澤穂希   愛よりもサッカー 。愛ゆえにサッカー 。愛ゆえに愛を捨てサッカー。とにかく今はサッカーだ!!
2023年11月1日 更新

澤穂希 愛よりもサッカー 。愛ゆえにサッカー 。愛ゆえに愛を捨てサッカー。とにかく今はサッカーだ!!

13歳で国内リーグデビュー、15歳で日本代表デビュー、17歳でオリンピックデビュー、20歳でアメリカ挑戦。そして22歳で愛よりもサッカーを選び帰国。

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兄が中学卒業後、競馬の調教師になるために北海道の厩舎へいったため、澤穂希は、母親と2人暮らしになると共に自分の部屋を手に入れた。
そして初めて「日本代表」に召集された。
前回は「日本代表候補」だったが、今回は「日本代表」
日本代表に選ばれると、まず日本サッカー協会からレターが所属先に送られる。
澤穂希は、ベレーザスタッフからそれを受け取り、召集されたことを知ると
「信じられない」
と驚いた。
新聞にも取り上げられ、中学校では校長から賞状をもらった。
そして15歳の冬、第9回AFC女子アジアカップがマレーシアで始まった。

マレーシア
香港
北朝鮮
中国
フィリピン
韓国
チャイニーズタイペイ
日本

が参加し、まず4チームずつ2組に分けられ総当たり戦を行い、各組上位2チーム、計4チームで決勝トーナメントを行う。
日本は、12月4日のチャイニーズタイペイに6対0で勝利。
最高年齢27歳、1番近くても17歳というチームの中で、15歳の澤は、この試合をベンチで観戦。
「中学3年生で初めて代表に呼ばれたんですが、生意気な15歳で、試合に出られないのが悔しくて・・」
翌日の練習でベレーザの先輩で日本代表キャプテンでもある野田朱美 に、
「さあ、アピールしてこい」
といわれ、ウォーミングアップのジョギングで、それまで1番後ろにいたのに先頭を走り、野田は
「行け、行け!」
とハッパをかけた。
12月6日、第2戦、フィリピン戦の試合前も、
「監督の前で自分いるよって全力でウォーミングアップ」
そして澤穂希は、日本代表デビューを果たし、いきなり4得点し、日本代表は、15対0で勝利した。
12月8日、香港戦も4対0で勝利し、予選リーグを1位で通過し、決勝トーナメント進出。
12月10日、決勝トーナメント1回戦の中国戦を1対3で敗退。
12月12日、3位決定戦、チャイニーズタイペイ戦を3対0。
最終的に、優勝は中国(4連覇)、2位は北朝鮮、日本は3位だった。
8日間で5試合という過密スケジュールで大会はアッという間に終わったが、澤穂希はフィリピン戦後、すべての試合に出場した。
「代表という願いが叶うと、ワールドカップ、オリンピックと夢がどんどん大きくなりました」

OH OH OH ~We are the Winners~

1994年2月、第5回日本女子サッカーリーグが終了。
ベレーザは、開幕戦で清水に敗れて無敗記録は失ったものの、4連覇を達成。
澤穂希は、ベストイレブンに選ばれた。
1994年4月、第6回日本女子サッカーリーグが開幕。
7月、西友とスポンサー契約を結んで名前が変わった「読売西友ベレーザ」が前半戦を1位で終了。
9月、「日本女子サッカーリーグ」も「L・リーグ」に名前が変わり、公式イメージソング「OH OH OH We are the Winners」を発表。
メインボーカルは酒井法子、そしてリーグの10クラブから1選手ずつがバックコーラス。
各クラブもイメージソングも製作し、日興證券は早見優、TOKYO SHIDAX LSC(旧:新光FCクレール)」はマルシア、そしてベレーザは和田アキ子とそれぞれ個性的なキャスティング。
12月、第6回日本女子サッカーリーグが終了。
優勝したのは「松下電器レディースサッカークラブバンビーナ」
第2~5回まで4連覇したベレーザは3位。
東京都立南野高校1年生の澤は、毎月、給料の半分を家に入れて一定額を貯金し、お金の出し入れを堅実に管理。
中学に入るときスカートが嫌でナーバスになったが、高校ではルーズソックスまではき、ベレーザの練習が休みの月曜日は、放課後、ポケベルで連絡を取り合って、友人とカラオケやお茶をした。
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1995年6月、スウェーデンで第2回FIFA女子ワールドカップが開催。
高校2年生の澤穂希は、日本代表の背番号7をつけてワールドカップ初出場。

参加12ヵ国が4チームずつ3組に分けられ、総当たり戦を行い、各組上位2チームと3位のチームの成績上位2チーム、計8チームよる決勝トーナメントが行われる。
そして決勝トーナメントに進出したベスト8国は、翌1996年に行われるアトランタオリンピックの出場権を得る。
ワールドカップ2大会連続出場、前大会、無得点予選敗退の日本は、

