プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その2外国人ヘビー級編
2017年5月14日 更新

プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その2外国人ヘビー級編

WBCの延長で放送時間がゴールデンから一気に深夜番組となってしまった「プロレス総選挙2017」!!こんな結果だったと言うお知らせとマツド・デラックス的にあたしの独断でそれぞれの部門のベスト10を作ってみたわ!これはひとそれぞれ好きな人が違うから皆にも投稿してもらいたいわよ!今回は、前回の「日本人ヘビー級レスラー」に続く「外国人ヘビー級レスラー」よ!!

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プロレス総選挙2017の順位結果を発表のおさらい!色々意見のあったベスト20を確認!

プロレス総選挙

プロレス総選挙

via テレビ朝日
前回の「日本人ヘビー級レスラー」でも紹介したけど、WBCの野球放送の延長で深夜になってしまって番組を見れなかった方や寝落ちした方にもう一度プロレス総選挙2017順位結果をおさらいしたいわ!色々ご意見あったけど10000人のファンと現役、OB&OGプロレスラーの投票で決まった結果よ!誰?新日よりだと言っているのは!
1位 アントニオ猪木
2位 ジャイアント馬場
3位 タイガーマスク(初代)
4位 オカダ・カズチカ
5位 力道山
6位 棚橋弘至
7位 ジャンボ鶴田
8位 獣神ライガー
9位 三沢光晴
10位 スタン・ハンセン
11位 長州力
12位 武藤敬司
13位 小橋健太
14位 天龍源一郎
15位 ケニー・オメガ
16位 橋本真也
17位 蝶野正洋
18位 ハルク・ホーガン
19位 真壁刀義
20位 アンドレ・ザ・ジャイアント
この結果みなさんはどう思うのかしら?あたしは前回「日本人ヘビー級」を抜き出してベスト10を作らさせてもらったわ!それがこれ!要は少しでも細分化して多くのレスラーを紹介したいの!第1弾の「日本人ヘビー級」ももう一度是非確認して頂戴!!
そこで今回は「外国人ヘビー級レスラー」をピックアップして「マツド・デラックス」的にベスト10を作っていきたいと思うわ!絶対に忘れてはいけないのはこの「外国人レスラー」がいたからこそ「日本人レスラー」の強さやカッコよさが生まれたのよ!人によっては「外国人レスラー」の方がいい!と言うファンも生まれたわ!そしてどうしても自分の好みに偏ってしまうしわ。好きなレスラーに順位をつけるなんてと言うかも知れないけどあえてここでも10人選ばせてもらうわね!

第10位 ボブ・バックランド

ボブ・バックランド

ボブ・バックランド

「ニューヨークの帝王」
「超新星」
via imgur.com
これぞ正統派「アメリカンレスラー」とだったわね。ベビーフェイスがこれだけ似合うレスラーもいなかったわよね。そして、努力を怠らない本当に「真面目」な男よね。アマレスの基礎があったからこそ強靭な肉体を武器に技は地味だったけど「王者」として5年以上も君臨していた実力は「本物」だったわ。

ボブ・バックランドのキャリア(Wikipediaより抜粋)

