「天下とったる」横山やすし vs 「小さなことからコツコツと」西川きよし 怒るでしかし!!
2022年4月19日 更新

「天下とったる」横山やすし vs 「小さなことからコツコツと」西川きよし 怒るでしかし!!

1980年代に起こった漫才ブームの中で横山やすし・西川きよし、通称「やすきよ」は不動の王者だった 。実力派若手との共演、対決も多かったが「ライバルは?」と聞かれた横山やすしは「相方」と答えた。そして西川きよしは猛獣使いか調教師のごとき見事なムチさばきで荒ぶる相方と対峙した。

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木村雄二は、終戦の前の年、母親の故郷、高知県、沖ノ島で生まれた。
生後間もなく父親の暮らす大阪府堺市神石市之町へ移ったが、母親は産後の肥立ちが悪く、島に残った。
1945年3月13日には大阪大空襲があり、そういう厳しい状況下でやすしを育てたのは近所に住むタキヨさんという女性で戦争が終わるとお母さんになった。
父親は堺市役所のコック。
タキヨは堺駅近くの竜神橋町で遊郭を経営し、家には3日に1度しか帰ってこず、毎日16時に帰ってくる父親のためにご飯をつくるのが雄二の仕事だった。
雄二は中学生のとき、同級生の岡田好弘を誘い、朝日放送ラジオの「漫才教室」という素人参加型オーディション番組に応募。
2人は雄二が書いた台本で練習。
大阪の放送局に向かうと審査員をしていた漫才作家、秋田實に絶賛された。
そして2人は中学卒業後、松竹芸能に入社。
秋田實の弟子となり「堺正スケ・伸スケ」と命名された。
入社して1ヵ月後、通常、新世界のジャンジャン横丁にある安物小屋「新花月」で経験を積んでから花の「角座」に出ることができるところ、堺正スケ・伸スケ は、
「天才少年漫才師」
というふれこみで、いきなり角座でデビュー。
会社の期待は大きかったが15歳という年齢で伸スケはいわく
「子供の発想で子供の言葉になってしまう」
「先輩の芸をまねようとするが、大人の会話にならん」
という子供でも大人でもない中途半端な漫才はすぐに飽きられてしまった。
売れなくなってしまうと正スケ(岡田くん)は
「もう辞めたい」
といって廃業。
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デビュー2年で1人ぼっちになってしまった伸スケは
「いまさら家には帰れん」
と競艇選手を目指したが、競艇学校のテストの中の視力があり、合格基準は1.0だったが0.1しかなく不合格。
「コンビ別れをしたんか。
いっぺん遊びに来い」
横山ノックに誘われ、ノックの師匠である横山エンタツの漫才が好きだった伸スケは弟子になった。
横山ノックにしてみると師匠である自分の持ち物やそれがある場所を完全に覚え、タバコを吸おうとするとライターを出し、出かけるときは靴と靴べらを揃えるなど非常に気がつく
「天才的な弟子」
だったという。
そして
「日本一の漫才師になれ。
今日から横山を名乗れ」
とノックにいわれた堺正スケは「横山やすし」に改名した。
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横山やすしが横山ノックに弟子だったのは1年間。
漫才をするには相方とコンビを組まなくてはならないが、この1年の間に

