70~80年代を代表するヒール・上田馬之助!金髪がトレードマーク!
皆さんは上田馬之助(うえだ うまのすけ)というプロレスラーを覚えていますか?
大相撲の力士を経て、日本プロレスに入門プロした70~80年代を代表する名ヒールです。
190cmの大柄で、金髪がトレードマークでした。
大相撲の力士を経て、日本プロレスに入門プロした70~80年代を代表する名ヒールです。
190cmの大柄で、金髪がトレードマークでした。
1966年からアメリカを舞台に活動し、1971年3月に帰国した上田馬之助。
以降、各団体のリングを渡り歩きながら、日本人としてはおそらく初めてとなるヒールとしてのスタイルを確立していきました。
以降、各団体のリングを渡り歩きながら、日本人としてはおそらく初めてとなるヒールとしてのスタイルを確立していきました。
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1971年に起こった「日本プロレス密告事件」
上田馬之助がアメリカから帰国した1971年にプロレス界を大きく揺るがす大事件が起こります。
当時の日本プロレスの不正な会計処理などに不満を持っていたジャイアント馬場やアントニオ猪木ら選手会一同が、経営陣の不正を正そうと一部幹部の退陣を突きつけようと画策していました。
当時の日本プロレスの不正な会計処理などに不満を持っていたジャイアント馬場やアントニオ猪木ら選手会一同が、経営陣の不正を正そうと一部幹部の退陣を突きつけようと画策していました。
真相は未だに分からず・・・
経営陣には知られないようにアントニオ猪木を中心に、水面下で動いていた選手側。しかし、上田馬之助が意図的にその動きを経営陣にリークしたと言われています。
それからアントニオ猪木の動きがマークされ、結局封じ込まれることとなりました。
アントニオ猪木はこの騒動に乗じて、日本プロレスにおける経営トップに立つという目的があったと言われますが、実際のところは様々な証言があり、真相は分かっていません。
しかし、この事件後に上田馬之助とアントニオ猪木は和解することになりますが、気心の知れた仲だった二人が、仲違いをしてしまったのは間違いありません。上田馬之助はある雑誌のインタビューで「あの時、私は裏切り者にされた。一度猪木に経緯を説明したい。いかに私が日本プロレス幹部からいじめられていたことを…」とコメントしています。
それからアントニオ猪木の動きがマークされ、結局封じ込まれることとなりました。
アントニオ猪木はこの騒動に乗じて、日本プロレスにおける経営トップに立つという目的があったと言われますが、実際のところは様々な証言があり、真相は分かっていません。
しかし、この事件後に上田馬之助とアントニオ猪木は和解することになりますが、気心の知れた仲だった二人が、仲違いをしてしまったのは間違いありません。上田馬之助はある雑誌のインタビューで「あの時、私は裏切り者にされた。一度猪木に経緯を説明したい。いかに私が日本プロレス幹部からいじめられていたことを…」とコメントしています。
一方のアントニオ猪木は、自著「アントニオ猪木自伝」で事件に言及し「経営陣の不正を正したかったことに嘘はない」と語っています。
以降、ジャイアント馬場が「全日本プロレス」、アントニオ猪木が「新日本プロレス」を立ち上げています。この両者に上田馬之助を加えた三人はこの一件でプロレス人生が大きく変わってしまいました。
以降、ジャイアント馬場が「全日本プロレス」、アントニオ猪木が「新日本プロレス」を立ち上げています。この両者に上田馬之助を加えた三人はこの一件でプロレス人生が大きく変わってしまいました。
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1986年の前田日明とガチンコの名勝負!
1986年10月、数々の異種格闘技戦で知られるキックボクサーのドン・中矢・ニールセンに勝利したことで前田日明は「新格闘王」と呼ばることになります。
同年3月には上田馬之助とも対戦し、シュートと呼ばれるガチンコの勝負を繰り広げています。
同年3月には上田馬之助とも対戦し、シュートと呼ばれるガチンコの勝負を繰り広げています。
フライング・ニールキックやジャンピング・ニー・バットなど多彩なキックを持つ前田日明。試合で前田日明のキックの応酬を喰らい続けますが、上田馬之助は一向に倒れることはありませんでした。
途中、側頭部にハイキックを見舞われますが、ここでもダウンせずに、得意のフライング・ニールキックでようやくダウンするなど、ガチンコ勝負に会場は大盛り上がりとなりました。
上田馬之助のシュートでの実力は知られていなかったため、当時勢いに乗っていた前田日明のキックを受け続けるという強烈なインパクトを与えました。
途中、側頭部にハイキックを見舞われますが、ここでもダウンせずに、得意のフライング・ニールキックでようやくダウンするなど、ガチンコ勝負に会場は大盛り上がりとなりました。
上田馬之助のシュートでの実力は知られていなかったため、当時勢いに乗っていた前田日明のキックを受け続けるという強烈なインパクトを与えました。
晩年は胸下不随の状態に
1996年3月に東北自動車道で交通事故に遭い、一命は取り留めたもののり頸椎を損傷してしまい、胸下不随の状態となります。首から下が動かず、生活が180度変わってしまいます。
しかし、1998年にはリハビリを経て、「上田馬之助現役引退記念大会」に車椅子に乗って登場。往年のファンを安心させています。
しかし、1998年にはリハビリを経て、「上田馬之助現役引退記念大会」に車椅子に乗って登場。往年のファンを安心させています。