日本社会に多大なる影響を遺した元死刑囚・永山則夫とは?
皆さんは元死刑囚・永山則夫の名前をご存知でしょうか?1968年10月から11月にかけて発生した連続ピストル射殺事件(正式名称:警察庁広域重要指定108号事件)の犯人であり、死刑囚として東京拘置所に収監されている間、小説の執筆など幅広い創作活動を行い日本文学界に多大な影響を与えたことでも有名です。この記事では永山の起こした事件の概要及び、収監中の創作活動について特集したいと思います。
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永山則夫が引き起こした「連続ピストル射殺事件」
事件の始まりは1968年10月8日。北海道網走に生まれ、集団就職で上京していた当時19歳の少年・永山則夫がアメリカ海軍・横須賀海軍施設に侵入し、拳銃を盗んだことから始まります。
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「社会への復讐」のための凶行!
永山が拳銃を盗んだのは「社会への復讐」のためでした。永山は1968年10月から11月にかけて、東京や京都、北海道などで警備員やタクシードライバーなど計4人をその拳銃で射殺。国内を転々としながら凶行を重ねていたことから、日本はパニック状態に陥りました。しかし、警察の懸命な捜査により1969年4月7日、永山は逮捕されます。
[昭和44年4月] 中日ニュース No.795 4「ピストル射殺魔逮捕 -108号事件-」
永山逮捕当時の貴重な映像。
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逃亡中に「ビートたけし」とニアミスも!
また永山は一連の犯行後、都内で潜伏しながら新宿区のジャズ喫茶「ヴィレッジヴァンガード」に早番で働いていました。その同時期に、遅番として働いていたのが「ビートたけし」です。ビートたけしによれば「顔だけは見ていた」ため、その後事件の犯人と知り大変驚いたとのこと。
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死刑か無期か?裁判は長期戦に!
永山則夫の起こした事件の裁判ですが、永山が犯行当時19歳の少年であったこと、犯行の動機や性質、事件の社会的影響の大きさなどの要因から、量刑をどうするかで司法の判断が揺らぎ、裁判は長期戦にもつれ込みました。
1979年、まずは東京地方裁判所で永山に死刑判決が言い渡されました。しかし弁護側が控訴し、1981年には東京高等裁判所にて今度は無期懲役判決に。それに対し検察側は最高裁判所に上告し、判断は最高裁にまでもつれ込みました。そして1990年2月6日、最高裁にて永山の死刑が確定したのです。
死刑判決にあたり示された「永山基準」
皆さんは「永山基準」という言葉をご存知でしょうか?これは永山へ死刑判決を下すにあたり示された死刑適用基準であり、永山の事件以降の殺人事件にはこの基準が参考として使われることが多く、司法の場において極めて重要な基準となっています。このように日本社会に大きな影響を与えた永山は、その後死刑囚として刑の執行を待つこととなりました。