4日には宮城県スポーツセンターにおいてアントニオ猪木の持つUNヘビー級王座に挑戦している。また、1972年の「第14回ワールド・リーグ戦」にも来日している。1971年7月、「チェーン・デスマッチの鬼」グレート・ボリス・マレンコとチェーン・デスマッチを行ったことがある。この試合でマードックは豪快な勝ちを収め、怖いもの知らずのアウトロー振りを発揮した。1973年6月、国際プロレスにテキサス・アウトローズとして初参戦。シングルでは6月29日に半田にてストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦し、テキサス・アウトローズでは6月30日に岐阜市民センターにてラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦した。7月4日には富山市体育館にて、小林との金網デスマッチも行われている。1973年10月には全日本プロレスにも参戦した。全日本ではローデスと組んでジャイアント馬場・ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦(1975年)したほか、1980年には鶴田を破りUNヘビー級王座を獲得。オープン選手権でのパット・オコーナー戦、ホースト・ホフマン戦。コックスとのブレーンバスター対決、ビル・ロビンソン戦(1976年12月)。ハーリー・レイスとのNWA世界選手権(1979年5月)。キラー・トーア・カマタ(1980年3月)との凄惨な流血戦など、名勝負も多く残している。また、覆面レスラー「ザ・トルネード」に変身してのザ・デストロイヤー戦(1974年)覆面十番勝負などもある。1974年11月5日に馬場のPWFヘビー級王座に挑戦した際には回転エビ固めで敗れている。なお、覆面が結構気に入ったのか持ち前の茶目っ気故か、新日本時代にはアンドレ・ザ・ジャイアントがジャイアント・マシーンになったのを見て「俺もマシン軍団に混ぜてくれ」と言っていたという。1981年に新日本プロレスに移籍。以降も常連レスラーとなり、猪木や藤波辰巳らと激闘を展開した。新日本時代はタッグでの活躍が目立ち、スタン・ハンセン、アドリアン・アドニス、マスクド・スーパースターらとのチームでは日本勢を大いに苦しめた。シングルでは1986年には猪木とIWGP優勝戦を争っている。また、当時は幻とされていたローデスとのアウトローズも復活させファンの喝采を浴びている。1984年にWWF入りし、アドニスとのタッグチーム「ノース・サウス・コネクション」で活動、同年4月17日にロッキー・ジョンソン&トニー・アトラスを破りWWF世界タッグ王座を獲得した。1989年にFMWに参戦し、以降1990年代の日本での活動はインディー団体を中心に転戦した。アメリカではWCWでディック・スレーターとブルーカラー・ギミックの「ハード・ライナーズ」を結成した。晩年はテキサスのプロレス復興に取り組んでいたが、その矢先の1996年6月15日に心臓麻痺により急死。49歳没。
5位 アブドーラ・ザ・ブッチャー
「ブッチャー」は苦労人だったのよね。その為かニーズがあればどんなリングにも上がったの。だから、あまりいいイメージを持たない人もいたみたいだけど「ブッチャー」がいたからこそ日本人レスラーが引き立ったのは言うまでもないわ。「ブッチャー」「シン」「シーク」のような「ヒール」が日本のプロレスに生まれるとまたプロレスが楽しくなると思うのは私だけかしら?もちろん、入場曲の「ピンク・フロイド」の「ふけよ風、呼べよ嵐」も最高だったわ!