・横山プリンと「横山やすし・たかし」
・レツゴー三匹の正児と「横山やすし・たかし」

を組んだが、いずれも長続きしなかった。
「要領の良さは天下一品ですね。
例えばノックさんが引っ越されたときに2人でいくでしょ。
『師匠来ました!』『やりまーす』『はい、正ちゃん、机運ぼう』って大きな声でいうてね。
運んでるん僕ですわ。
『はい、次イスや、イス』『よっしゃよっしゃ』
向こうの部屋におるノックさん、やすしよう働いとるな思うでしょ。
ずっとそんなんですわ」
というレッツゴー正児は一緒に汗をかかないやすしに
「こんなんイヤやな」
と思い、コンビを解消。
やすしは
「コンビ別れの名人」
といわれるようになった。
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「いつか天下とったる」
「いつか見返したる」
そう思いながら芸人として鳴かず飛ばずが数年続いた。
その間、スクーターの後ろに芸人やストリッパーのお姉さんを乗せて大阪中の劇場を回り白タクのアルバイト。
スクーターは、大卒の初任給が1万2千円だった時代に20万円のスクーターを買ってもらったもの。
生涯
「港、港に俺を待ってる女がいる」
といい続け、そういうことも上手なやすしは、いつの間にか女性と一緒に住み始め、やがてアルバイトもやめた。
「これではアカン」
と思いながらもズルズル溺れていってしまった。
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しかし芸人としての生活はキッチリ守り続けた。
1足しかないクツは、いつもピカピカ。
1本しかないズボンは毎日アイロンがけ。
メシを抜いてでも床屋にいって自慢のオールバックのアイロンも欠かさない。
「コッペパンしか食べてへんときでも散髪はいっとりました。
ワシがパン食べていることはお客さんはわからんけど舞台でしっつれいなカッコウはしたらアカン」
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しかし仕事はなくヒモ暮らし。
「情けない」
「ワシ、これからどないなるんやろう」
「一体いつ天下とれるんや」
女も随分泣かせたが、やすしも大阪の夜の底で泣いていた。
そんな状況をみかねた先輩芸人、歌謡浪曲師の中川礼子が
「あの子はどうやろ」
と当たりをつけてやすしに紹介した。
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西川きよしは、まだかけ出しの新喜劇俳優。
初舞台は熊役、その後も端役で出演していたが、ある公演の最終日、幕が下りたステージ上でワンワンと泣き出したことがあった。
「どないしたんや」
「もうこんなエエ役、2度とないと思うたら・・・」
「お前、入ったばかりやないか」
周りは笑い、
「泣き虫キー坊と呼ぶようになった。
決して演技はうまくなかったが、なんでも一生懸命にやるきよしは、その健気さでかわいがられた。
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西川きよしも横山やすしと同じ高知生まれの大阪育ち。
「ウチは何で貧乏なんやろう。
なんでお米が買えんのやろう。
なんで腹が減るんやろう。
いつも疑問に思っておりました」
事業で失敗した父親と逃れるようにやってきたため、大阪湾に面した町での生活は貧しかった。
しかしこれが西川きよしの原動力。
10歳のときから八百屋、牛乳配達、新聞配達などのアルバイト。
八百屋で野菜を売りながら
「スター」
「一攫千金」
を夢みていた。
中学でサッカーにハマり、高校でもサッカー部に入ることを希望していたが、タクシー運転手をしていた父親が十二指腸潰瘍で倒れ、進学を断念。
自動車修理工に就職したが手のやけどが原因で17歳のときに退社し、会社の先輩から芸人の道を勧められ吉本入り。
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西川きよしの行動は早い。
新喜劇のマドンナ女優だったヘレンは、アイルランド系アメリカ人の父親と日本人の母親を持ち、その名はヘレン・ケラーに因む。
都合が悪くなると
「私外人やから、日本語わかりません」
とギャグと大阪弁をしゃべる美人外国人として大人気だった。
あるときうめだ花月でヘレンが高熱を出し、とにかくゆっくり休ませなくアカンと思った作家が
「誰か近くに住んどるヤツ、おらんか?」
と周囲に聞くと
「近くです」
と答えたのが西川きよし。
それからが早い。
「もうタクシー用意できてます」
といい
「おう、頼むで」
と作家がいい終わる前にヘレンを担いで消えた。
2日後、ヘレンの母親から作家に
「娘が家に帰ってこない」
と電話がかかってきた。
驚いて作家は西川きよしに確認。
「どないなってんねん」
「ヘレンは『まだ少し熱があるんで僕の家におる』というてます。
ウチのお母さんとキャーキャーいいながら仲良うしてますわ」
作家はなにかおかしいと思ったが、案の定、2人はその後、結婚するといい出した。
ヘレンの母親は
「海のものとも山のものともわからん男に娘は渡されへん」
と猛反対。
西川きよしが
「ヘレンを吉本喜劇から辞めさせます」
というと
「ヘレンのほうが会社に貢献してくれてる」
「何でヘレンが辞めるんや。
お前が辞めたらエエがな」
と吉本も大反対した。
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一方は売り出し中のお姫様。
一方はただ目玉がデカいだけの男。
会社が反対するのも仕方なかったが、西川きよしは
「こんなハイエナだらけのとことに恋人を置いとけません」
「結婚を認めないなら2人そろって引退する」
と引かなかった。
それにきよしはただ目がデカいだけではなかった。
この数年前に時代劇風コメディ「てなもんや三度笠」で主演した藤田まことは、斬られ役とのかけ合いのオチで
「俺がこんなに強いのも当たり前田のクラッカー!」
と胸元からクラッカーを印籠のごとく出したが、これが大当たりし、最高視聴率、64.8%という人気番組となった。
これでスター街道を走りだした藤田まことは、馬面でアソコも馬並み。
平均日本人男性の倍はあるといわれ、
「銭湯で腰掛けると引きずって隣から流れてきたカミソリの刃でケガをした」
という伝説を持つ。
そして藤田まことと共に
「関西3馬」
といわれたのが、横山ノック、西川きよしだった。
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