1973年にNWAのトライステート地区でデビュー。翌1974年3月、テキサス州アマリロに転じ、地区デビューから1週間後の3月9日にカール・フォン・スタイガーからNWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座を奪取する。アマリロではジャンボ鶴田やスタン・ハンセンと邂逅し、3人は同じ車で移動していたという。同年7月、アマリロとの提携ルートで全日本プロレスに初来日。外国人選手はミル・マスカラスをエース格に、シューターとして知られるダニー・ホッジとボブ・ループも同時参加していた。以降もNWAの主要テリトリーを転戦し、1975年10月にはジェリー・ブリスコと組んでトール・タナカ&ミスター・フジからジョージア・タッグ王座を奪取。1976年4月23日にはハーリー・レイスを下しミズーリ・ヘビー級王座を獲得。以降、11月26日にジャック・ブリスコに敗れるまで、NWA世界王者への登竜門とされた同王座を保持した。その後1976年12月7日のテレビマッチよりWWWFに参戦。クリーンなイメージの漂うアスリート・タイプのバックランドは、かつてのブルーノ・サンマルチノ時代との差別化を図る上で絶好の選手だった。また、ビンス・マクマホン・シニアはサンマルチノやペドロ・モラレスを王者としていた頃のような、イタリア系やプエルトリコ系といったエスニック・グループの観客への依拠から脱したいと考えており、出自を問わない「オール・アメリカン・ボーイ(The All-American Boy)」として、アメリカ人全体の支持を集めるべくバックランドはプロデュースされた。1978年2月20日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてスーパースター・ビリー・グラハムを破り、WWWFヘビー級王座を獲得。以降、翌年にWWWFが団体名をWWFに変更し、タイトルもWWFヘビー級王座と改称されてからも、ニューヨークの若き帝王として幾多のチャレンジャーを迎え撃った。WWFと提携していた新日本プロレスには1978年5月に初参戦。1980年5月の新日本『第3回MSGシリーズ』への特別参加では、同月27日に大阪府立体育館にてダスティ・ローデスを相手にWWF王座を防衛。同年の12月には猪木とのコンビで『第1回MSGタッグ・リーグ戦』に出場、決勝でスタン・ハンセン&ハルク・ホーガンを破り優勝を果たした。このリーグ戦にはアンドレ・ザ・ジャイアントも参加しており、5月のローデス戦に続き、アメリカでは見られないベビーフェイスのトップ同士の対戦がタッグマッチながら実現している。1983年12月26日、アイアン・シークに敗れ王座転落。5年10か月間に渡って君臨していた「ニューヨークの帝王」の座を降りることになった。王座陥落後もしばらくWWFに残留し、ホーガン、アンドレ、サージェント・スローターらと共に、ベビーフェイス陣営の主力として全米サーキットに合流。1984年7月にWWFを離脱し、AWAのバーン・ガニアやNWAのジム・クロケット・ジュニアらが共同で立ち上げたWWFの対抗勢力 "Pro Wrestling USA" に参加した。1985年は2月22日にセントポール、4月18日にワシントンD.C.にて、リック・マーテルのAWA世界ヘビー級王座に挑戦している。1986年よりアメリカでは一時セミリタイア状態となるも、日本には1988年から1991年にかけて第2次UWFやUWFインターナショナルに参戦しており、高田延彦とのシングルマッチも3回行われた。1992年末、WWFに復帰。当初は王者時代と同じくベビーフェイスとして活躍し、1993年のロイヤルランブルでは60分以上も闘い抜いたが、1994年に突如ヒールターンを決行。1994年11月23日、ブレット・ハートを破り11年ぶりにWWF王者に返り咲く。しかし11月26日のMSGにおけるハウス・ショーでディーゼルにわずか8秒で敗れ、文字通りの三日天下に終わった。1995年はブレット・ハートと抗争を繰り広げ、4月2日のレッスルマニアXIではロディ・パイパーを特別レフェリーに迎えてのアイ・クイット・マッチが行われている。7月にはWARに再来日し、同月7日の両国国技館大会ではミル・マスカラス&ジミー・スヌーカと組んで6人タッグマッチに出場。WWF離脱後、1998年と1999年にはバトラーツに来日。2001年には新日本プロレスへの16年ぶりの参戦が実現、10月8日の東京ドーム大会において、かつてのライバル藤波辰爾と組んでザ・ファンクスと対戦した。2013年4月、WWE殿堂に迎えられた。2016年7月からは、バックランドを師と仰ぐダレン・ヤングのマネージャーを務めている。

9位 ハルク・ホーガン

ハルク・ホーガン

ハルク・ホーガン

「超人」
「現代のネプチューン」
via imgur.com
「ハルク・ホーガン」と言えば、やっぱり「猪木失神事件」よね。実際にTVを見ていたあたしにとっては「トラウマ」になるくらいの衝撃だったわ。「アックスボンバー」なんか「スタン・ハンセン」の「ウエスタン・ラリアート」の2番煎じだと思っていた子供心に「ホーガン一番」がインプットされた瞬間だったわ!

ハルク・ホーガンのキャリア(Wikipediaより抜粋)

