いてまえ打線のトップバッターとしてダイヤモンドを走り回る男。大石大二郎
via stat.ameba.jp
大石大二郎の獲得タイトルや主な表彰や記録
盗塁王:4回 (1983年、1984年、1987年、1993年)
新人王 (1982年)
ベストナイン:3回 (1983年、1984年、1990年)
ダイヤモンドグラブ賞:3回 (1982年 - 1984年)
オールスターゲーム出場:9回 (1982年 - 1984年、1986年 - 1987年、1989年 - 1990年、1992年 - 1993年)
400盗塁:1995年8月30日、対日本ハムファイターズ22回戦(東京ドーム)、9回表に二盗(投手:西村基史、捕手:山下和彦) ※史上7人目
新人王 (1982年)
ベストナイン:3回 (1983年、1984年、1990年)
ダイヤモンドグラブ賞:3回 (1982年 - 1984年)
オールスターゲーム出場:9回 (1982年 - 1984年、1986年 - 1987年、1989年 - 1990年、1992年 - 1993年)
400盗塁:1995年8月30日、対日本ハムファイターズ22回戦(東京ドーム)、9回表に二盗(投手:西村基史、捕手:山下和彦) ※史上7人目
大石大二郎のプレースタイルは?
1番バッターとして守備・走塁・打撃と期待された選手
身長166センチと小柄な体で、近鉄バッファローズの1番打者として長い間、活躍してきた大石は盗塁王も4度獲るなど福本豊を理想な選手として尊敬してきた選手である。
走攻守の能力でいえば、世界の王貞治や長嶋茂雄をしのぐ能力と言われる身体能力の高い選手である。
大石のプレースタイルとして、打撃に関していえば、1番バッターとして塁にでることはもちろん、本塁打も意識して打席に立っていたとのこと。
実際、1984年には29本塁打を放っている。バッティングは特に指導された記憶はなく、グリップを上げて叩きつける打法をこだわっていた。
大石のプレースタイルとして、打撃に関していえば、1番バッターとして塁にでることはもちろん、本塁打も意識して打席に立っていたとのこと。
実際、1984年には29本塁打を放っている。バッティングは特に指導された記憶はなく、グリップを上げて叩きつける打法をこだわっていた。
走塁に関していえば、積極的な走塁をこだわっていた。足には自信があり、盗塁だけではなく一塁程度しかいけそうにない打球も、果敢に三塁まで走ることもこだわっていました。
三塁にいる場面では、外野にフライが言った瞬間にタッチアップで走るかどうかを判断して、走塁していたそうです。
三塁にいる場面では、外野にフライが言った瞬間にタッチアップで走るかどうかを判断して、走塁していたそうです。
守備に関しても、二塁を守っていた大石だが、その守備範囲の広さは他の選手に一目おかれた存在であった。打者の特徴と、捕手のサインを見て、投球モーションに入った時には動いていたといいます。
長年の経験が重要でして、やってきた打球を処理するイメージを大事にして試合に臨んでいました。
長年の経験が重要でして、やってきた打球を処理するイメージを大事にして試合に臨んでいました。
プロに入るまでの大石の活躍!!
