アレックス・ラミレス(横浜DeNAベイスターズ) 2016年〜
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DeNAの新監督にアレックス・ラミレス氏(41)が就任することが18日、分かった。今季限りで中畑清監督(61)が退任し、球団は最大10人程度の後任候補をリストアップ。OBであるラミレス氏に一本化し、この日までに合意に達した模様だ。早ければ19日に発表される見通しで、球団では初の外国人監督の誕生となる。NPBの監督を目標にしてきたラミちゃんが、10年連続Bクラスのチームを立て直す。
チームは明るくなりそうですね。
テリー・コリンズ(オリックス・バファローズ:2007 - 2008途)
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2007年、オリックス・バファローズ監督に就任。チームとしては2003年途中のレオン・リー以来の外国人監督となる。4月8日の対西武戦(スカイマークスタジアム)で、トム・デイビーに対するボークの判定に抗議、東利夫球審への暴言により両リーグ通じたシーズン退場第1号となった。
4月下旬から5月にかけて17試合で1勝16敗するなど序盤より低迷し、最下位に終わる。2008年も序盤より低迷し、5月21日の試合後にオリックス監督を辞任している。
成績は、残念な結果でしたね。
マーティ・ブラウン(広島東洋カープ:2006 - 2009、東北楽天ゴールデンイーグルス:2010)
広島・楽天時代を通じて、監督として史上最多となる12回の退場処分を受けている。また、その際にベースを投げたり、ホームベースを土で隠す行為に及ぶことがあり、話題となった。ブラウン途中退場時の成績は、2010年シーズン終了現在で9勝3敗・勝率7割5分。「監督が退場した試合は勝てる」と評されているが、これについてブラウン退場時に代理監督を務めるジェフ・リブジーは「彼が抗議するのは選手を守るためで、彼が退場になると選手が盛り上がるんだ」と語っている。
2006年5月16日の対西武ライオンズ戦の試合前練習で、広島の選手・コーチ・スタッフが正面に“DANGER!(危険!)”、背面に“MY MANAGER THROWS BASES(うちの監督はベースを投げるぞ)”とプリントされたTシャツを着用した。リブジーは正面が監督代行、背面が“He did it again…(またやったよ…)”のTシャツ、ブラウンは背面が“I THROW BASES(私はベースを投げるぞ)”と書かれたものを着用した。このTシャツに描かれたマークは、対北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム)の7回表・広島攻撃前に電光掲示板に映り、大歓声が沸いた。
2006年11月23日に行われた広島のファン感謝デーでは「ベース投げコンテスト」が行われ、ブラウンも始球式に参加した。
広島東洋カープ・ブラウン監督 ベース投げ 20060507 - YouTube
広島東洋カープ、ブラウン監督がベースを投げて退場になったシーンです。 拾い物。
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成績は残念ながら、広島時代は5位、4位、楽天時代は最下位に終わっています。
レオン・リー(オリックス・ブルーウェーブ:2003途 - 終了)
2003年にオリックス・ブルーウェーブの打撃コーチとして、16年ぶりに日本球界に復帰。同年4月に監督の石毛宏典が解任されると、後任の監督に就任。それにともなって、前監督の「守備力重視」から「打撃力重視」にチームスタイルを変更したため、チームの打撃陣は好調だった(チーム打率リーグ2位、本塁打同3位。ただし得点は同5位)。しかし、ディフェンス面をあまりに軽視しすぎた結果、守備陣は機能不全に(チーム失策数132)陥り、投手陣も次々とプロ野球ワースト新記録(チーム防御率5.95、年間最多被安打1534、最多失点927、最多自責点819など)を乱発するほどの投壊状態となった。結局、前身の阪急時代を含めて球団史上最低勝率を更新する(ちなみに前年・2002年の勝率.365が球団史上最低だった)最下位となり、同年限りで退団した。当時オリックスに在籍した山崎武司は「僕にとってオリックスでの一番の収穫は彼との出会いといっても過言ではない。そう思えるほどレオンは僕にとって重要な存在でした。日本でプレーしただけあって日本人の気持ちを理解してくれる。何とかこの人のために結果を残したい」、アメリカに帰国後もレオンは山崎を激励し、「野球を諦めかけていた自分がもう一度奮い立つことができた背景にはレオンの親心もあった」と山崎は著書に記している
成績は残念な結果でしたね。
トレイ・ヒルマン(日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ:2003 - 2007)
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就任当初の2003年~2005年の3年間は、「相手に余計なアウトを与えない」という考えのもと、犠牲バントを極力避けて連打・長打で得点を狙う、攻撃的な野球を目指していた。
2004年は小笠原道大や新庄剛志、この年本塁打王のフェルナンド・セギノールなどの好調もあって3位となったものの、翌2005年はチーム全体で1151もの三振を喫し(プロ野球ワースト記録)、粗さと脆さが表面化し5位に沈む要因となった。この反省から、2006年以降は大幅に方針転換し、1番・森本稀哲の出塁→2番・田中賢介の送りバント(同年34犠打、2007年はパ・リーグ新記録の58犠打)に代表されるように、バント・盗塁を多用して着実に先取点を取り、それを守り抜く野球となった。その結果、2006年のリーグ優勝・日本一および、続く2007年のリーグ優勝を成し遂げた。
特に2007年は、チーム打率.259、総得点526、73本塁打(打率はリーグ5位、総得点・本塁打はリーグ最低)という打撃成績にもかかわらず連覇を果たし、いわゆる「試合巧者」ぶりが際立ったシーズンとなった。
ボビー・バレンタイン(千葉ロッテマリーンズ:1995・2004 - 2009)
京成バスの幕張本郷駅―千葉マリンスタジアム間路線でアナウンスの声を担当。喋る内容は英語で「監督のボビー・バレンタインです。本日もご利用ありがとうございます」「(同様に名乗った後)本日は御乗車ありがとうございました。またマリンスタジアムでお会いしましょう」。ただし、「監督」は英語のmanagerではなく日本語で「カントク」と名乗っている。
こんなエピソードも。