スーパースター・ビリー・グラハムに憧れ、自身の巨体とロックバンド時代に培った観客とのやり取りの才覚を活かすべく、プロレスラーになることを決意。ビリー・グラハムには弟子入りを断られるも、NWAのプロモーターだったエディ・グラハムの息子マイク・グラハムを介してヒロ・マツダのトレーニングを受ける。1977年8月に覆面レスラーのスーパー・デストロイヤーとして、ブライアン・ブレアーを相手にプロデビューを果たした。テレビドラマ『超人ハルク』主演のルー・フェリグノと同じカメラに収まる機会があり、トップ・ボディビルダーのフェリグノより巨大な肉体が評判となる。これを機に、超人ハルクにあやかりザ・ハルクをニックネームに用いるようになった。1979年12月、WWFに初登場、ビンス・マクマホン・シニアの提案でハルク・ホーガンとリングネームを改め、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおけるデビュー戦でテッド・デビアスに勝利を収める。以後、フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、アンドレ・ザ・ジャイアントの巨体に対抗できる超大型のヒールとしてトップ戦線で活躍。デビュー戦から20数連勝という戦績を残したことから「マディソン・スクエア・ガーデンの奇跡」と評され、その名を全米に知らしめた。1980年はボブ・バックランドのWWFヘビー級王座にもフィラデルフィアやアレンタウンなどで再三挑戦。初来日は1980年5月の『第3回MSGシリーズ』。アメリカでのスケジュールの都合のためリーグ戦には参加せず、シリーズ後半戦への特別参加という扱いで、初来日ながらアントニオ猪木とのシングルマッチもテレビ中継で組まれた。2度目の来日となる1980年10月には、タイガー・ジェット・シンに次ぐ外国人陣営の準エース格として、猪木の保持していたNWFヘビー級王座に挑戦した。スタン・ハンセンのタッグパートナーとしても活躍し、同年11月開幕の『第1回MSGタッグリーグ戦』では猪木&ボブ・バックランドのチームと決勝を争った。ハンセンが全日本プロレスに移籍した後の1982年には、ウエスタン・ラリアットを模したアックスボンバーをフィニッシャーに使用。出演映画『ロッキー3』の公開もあって本国同様に日本でも大ブレイクし、ハンセンに代わる新日本の看板外国人選手となる。外国人ベビーフェイスとして日本人陣営にも加わり、猪木とのタッグやアブドーラ・ザ・ブッチャーとの対戦も実現した。1983年に開催された『IWGP決勝リーグ戦』にはアメリカ代表として参加し、6月2日に蔵前国技館で行われた決勝戦では猪木をアックスボンバーでKOして優勝を果たした。また、右手人差し指を高々と上げ「イチバァーン!」と叫ぶ決めポーズも話題になり、漢字で「一番」と書かれたタンクトップやTシャツ、ハッピも発売された。1981年からはアメリカでの主戦場をAWAに移し、本国アメリカでもベビーフェイスとして大ブレイクを果たす。1983年12月、シニアの後継者となるビンス・マクマホン・ジュニアにWWF全米進出計画のエースとして白羽の矢を立てられ、日本滞在中にWWFと専属契約を交わす。翌1984年1月23日、MSGにおいてアイアン・シークを下しWWF世界ヘビー級王座初戴冠。1985年3月31日にレッスルマニアの第1回大会が開催されて以降は社会現象と呼べるほどの国民的人気を獲得した。このレッスルマニアという名称自体「レッスル」とハルクファンの「ハルカマニア」を足したホーガンのための大会だった。人気絶頂期に行われたアンドレ・ザ・ジャイアントとの対決では9万3173人という観客動員数を記録している。1990年には日米レスリングサミットへの出場で久々に来日し、スタン・ハンセンと大勝負を行う。1991年は当時WWFと提携関係にあったSWSにも来日、天龍源一郎との一騎討ちやタッグチームも実現した。1993年5月3日、8年ぶりに新日本マットに登場した。福岡ドームでグレート・ムタと対戦した。1996年7月、ヒールに電撃転向しnWoを結成、コスチュームのテーマカラーもレッド&イエローから黒ずくめに一新し、ハリウッド・ハルク・ホーガンを名乗った。2002年2月、ビンス・マクマホンの刺客nWoの一員としてヒールに戻りWWFに復帰する。2003年5月には覆面レスラーのミスター・アメリカに扮するも、その後ストーリーに不満を抱き同年6月にWWEを離脱した。同年10月13日、新日本プロレス『ULTIMATE CRUSH』にワンマッチのみ参戦、蝶野正洋とシングルマッチを行った。2005年4月、WWE殿堂入り。

8位 クラッシャーバンバン・ビガロ

クラッシャー・バンバン・ビガロ

クラッシャー・バンバン・ビガロ

「刺青獣」
「ビースト・フロム・ジ・イースト」
via imgur.com
「ボブ・サップ」の何十年も前に「ビースト」はいたの!それがこの「バンバン・ビガロ」いやここではあえて「クラッシャー・バンバン・ビガロ」と呼ばせていただくわ!何が凄かったかと言うと「170kg」の巨体で「空を飛ぶ」のよ!そしてプロレスの旨さ!彼の名言で「俺はほうき相手でもプロレスができる」は後世に残る名言だわ!!
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