藤圭子の生い立ち
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10歳から「三条純子」名で歌手活動をはじめる。
旭川市立神居中学校に入学した藤圭子は成績優秀で卒業するも、生活のために高校進学を諦めて歌手を志す。
17歳の時に岩見沢で行われた雪祭り歌謡大会に出場。歌を聴いたレコード会社の関係者の目に留まり、上京する。東京では当初日暮里の六畳一間のアパートに家族5人で住んでいた。
そのうち初代林家三平宅に下宿生活が決まる。
17歳の時に岩見沢で行われた雪祭り歌謡大会に出場。歌を聴いたレコード会社の関係者の目に留まり、上京する。東京では当初日暮里の六畳一間のアパートに家族5人で住んでいた。
そのうち初代林家三平宅に下宿生活が決まる。
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18歳の時歌手デビュー
当時は無名だった作詞家石坂まさをと出会いがあり、1969年9月25日、RCAレコードより「新宿の女」で歌手デビューする。
18歳の藤圭子は、デビュー当時にギターを弾きながら「新宿25時間キャンペーン」を行った。
父母が旅芸人で母が三味線瞽女ということもあり歌もギターも上手い。
18歳の藤圭子は、デビュー当時にギターを弾きながら「新宿25時間キャンペーン」を行った。
父母が旅芸人で母が三味線瞽女ということもあり歌もギターも上手い。
藤圭子 デビュー当時
藤圭子 貴重なデビュー当時の映像(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=AmN_r6qNhvg
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藤圭子 19歳
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新宿の女(動画)★藤圭子
藤圭子デビューシングル
1969年9月25日リリース「新宿の女」
作詞:みずの稔・石坂まさを/作曲:石坂まさを/編曲:小谷充
83万枚のセールスを記録した。
1969年9月25日リリース「新宿の女」
作詞:みずの稔・石坂まさを/作曲:石坂まさを/編曲:小谷充
83万枚のセールスを記録した。
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藤圭子♥命預けます(’70年レコード大賞:大衆賞)
藤圭子4枚目のシングル
1970年7月25日リリース「命預けます」
作詞・作曲:石坂まさを/編曲:曽根幸明
70万枚のセールスを記録。
1970年12月の日本レコード大賞大衆賞を獲得する。
1970年7月25日リリース「命預けます」
作詞・作曲:石坂まさを/編曲:曽根幸明
70万枚のセールスを記録。
1970年12月の日本レコード大賞大衆賞を獲得する。
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1970年10月23日に藤圭子のデビュー1周年記念コンサートが東京・渋谷公会堂で行われた。
この公演『藤圭子演歌を歌う』は、ファンの間で「伝説のコンサート」と言われ、藤圭子の歌手活動の中で最高のコンサートという。
この公演『藤圭子演歌を歌う』は、ファンの間で「伝説のコンサート」と言われ、藤圭子の歌手活動の中で最高のコンサートという。
池袋の夜 -LIVE '70 SHIBUYA- /藤圭子
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藤圭子と前川清の結婚~離婚
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挙式したときは、藤が20歳、前川が23歳。
藤圭子は、前川清と結婚中に家の水槽で、ニシキ鯉を飼っていたという。そして、いつもニシキ鯉を見つめ話しかけていた。
離婚の原因は性の不一致とも言われた。
「週刊現代」1972年8月31日号で夫婦の営みがなかったことを元夫の前川清が語っている。
藤圭子は、前川清と結婚中に家の水槽で、ニシキ鯉を飼っていたという。そして、いつもニシキ鯉を見つめ話しかけていた。
離婚の原因は性の不一致とも言われた。
「週刊現代」1972年8月31日号で夫婦の営みがなかったことを元夫の前川清が語っている。
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清と圭子
藤圭子♥この愛に生きて
藤圭子♥この愛に生きて 清と圭子をリリースする。
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離婚後二人の交流はなかった。
藤圭子が亡くなり、前川清は命日である22日に追悼ライブをおこなった。
藤圭子が亡くなり、前川清は命日である22日に追悼ライブをおこなった。
1954年の3歳の頃に北海道に移住、旭川市で育つ。
藤圭子は小さい頃から両親の音楽や歌を聴き育った、そして自らも歌う。
両親は北海道や東北地方を回る旅芸人で藤圭子も旅回りに同行していた。
1957年に『大有小学校』に入学する。
小学4年生の頃地元のお祭りで『出世街道』を歌う。この時がはじめての初舞台。
圭子が歌うと客席からお金が飛んできたという。