美空ひばり~1947年 - 1989年~
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先ずはやはり、この方をご紹介しなければいけませんね。
心に残る数々の名曲を世に送り出し、「歌姫」どころではない「歌謡界の女王」と呼ばれた昭和のトップスター”美空ひばり”さんです。
なんと!9歳でデビューしその素晴らしい歌唱力で「天才少女歌手」と謳われて以後、歌手としての活躍にとどまらず、映画・舞台などで女優としても活躍されました。
晩年は病魔との闘いが続き入退院を繰り返す中、歌への強い思いは消えず
1988年4月11日 東京ドームのこけら落しとなるコンサート「不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」を開催。
心に残る数々の名曲を世に送り出し、「歌姫」どころではない「歌謡界の女王」と呼ばれた昭和のトップスター”美空ひばり”さんです。
なんと!9歳でデビューしその素晴らしい歌唱力で「天才少女歌手」と謳われて以後、歌手としての活躍にとどまらず、映画・舞台などで女優としても活躍されました。
晩年は病魔との闘いが続き入退院を繰り返す中、歌への強い思いは消えず
1988年4月11日 東京ドームのこけら落しとなるコンサート「不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」を開催。
美空ひばり 東京ドームコンサート(不死鳥コンサート)
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フィナーレの曲「人生一路」を歌い終えたひばりさんは、立っているだけでも全身に激痛が走る中、痛みに耐えながらステージから客席後方への100メートルもの花道をゆっくりと観客に手を振りながら、最後まで歩いて行かれたそうです。その姿に会場を埋め尽くしたファンは誰もが「美空ひばり 復活」を確信したといいます。
が、舞台裏では簡易ベッドや酸素ボンベが置かれ、医師が控えていたそうです。
ドーム公演後は入退院を繰り返しながらの音楽活動となり、親友の”中村メイコ”さんには電話で、
「今、布団の中で『リンゴ追分』を歌おうとしたら、苦しくてワンコーラスも歌えないんだよ。この天下の美空ひばりがだよ……。だから、メイコ、もう一度入院する」
と、不安を打ち明けられていました。
今も歌い継がれる名曲「川の流れのように」を残して、
1989年6月24日 52歳で死去。
が、舞台裏では簡易ベッドや酸素ボンベが置かれ、医師が控えていたそうです。
ドーム公演後は入退院を繰り返しながらの音楽活動となり、親友の”中村メイコ”さんには電話で、
「今、布団の中で『リンゴ追分』を歌おうとしたら、苦しくてワンコーラスも歌えないんだよ。この天下の美空ひばりがだよ……。だから、メイコ、もう一度入院する」
と、不安を打ち明けられていました。
今も歌い継がれる名曲「川の流れのように」を残して、
1989年6月24日 52歳で死去。
川の流れのように
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没後の1989年7月 女性として初めてとなる国民栄誉賞を受賞。
昭和歌謡が見直されている今、「昭和歌謡の原点」ともいえる”美空ひばり”さんは若い世代にも
「まったく世代じゃないのに、美空さんの歌声を聴くと震えが止まらない 表現力のレベルが違い過ぎる」と絶賛され魅了しています。
昭和歌謡が見直されている今、「昭和歌謡の原点」ともいえる”美空ひばり”さんは若い世代にも
「まったく世代じゃないのに、美空さんの歌声を聴くと震えが止まらない 表現力のレベルが違い過ぎる」と絶賛され魅了しています。
山口百恵~1973年 - 1980年~
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そしてもうお一人伝説となった歌姫”山口百恵”さん。
わずか7年という短い活動期間でしたが、当時のアイドルの中でずば抜けて存在感がありました。
「大胆な歌詞を歌う大人びた中学生」
かといって、セクシー系でもなくビジュアルは本当に素朴で純粋な少女だったので、ギャップがまた良かったんですよね。
あまり陽のイメージはないのですが、チョッとはにかんだように笑う笑顔が素敵でした。
「としごろ」でデビューし1974年リリースの「ひと夏の経験」が大ヒット。「青い性路線」で絶大な人気を獲得します。
1976年リリースの「横須賀ストーリー」から阿木燿子・宇崎竜童夫妻とタッグを組み、数々のヒット作で新生”山口百恵”が誕生。
わずか7年という短い活動期間でしたが、当時のアイドルの中でずば抜けて存在感がありました。
「大胆な歌詞を歌う大人びた中学生」
かといって、セクシー系でもなくビジュアルは本当に素朴で純粋な少女だったので、ギャップがまた良かったんですよね。