ドイツ戦 0対1
ブラジル戦 2対1
スウェーデン戦 0対2

とブラジルに勝って、グループリーグ3位で決勝トーナメント進出し、オリンピック出場権をGET。
しかし決勝トーナメント初戦で、アメリカに0対4で負けた。
澤穂希は、ドイツ戦で、体格、フィジカル、当たりで今までに経験したことのない大きさと強さを経験。
「0対1と結果だけみれば惨敗だったけれど、実際感じた差は大きなものだった」
ブラジル戦は、ベレーザの先輩、日本代表キャプテンの野田朱美 の2ゴールで勝利。
ホスト国、スウェーデン戦で、澤穂希はゴールキーパーと接触して足を負傷。
病院へ直行したが、松葉杖なしでは歩けない状態になり、
「ぜひ戦ってみたい」
と思っていた世界最強のアメリカとの戦いは、スタンドで観戦。
0対4で敗れるのをみて、世界の壁を痛感した。
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ワールドカップが終わった後、L・リーグが8~12月という超短期間で開催し、「プリマハム・FC・くノ一」が優勝。
ベレーザは4位だった。
長年、ベレーザの天下だった日本女子サッカーリーグは、群雄割拠、下克上の戦国時代と化していた。
その理由は、黒船。
清水は、元々いた周台英に謝素貞、許家珍を加え「チャイニーズタイペイ・トリオ」で結成。
フジタは、アメリカ代表ゴールキーパー、グレッチェン・ゲグ、カナダ代表FW、キャリー・セアウェトニク。
プリマハム・FC・くノ一は、カナダ代表FW、シャーメイン・フーパー、中国代表の李秀馥と菫樹紅。
各支援企業が世界から優秀な選手を獲得した結果、男子のイタリア「セリエA」のような世界のスターが集まるリーグとなった。
澤穂希にとって特に印象深かったのは、シャーメイン・フーバーで、1人で局面を打開し、ゴールまで決めてしまう姿に驚いた。
「ベレーザにも外国人選手が在籍していて、チームメイトや対戦相手に高いレベルの選手がいると負けたくないという気持ちが生まれたし、もっともっと上手くなりたいという気持ちも自然と持つようになった。
外国人選手は府中市や東京しか知らない私にとって世界を教えてくれる存在でもあった。
世界にはこんな選手がいるんだと思うとワクワクした」
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1996年4~5月、Jリーグに比べ、観客動員数が少ないL・リーグは、リーグ戦だけでなくカップ戦を導入し、「Lリーグカップ96」を開催。
L・リーグに参加する10チームが東西5チームずつに別れて総当り戦を行い、上位2チームで4チームで決勝トーナメントを行って、最終的にベレーザが優勝。
5月、女子日本代表は、アメリカに遠征し、US女子カップに参戦。
中国に 0対3、アメリカに0対4と連敗。
カナダ戦 をPK戦で勝って、なんとか3連敗は免れたが、帰国後、国内でデンマークと2回、壮行試合を行い、1敗1分。
その後、アトランタオリンピック最終選考合宿が行われ、最終日にアトランタオリンピック代表メンバーが発表された。
20名ほどいる候補の中で選ばれるのは16名。
名前を呼ばれたら、そのままアメリへ、呼ばれなければ代表選手を見送った後、地元へという残酷なシチュエーションをくぐりぬけ、澤穂希は代表メンバーとなった。
アメリカに着くと最終調整として2戦行ったが、オーストラリア戦に2対2、 スウェーデン戦に 1対3と両方とも勝てなかった。
7月、アメリカ、アトランタでオリンピックが開催。
伝説的ストライカー、釜本邦茂の活躍もあって1968年のメキシコで銅メダルを獲得したものの、それ以降、72年、76年、80年、84年、88年、92年と予選敗退の男子日本代表が、グループリーグ第1戦で、優勝候補のブラジルに1対0で勝利。
日本では「マイアミの奇跡」、ブラジルでは「マイアミの屈辱」といわれた。
その後、ナイジェリアとハンガリーに連敗し、グループリーグ3位で予選敗退。
(日本に負けたブラジルは、銅メダル獲得)
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一方、女子サッカーは、男子より96年遅れて正式採用されたため、全チームが初オリンピック。
そんな中で日本代表は、

ドイツ戦 2対3
ブラジル戦 0対2
ノルウェー戦 0対4

でグループリーグ4位敗退。
13歳で日本女子サッカーリーグデビュー、15歳で日本代表デビュー、17歳でオリンピックデビューをした澤穂希は、3試合にフル出場。
前年のワールドカップでキーパーをぶつかって負傷したが、オリンピックでもドイツ戦で再びキーパーに体当たり。
こぼれ球を木岡二葉がゴールに蹴り込んだ。
その後もブラジル戦、ノルウェー戦で体当たりし、跳ね返された。
「ただ怖いもの知らずだった」
最終的に、