アブドーラ・ザ・ブッチャーのキャリア(Wikipediaより抜粋)
1961年、モントリオール地区のプロモーターであったジャック・ブリットンにスカウトされデビュー。デビュー当時は「プッシーキャット・パイキンス」、「ゼーラス・アマーラ」などを名乗っていたほか、現在の「アブドーラ・ザ・ブッチャー」に落ち着くまで何回かリングネームを変えている。1960年代はカナダ各地を主戦場に、バンクーバーではドクター・ジェリー・グラハムと組んで1967年にクリス&ジョン・トロスからNWA世界タッグ王座を獲得。モントリオールでは1969年にイワン・コロフからIWAインターナショナル・ヘビー級王座を奪取している。1970年、日本プロレスの8月興行『サマーシリーズ』で初来日。開幕戦のBI砲とのタッグ戦でジャイアント馬場からピンフォールを奪い、東京スタジアム大会での馬場との初シングルでは、それまでにない桁外れの場外戦を繰り広げるなど、シリーズが進むにつれて人気が沸騰。1972年にジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、同団体の常連となり、悪役として馬場やジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤー、ザ・ファンクスをはじめとする強豪レスラーたちと幾多の抗争を繰り広げた。馬場との対戦は全日本プロレスのドル箱カードとなり、その抗争は延べ20年の長きに渡った。1976年5月、『第4回チャンピオン・カーニバル』優勝決定戦で馬場を下し初優勝。1977年の『世界オープンタッグ選手権』ではザ・シークとの「地上最凶悪コンビ」を実現させ、ザ・ファンクスと抗争を展開。12月15日に蔵前国技館で行われたザ・ファンクスVSブッチャー・シーク組の最終戦は、とりわけ壮絶な試合展開となった。ブッチャーがテリー・ファンクの右腕に凶器のフォークを突き立て、テリーが兄ドリー・ファンク・ジュニアを救出すべく左ストレートを連打する場面は、その模様が日本テレビの全日本プロレス中継にて全国に中継された。1978年10月にはビル・ロビンソンを破り、PWFヘビー級王座を奪取。1979年5月、『第7回チャンピオン・カーニバル』優勝決定戦で鶴田を破り2度目の優勝。同年8月26日、新日本プロレスのトップヒールであったタイガー・ジェット・シンと組み、『プロレス夢のオールスター戦』(日本武道館)で馬場・猪木組と対戦した。1981年5月8日、新日本プロレス『第4回MSGシリーズ』開幕戦川崎市体育館大会にユセフ・トルコと一緒に現れ、そのまま新日本に移籍。1982年4月にはハルク・ホーガンとシングルで対戦、両者リングアウトに終わるも、強い印象を残した。1985年1月25日に『'85新春黄金シリーズ』徳山大会にて行われた猪木と3年ぶりのシングル対決が実現するものの蹴りの連打からブレーンバスターで、新日本移籍以来初のフォール負けを喫した。1987年11月に全日本プロレス復帰。どの会場でもブッチャー人気が爆発して、全盛期であった1980年頃を彷彿させる大「ブッチャー」コールも起きるようになった。1988年にはタイガー・ジェット・シンとの「凶悪タッグ」が復活。ブルーザー・ブロディ追悼試合ではスタン・ハンセンと対戦し、ブロディのチェーンで互いの額を叩き割る大流血戦となった。1990年9月30日の「馬場デビュー30周年記念試合」においては馬場と初タッグを結成し、ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアント組と対戦。1996年、東京プロレスに突如移籍すると、かつての凶器攻撃、流血戦が復活。1997年には天龍源一郎率いるWARに参戦し、北尾光司と巨漢タッグを結成。1999年から戦場としたグレート小鹿の大日本プロレスでは、BJW認定デスマッチヘビー級王座を獲得した他、アブドーラ小林との師弟対決が話題となった。2001年の『ジャイアント馬場三回忌追悼興行』を機に、三度全日本に復帰。2002年にはテリーとのタッグが実現。2003年には武藤やボブ・サップらと「チームW-1」を結成し、RO&Dと闘った。2007年5月9日にハッスルに参戦し、芸人RGと対戦して勝利。IWA・JAPAN にも出場、ミックスドマッチでダンプ松本とのタッグが実現した。2009年7月26日の『ハッスル・エイド2009』でタイガー・ジェット・シンとのコンビを20年ぶりに復活させ、HG&RG組と対戦するも仲間割れ。2010年1月4日、新日本プロレス『レッスルキングダムIV IN 東京ドーム』に参戦。新日本マット登場は25年ぶり。2011年8月27日、東日本大震災復興イベント『INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜』に登場。2012年1月2日、全日本プロレス『新春シャイニング・シリーズ』開幕戦において、現役引退を表明した。
4位 タイガー・ジェット・シン
「タイガー・ジェット・シン」と言えば「サーベル」と「ターバン」よね。そして「コブラクロー」と「垂直落下式のブレーンバスター」かしら?「猪木襲撃事件」等で本当に「狂虎」なんじゃないかと思っていたけど実は紳士なのよね。2011年の年末イベントの時にはかっての「相棒」の「上田馬之助」の遺影を持ってリングに上がったのには涙が出たわ!「悪役」のお手本見たいな選手だったわね。