その時、棋史が動いた。 ~貧困の昭和将棋界が改革された1976年~
2017年6月5日 更新

その時、棋史が動いた。 ~貧困の昭和将棋界が改革された1976年~

金を借りに来る者、給料を前借する者、小切手では困るので現金でと頭を下げる者――昭和という時代、棋士の貧困は深刻だった。 彼らの立場と生活を守るために、日本将棋連盟経理担当・吉田利勝が声をあげる。金ならある、今こそ貧困を脱しよう、と。

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吉田利勝の生活

 吉田利勝は1933年生まれ。出身は愛知県の名古屋。
 1951年に奨励会に3級で入会し1957年に四段昇進。プロデビューを果たした。

 奨励会に在籍していた6年間、彼は何をしていたのか。当然将棋を指していたのであるが奨励会はふつうの将棋道場ではない。行けば適当な相手がいて将棋を指し、その結果で昇段したりしなかったりするという雑なシステムではなかった。

 《例会》というものがある。月に何回か対局をして、その勝ち星の数、勝率によって昇段規定を満たせば昇段していく。降段規定を満たせば降段する。級位であれば昇級、降級ということになるが基本は同じである。
 例会が無い期間は何をすべきだろうか? そりゃ将棋の勉強をすべきだろう、と目上などには言われる。だが「学生の本分は勉強である」と言われるのと同じで、人間だから寝て起きて将棋をしに行って帰ってきたら将棋をする、という具合にはいかない。数日限定であればそれも良いだろうがノイローゼなんかになってしまってはいっかんの終わりなのである。
 高校生であれば学校生活に力を入れることで気分転換ができたかもいれない。だが吉田は入会時点で16、7歳。卒業間近であった。
 こういう年齢特有の悩みも発生してくる。なまじ生活力があり、ひとり暮らしや上京ができてしまうので、それを支えるための金策のことも考えなければならない。

二足の草鞋

吉田利勝の著作

吉田利勝の著作

 生活を理由に将棋をほっぽりだすのは本末転倒であった。今であれば適当なアルバイトが見つかったかもしれないが、この時代だとそこまで整備はされていない。

 実はこのへんの窮状は将棋界の人も理解していた。救済措置はいくつかある。まず誰かの内弟子になってまるっきり養ってもらうという内弟子制度。だがこれだと養うほうにも養われるほうにも様々な負担がかかる。
 よって吉田はもうちょっとわかりやすい選択肢をとる。すなわち将棋連盟が持っている将棋関係の仕事を行ってまっとうに給与を頂戴するのである。

 吉田は連盟が発行している将棋雑誌「将棋世界」の編集員となった。
 連盟関係者ならば奨励会員でございと言えば事情や状況が通じるはずである。仕事の内容や時間に対して、もしかすると何かしらの配慮をしてもらえたのかもしれない。
 吉田と連盟の雇用関係がどのようなものだったかはわからないが、吉田が四段となりプロデビューをしたあとも雇用は続いていたようである。こういうところにも時代性が現れているのかもしれない。
東京将棋会館

東京将棋会館

入院と、気づき

 不意に転機が訪れた。吉田は結核に襲われてしまったのである。無理がたたったのだろう、というのが大方の推理であった。おそらく当たっていただろう。
 こういう時「仕事を放り出して将棋に専念した」と表現されるのが棋士の業である。吉田は勝負師気質、芸術家気質ではなく会社員気質に寄った棋士と言われているが、その吉田をしても「仕事(将棋を含む)をとめて休養する」という選択はしていない。

 さてここでちょっとした問題が起こった。入院費が捻出できないのである。
 当時の吉田には棋士としての収入と連盟職員としてもらった給与がある。入院費はそれを合計した金額の2倍だった。
 入院費で収入の5割を持っていかれる、8割も持っていかれる――ということならまだ悩みようがあったかもしれない。だが要求されたのは20割である。お手上げと言うしかなかっただろう。
 そうなると自分ひとりの力ではどうしようもない。このとき吉田は他の棋士たちから集められた《カンパ》によって支えられたのだという。
 目の前で犬が溺れれば突いて沈めるのが将棋指し、と言われることもある。勝負師だからそういう一面もあるだろう。だが棋士だからと言って雁首揃えて人間をやめているわけでもない。これは想像だが、勝負強くまた《したたか》なトップ棋士のほうがポンと大金を出したのではなかろうか。
 この手の「厳しいといわれている大御所がのっぴきならない状態にいる人を助けた」という話はわりとあちこちで見聞きする。