金メダル アメリカ
銀メダル 中国
銅メダル ノルウェー

という結果となった。
澤穂希は、帰りの飛行機で
「どうして1勝もできないんだろう」
「どうして全敗なんだろう」
「なんでこんなに差があるんだろう」
そんなことばかり考えていた。
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オリンピック後、8~12月に開催されたL・リーグでは、「日興證券ドリームレディース」が初優勝。
ベレーザは3位だった。
大手証券会社によって結成された日興證券ドリームレディースは、全選手が社員として雇用された上でサッカーに専念。
専用練習グラウンド、クラブハウス、選手寮、ユニホームや練習着だけでなく、オリジナルデザインの練習ボールまでつくられるというJリーグなみの環境。
さらに第1回女子ワールドカップ準優勝国、ノルウェー代表FW、リンダ・メダレン、DF、グン・ニイボルグ、MF、ヘーゲ・リサを獲得していた。
日興だけでなく、Lリーグに参加するチームの多くが専用グラウンドやクラブハウスを持ち、世界から選手が集め、
「世界最高の女子サッカーリーグ」
と呼ばれていた。
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1997年1月、シドニーオリンピックに向け、女子日本代表監督が58歳の鈴木保から36歳の宮内聡となった。
最初の合宿に招集された23人の中でアトランタ経験者は8人だけで選手も世代交代が進められた。
新監督は、通常、1日に90~120分が1回行われていた練習を、午前、午後の2回、ときに夕食後に3回目を行うなど量を増やし、かつ内容も濃くした。
澤穂希は、ベレーザの竹本監督から進学を勧められ、父親に入学金を出してもらい、帝京大学に進学。
中学時代、サッカー選手になりたいと思いながらも、子供が好きで
「学校の先生になりたい」
という気持ちがあったので、教師になる卒業生が多いという文学部教育学科を選んだ。
大学生になっても昼間は学校、夕方から夜にかけてベレーザで練習というスケジュールは変わらなかったが、様々な人と知り合って人間関係の幅がグンと広がった。
1997年6月、日本女子代表は、東京の国立競技場で行われた中国との親善試合を、1対0。
1週間後、大阪での第2戦はドロー。
女子日本代表のキャプテンは、日興証券の山木里恵。
3歳下の澤穂希は副キャプテンを務め、そしてベレーザの先輩、野田朱美から背番号10を継いだ。
「日本代表の10番、それを野田さんという大先輩から受け継ぐのはうれしかった」
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ベレーザでも「「お姉さん」となり、若手時代は自分が成長し自分のプレーだけに集中していればよかったが、チームのことを考えるのも仕事になった。
ときには選手を叱責することも求められたが、人見知りで不器用で優しい澤穂希には、なかなかできない。
悩み、苦しみ、試行錯誤を繰り返した末、たどりついた答えは、
「私なりでいいんじゃないか」
そう思うといろいろなことが自然体でできるようになり、
「足りない部分はプレーで引っ張ってプレーで伝える」
という覚悟と責任感、そして意欲がわいてきた。
グラウンドでは
「絶対にあきらめないという姿勢を示すことが仕事」
と決め、誰よりも走った。
「自分への「いいね」が大事。
仲間のいいところをホメ合う関係も大事」
という一方で
「ダメ出しを遠慮するようでは目標は達成できない。
嫌われるかな?、傷つくかな?といいたいこと、いうべきことを飲み込んでいては、よいチームにはなれない」
と何事もためらわず伝え、年下の選手に
「澤さん、今のパス、もう少し早く出してもらえたらよかったです」
などと遠慮なくいわれると心強く感じた。
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12月に行われたAFCアジアカップでは、

グァム 21対0
インド 1対0
香港 9対0
北朝鮮 0対1
チャイニーズタイペイ 2対0

と準決勝で北朝鮮に負けたものの3位。
1999年にアメリカで行われる第3回FIFA女子ワールドカップの出場権を入手。
一方、L・リーグは、日興證券ドリームレディースが2年連続の優勝。
しかし翌1998年10月、日興證券ドリームレディースは、シーズン真っ最中に、このシーズン限りでの解散を発表。
バブル経済崩壊後、経営不振に陥った日興證券のコスト削減の一環だった。
澤穂希が所属する「読売西友ベレーザ」も、西友が撤退し「読売ベレーザ」となった。
1999年1月、日興證券ドリームレディースがL・リーグ3連覇を達成した後、解散。
続いて「フジタサッカークラブ・マーキュリー」も廃部を決定。
男子Jリーグでも、運営会社の全日空と日産自動車の経営不振により、横浜フリューゲルスが横浜のマリノスに吸収合併されて、「横浜Fマリノス」に。
さらに第1回日本女子リーグチャンピオンの「鈴与清水FCラブリーレディース」と「シロキFCセレーナ」も撤退。
L・リーグは、10チーム中、4チームが消えてしまった。
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