静岡県静岡市で、鮮魚の小売・仕出し業を営む家庭に生まれた[1]。中学校では2学年上の兄が野球部主将を務めており、同じ部となる事を嫌がられたため当初は柔道部に入ったが、1年生の6月に野球部に移り本格的な野球を始めている[1]。
高校も兄と同じ静岡商業高校に進み、部員50人を超す大所帯で1年生の夏からベンチ入り。1974年夏の選手権に出場し、大石本人の出場機会はなかったものの、3年生のエース高橋三千丈の力投もありベスト8進出。翌年は1番打者として春の選抜に出場し、ベスト8進出に貢献している。3年生時には同級生で後にプロとなる久保寺雄二が遊撃手を務め、自身は3番・三塁手となりチームは県予選で本命視されていた。しかし一学年上の先輩が1月末に他校の生徒と喧嘩をしていたことが4月に発覚し、チームは夏の県大会に出場できなかった[1]。
高校卒業後は競輪選手になる事を考えていたが、父親の勧めで亜細亜大学に進学[2]。1979年の3年次の春季リーグ戦では17盗塁をマークし、当時の東都大学リーグ新記録を樹立した[3]。大学4年間では通算91試合出場、344打数99安打、打率.288、4本塁打、25打点、44盗塁を記録している。また、ベストナインには2回選出されている。大学卒業後は今度こそ競輪選手になるつもりだった[4]が、1980年のドラフト会議で近鉄バファローズに2位で指名され、野球部監督の矢野祐弘の勧めもあり近鉄に入団した。
近鉄バッファローズのレギュラーとして大活躍の大石大二郎
1年目の1981年は代走や守備固めの出場が多く、77試合の出場で打数はわずか19だった。同年は西本幸雄の監督最終年で、無我夢中のまま厳しい練習で鍛えられた[2]。翌1982年はオープン戦で負傷した二塁手のビクター・ハリスが外野手にコンバートされると、オープン戦で3割以上の高打率を記録して二塁手のレギュラーとなる[2]。同年はレギュラーシーズンで打率.274、12本塁打、47盗塁の成績を残し、新人王とダイヤモンドグラブ賞を獲得した。
via ks.c.yimg.jp
3年目の1983年は60盗塁で盗塁王のタイトルを獲得し、福本豊の連続盗塁王記録を13年で止めた。同年から1番・二塁手に定着し、2年連続のダイヤモンドグラブ賞に加えてベストナインにも選出された。翌1984年も盗塁王、ダイヤモンドグラブ賞、ベストナインを獲得し、パ・リーグを代表する二塁手となっていった。1984年のオールスターゲーム第3戦ではそれまで8連続奪三振を続けていた江川卓と対戦してセカンドゴロを打ち、江夏豊に並ぶ9連続奪三振の記録を阻止した。
1987年には3回目の盗塁王を獲得したが、この頃から右肩痛が続いた。このため1988年は10.19の後の11月に大阪厚生年金病院で右肩の手術を行い、12月8日には都ホテル大阪で結婚式を挙げている[5]。1989年は年明けから夫人も帯同してハワイやサイパンでリハビリに取り組み、その後もチームのキャンプには参加せず石川県小松市の温泉で単独トレーニングを行った。8月3日の対オリックス戦で右ふくらはぎの肉離れが起きるなど、同年は出場が109試合に減少したものの、打率.277などトップバッターとしてまずまずの働き[6]でチームの優勝に貢献した。現役時代の出来事では、この優勝と前年の10.19が最も思い出に残っているという
1990年には肩が完全に回復してキャンプから順調な調整を見せ、6月26日の対ロッテ戦では伊良部秀輝からサヨナラ満塁本塁打を放っている[7]。同年はリーグ2位となる打率.314、20本塁打という好成績を収めた。1992年で新井宏昌が引退すると、山本和範が加入する1996年までの間、チームの最年長選手となっている。また、同年の契約更改で年俸が1,300万円増の1億500万円(推定)となり、近鉄史上初の日本人の1億円プレイヤーとなった[8]。35歳となる1993年には6年ぶりとなる盗塁王を獲得し、同タイトルの最年長記録に並んだ[9]。1994年頃からは準レギュラーとなり、「40歳までの現役と2000本安打の達成」を目標として掲げていた[10]。しかし39歳となる1997年夏からは監督の佐々木恭介に起用される機会が急減し、9月には球団からも引退を勧められる雰囲気となった[10]。このような球団の姿勢をあっさり受け入れ、同年限りで現役を引退している。
1995.5.20 近鉄vs西武7回戦 10/11 - YouTube
鹿取義隆 大石大二郎 水口栄二 ブライアント 石井浩郎 中村紀洋
via youtu.be
身長176cm、体重75kg
右投げ両打ち
ポジション:遊撃手、外野手
近鉄バッファローズ、猛牛いてまえ打線の切り込み隊長として、球界にその名を轟かせたスター選手。
4度の盗塁王を獲得し、走攻守と3拍子揃った選手は珍しい存在でしょう。
通算415盗塁は史上7人目の快挙である。