 入院中に吉田は色々なことを考えたという。勝った対局のこと、負けた対局のこと、入院費を出してくれた人のこと、仕事のこと、これまでのこと、これからのこと。
 ふとひとつの疑問が浮かんだ。
「俺たちなんか貧乏じゃないか?」

棋士、兼、

 吉田は棋士としての華々しい活躍は《無かった》とすら表現される。身も蓋も無い言い回しだがタイトル戦に絡んだわけでもなければ棋戦優勝をしたわけでもない。順位戦だと最高はB級2組。王将戦リーグに入ったり棋聖戦挑戦者決定戦に現れたりしているが、裏を返せばそこまでで止まってしまっている。
 だが吉田は将棋とつかず離れずのところで華々しい《戦果》を上げていた。

 彼は病院から戻ると「将棋世界」編集部にて新企画《初段コース》をスタートさせる。アマチュアでも問題を解き実力が認められれば連盟公認の免状がもらえるのである。これが大ヒット。「将棋世界」の部数は3倍以上に伸びた。

 江戸や明治といった古の時代では棋士が有力者何某に何段の免状をだし謝礼を受け取ったという文化もある。剣術などでも見かける類の逸話だが、それを雑誌で大々的に行ったのは吉田の慧眼と言えよう。
 アマチュア参加型企画は現在の将棋雑誌、将棋放送でも人気コンテンツとなっている。
将棋世界

将棋世界

現在でも刊行が続いている「将棋世界」。
 「将棋世界」の部数は伸びに伸びてゆく。しかし、生活が良くなる気配は無い。吉田の疑問はますます大きくなっていった。
 しばらくすると吉田は編集部ではなく経理部の椅子に座るようになっていた。いったい自分たちの何がいけないのか? それを知るためには経理をやれば良いのである。

 金庫の鍵を握ったとなれば出来心が現れる人もいるかもしれない。公的な金を私的に使ったり、豪快な気質であれば蔵を開放して飲めや踊れやのバカ騒ぎをやらかしたりもする。
 だが彼はそういう気質の持ち主ではなかった。そして、現実のほうもそういう甘いことを考えさせる隙を見せなかった。経理となった吉田の前に現れたのはのっぴりならない金銭事情である。
 金を貸して欲しい、給料を前借させて欲しい、契約金は小切手だと実際に金が手に入るまで時間がかかってしまうから現金にして欲しい……。名人挑戦経験があるA級棋士ですら借家住まいという現実が、明確な数字となって眼に飛びこんでくる。
花村元司九段

花村元司九段

真剣師(賭け将棋の指し手)から棋士になったという異色の経歴を持つ花村元司九段。
昭和の強豪のひとりで名人への挑戦も行っているが、「アマチュア時代のほうが稼げていた」という言葉もわりあい有名である。

吉田の才覚

 貧困である。貧困が将棋と棋士と連盟とがっつり肩を組んでしまっていた。引退棋士に支払う金額ですらヨソから借りてまわさなければならない始末。

 貧困の理由はいくつかあるのだが、吉田が目を付けたのは名人戦の問題だった。
 古い将棋を知っている人ならば《名人戦主催紙移行問題》はご存知だろう。将棋連盟が名人戦の主催を朝日新聞から毎日新聞に移した件で、「囲碁のトップ棋戦金額を超えたかった」と理由付けされる場合もある。だがそんな見栄っ張りなことを言う余裕があったのだろうか。

 囲碁と比較すると契約金が少ないというのは事実であった。囲碁序列1位《棋聖戦》の契約金は1億5000万を超えている。
 これに対して、将棋序列1位名人戦の契約額3000万。

 5分の1!