あまり陽のイメージはないのですが、チョッとはにかんだように笑う笑顔が素敵でした。
「としごろ」でデビューし1974年リリースの「ひと夏の経験」が大ヒット。「青い性路線」で絶大な人気を獲得します。
1976年リリースの「横須賀ストーリー」から阿木燿子・宇崎竜童夫妻とタッグを組み、数々のヒット作で新生”山口百恵”が誕生。
横須賀ストーリー伝説 山口百恵と宇崎竜童
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1979年10月20日「大阪厚生年金会館」のリサイタルで「私が好きな人は、三浦友和さんです」と、三浦さんとの恋人宣言を突如発表。
歌手として人気を確立すると共に女優としても数多くの映画やドラマに出演されていた百恵さんは、映画「伊豆の踊子」で共演し以降「ゴールデンコンビ」と呼ばれた”三浦友和”さんと交際されていたのです。
しかも人気絶頂期にもかかわらず「「我儘な…生き方を私は選びました。(中略)お仕事は全面的に引退させて頂きます」と芸能界引退を公表。
周囲は慌てふためいた事でしょう。
1980年10月5日 日本武道館でファイナルコンサートを開催。
歌手として人気を確立すると共に女優としても数多くの映画やドラマに出演されていた百恵さんは、映画「伊豆の踊子」で共演し以降「ゴールデンコンビ」と呼ばれた”三浦友和”さんと交際されていたのです。
しかも人気絶頂期にもかかわらず「「我儘な…生き方を私は選びました。(中略)お仕事は全面的に引退させて頂きます」と芸能界引退を公表。
周囲は慌てふためいた事でしょう。
1980年10月5日 日本武道館でファイナルコンサートを開催。
40年前山口百恵さんのファイナルコンサートが行われました。これが伝説の百恵ちゃんのラストシーン
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純白のドレスに身を包み涙ながらに歌い、最後にマイクを置いてステージを後にした曲「さよならの向う側」は、百恵さん引退前最後のシングルとして宇崎&阿木夫妻に依頼された曲です。
当時の心境を宇崎さんが語っておられます。
当時の心境を宇崎さんが語っておられます。
武道館でのファイナル・コンサートも肉眼で見ている。改めて宇崎が思うのは「あの歌がどうのではなく、やっぱり“山口百恵ってすげえな!”ということ。ありがたいことに色々な方が『さよならの向こう側』をカバーしてくれているけれど、自分自身も含めて誰一人百恵さん以上のものを感じさせてくれた人はいません。テクニックや鍛錬の問題ではない何かを百恵さんは宿している。あの世代であれだけの表現力を持って歌える人は、美空ひばりさん以来だと僕は思っています」
<中略>
「彼女は覚悟を決めて芸能界を引退し、覚悟を決めて結婚をしています。しかしそれこそが百恵さんが望んだこと。幸せな家庭を作りたい、妻になりたい、母になりたいという自分が望む姿をその通りに実践している。だから絶対表に出てくるわけはないし、引退した時から本人にその気はまったくない。引退時21歳ですよ?そういったことをすべて含めて、“山口百恵ってすげえな!”と思う」
スターの座より好きな人との幸せな生活を選んだ百恵さん、「正解」と言える日々を過ごされているようですね。
時々 メディアで近況が報道されていますが、きっと百恵さんは大切な時を手放されることはないでしょうし、その生き方に多くの共感が集まっています。
昭和の名曲として今なおカラオケでも歌われる「「いい日 旅立ち」も忘れていませんよ。
時々 メディアで近況が報道されていますが、きっと百恵さんは大切な時を手放されることはないでしょうし、その生き方に多くの共感が集まっています。
昭和の名曲として今なおカラオケでも歌われる「「いい日 旅立ち」も忘れていませんよ。
山口百恵 いい日旅立ち
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山口百恵 | ソニーミュージックオフィシャルサイト
ソニーミュージックによる山口百恵公式サイト。山口百恵の最新ニュースやリリース情報、ビデオ、ライブ・イベント出演情報、メディア情報などを掲載。
”ポスト百恵”の座を狙ったアイドル達の現在!誰が百恵ちゃんに近かったのか?あなたはどう思いますか? - Middle Edge(ミドルエッジ)
1980年10月5日 日本武道館で「幸せになります。」とマイクを置き引退した"山口百恵"さん、1970年代を鮮やかに彩り駆けぬけていった昭和の歌姫の引退にアイドル界はざわめきたちました。空いた"百恵"ちゃんの座を狙い次々と新人アイドルがデビュー、80年代はアイドル黄金期となります。そんな中で、「雰囲気が似ている」「百恵ちゃんを意識している」など、"ポスト百恵"と期待されたアイドル達のその後を追ってみました。
生年月日:1937年5月29日
出身地:神奈川県横浜市磯子区滝頭
1989年6月24日 52歳で死去