 熱烈な将棋ファンであったら激怒しそうな対比である。もちろん棋士のなかにも激怒する人はいたかもしれないが激怒はさておき貧困の対策の話が必要になってくる。
 ここに連盟の苦悩をうかがわせる逸話が残っている。
 どうも連盟は毎年、名人戦の契約金を上げる交渉をしていたらしい。らしいのだが、その方法は「生活が苦しいのでなんとかしてください」という人情論。困った時は助け合おうという良き哲学がこの場合は悪い結果をだしてしまったのかもしれない。
 吉田は問題解決のため現実的に表現し、行動した。

「そろそろ我々の蓄えが増えてきて、様々なことを見直す段階になってきている。名人戦の契約金というのもそのひとつで、あまりにも不利な状態が長く続くようなら契約そのものについても考える必要が生じてしまうかもしれない」

 朝日に直接ぶつけたわけではない。彼は巧みな男で、まず周囲の棋士に対してそういう情報を提出し意識を《浸透》させていった。
 人によっては寝耳に水だっただろう。何せ「生活ができないのでなんとか契約金を……」と交渉している人物と「我々にも余裕がある」と言っている人物が同じなのである。

 これは完全にハッタリというわけでもなかったらしい。「将棋世界」の発行部数は実際伸びていたし、経理運営もどんどん改善している。じきに「1億円持っている」「2年ほどみんなを食わせる蓄えがある」という数字も登場した。

 勝ち目があるなら乗っていくのが勝負師というものである。どうせこのままでは苦しい状態が変わらない、だったら勝負に出てみようかという声が大きくなってきていた。
 いわゆる意識改革というやつである。このあたりのことが語られることはあまり無いのだが、結果を見ると吉田は天才的とも言える手腕を発揮していたのではないだろうか。

1976年

 その時、棋史が動いた。

 朝日新聞は契約金を一気に1億1000万に引き上げたのである。勝負時には一丸となる棋士の性質と、見事にその《時》をつくりあげた吉田の現実感覚がもたらした意義のある《実り》だった。

 これは「新聞社と将棋界の戦いであり、棋士が勝利した」という話ではない。
 2つの組織はお互いに利益があるから契約を結ぶのであり主従関係ではないのである。だが戦前戦後とぶちあたっている連盟創成期の経済、人事、政治事情、江戸から続く伝統、囲碁界との新聞社との関係といった様々な要素が絡み課題の繭玉ができあがってしまっていた。
 これを分析して解きほぐし、実際に解決した吉田の功績は大きかった。まあなにはともあれこれでひと段落、やっとひと息という空気がひろがっていくなかで、とんでもない意見が出てきた。

「もう2億くらいいけるのでは?」

棋士の得意技《刺し違え》

実力制第四代名人 升田幸三

実力制第四代名人 升田幸三

 時は1952年にさかのぼる。2月、王将戦において升田幸三は木村義雄名人に対して4勝1敗の結果をたたきつけ、規定によって「升田が木村名人に対して駒を落とす」というハンデ戦が行われる予定だった。名人がハンデを受けるなどとは前代未聞のことであり、古参棋士のなかには「玉音放送以上の衝撃だった」と語る者もいる。
 しかしこの対局は実現しなかった。升田は対局を拒否したのである。事態が前代未聞であれば、升田も前代未聞の男であった。
 対局拒否は棋士にとって大変なことであり、不祥事といった言葉で表現されることも多い。しかも舞台が舞台である。連盟は当然重く考え、升田を将棋界から追放しようという声まで出ていた。除名はさておき1年間の対局禁止はかたいところである。
 しかし升田というのも実力、人望ともに抜群の棋士である。特に同郷関西の棋士たちは連盟の処分に大きく反対し、関西理事全員辞表提出という手に出てきた。こうなってくると日本将棋連盟が前のように関東の将棋連盟、関西の将棋連盟のように分裂してしまう。
 けっきょくこの事件は当人の木村名人が裁可をくだし「升田も理事会も双方悪いから双方反省すること、除名も対局禁止も辞表受理も無し」という結末になった。
 隙の無い判断だったと思うが、問題が大きくなればなるほど「木村名人さえ升田に負けていなければこんなことにはならなかった」という話にもなってくるのである。水面下あるいは表面で様々な駆け引きが行われていたのかもしれない。
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