澤穂希   愛よりもサッカー 。愛ゆえにサッカー 。愛ゆえに愛を捨てサッカー。とにかく今はサッカーだ!!
2023年11月1日 更新

澤穂希 愛よりもサッカー 。愛ゆえにサッカー 。愛ゆえに愛を捨てサッカー。とにかく今はサッカーだ!!

13歳で国内リーグデビュー、15歳で日本代表デビュー、17歳でオリンピックデビュー、20歳でアメリカ挑戦。そして22歳で愛よりもサッカーを選び帰国。

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小学校卒業が近づくと府ロクのチームメイトは、進路について話し始め、強豪中学校のサッカー部、社会人チームである読売サッカークラブや日産FCのジュニアチーム、三菱養和スポーツクラブなどのサッカークラブなどについて語り合った。
澤穂希は、中学校に女子サッカー部はなかったが、自宅から比較的近い場所にベレーザがあり、実際に電車に乗って練習に参加したこともあった。
そのとき、ずっと男子と一緒にやってきた澤穂希は、女子だけの練習は居心地が悪く、、ベレーザの選手に話しかけられてもテレくさくて、どうしていいかわからなかった。
直後、国立競技場で府ロクのメンバーと試合を観戦していたとき、こちらに向かって手を振る女性がいて、しかも声をかけようと笑顔で近寄ってきた。
「誰?」
というチームメイトに
『ベレーザの大竹奈美さん』
といえばいいのに、
(来ないで)
という気持ちを込めて大竹奈美にらんだ。
そして帰っていく大竹をみて、
(わざわざ挨拶してくれたのに・・・)
(ひどいことをしてしまった)
と自己嫌悪に陥った。
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1991年1月、第2回日本女子サッカーリーグが終わり、ベレーザが初優勝。
16ゴールを挙げて得点女王&MNPを獲得したキャプテンの野田朱美、高倉麻子、手塚貴子、本田美登里、松永知子という日本代表選手を並べる布陣で、14勝1分け無敗という圧倒的な強さだった。
4月、府中市立第5中学校に進んだ澤穂希は、小学校ではなかった制服を着なくてはならず、スカート問題に直面。
母親は、
「お母さん、私だけキュロットにすることはできないの?」
といわれ、
「我慢しなさい」
と答えた。
その後、登校するとき、娘のスカートが異様に膨らんでいるのをみて確認すると下着の上にブルマ、さらにサッカーの短パンを履いていた。
澤穂希は、中学校入学と同時に「ベレーザ」のジュニアチームである「メニーナ」の入団テストを受けた。
ベレーザがポルトガル語で「美人」という意味なのに対し、メニーナは「少女」
2年前にできたばかりのメニーナは、出来上がった選手を集めるのではなく才気ある中学生、高校生を鍛えようというベレーザの育成システムでもあった。
テスト内容は

50m走
リフティング200回
ゲーム

だったが、合格。
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練習場所は、聖地、よみうりランドの中にある専用グラウンド。
練習頻度は、週6回。
2階建ての古い建物の中にベレーザとメニーナ共用のロッカールームとトレーニングルームがあり、両チームは同じ時間に練習した。
選手は基本的に社会人なので、学校の部活動より遅めの18時30分に練習が始まり、21時30分に終了。
澤は、朝起きて登校すると、まず学校のそばにある府ロクのコーチの家に練習用のカバンと服を置く。
学校が終わるとコーチの家にいって制服からジャージに着替え、バスで練習場へ。
うまくいくと練習開始1時間前に到着し、コンビニで買ったおにぎりを食べて、誰もいないグラウンドで練習。
帰り道、コンビニで食べ物を買って、バスに乗って家に着くのは22時~22時半。
そこから夕食を食べた。
「練習をしていなかったら肥満児になっていたんじゃないかというくらい食べてた」
風呂に入って、宿題をして、日記とサッカーノートをつけて、寝るのは24時~深夜。
そして7時に起床し、登校するという生活を繰り返した。
サッカーノートには、その日の練習内容や目標、課題などを絵入りで書いた。
「サッカーノートはずっとつけてました。
ミーティングの内容とか、練習の中で気づいたこと、メンタル面のことなども書いてましたね」
平日は練習、週末は試合で、試合の翌日が休みとなるので、月曜日だけが休み。
学校があるため、丸1日休んだり、遊んだりすることはできなかったが、月曜日の放課後にクラスメイトと遊んだ。
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メニーナに入って1ヵ月後、澤穂希は竹本一彦監督の判断でベレーザに昇格した。
中学1年生の澤穂希は、大人のチーム独特の
「ミスしたら怒られる」
というプレッシャーを感じた。
これまでは同い年の男子ばかりだったのに、周りは10代後半~20代の「お姉さん」
身体能力の差は明らかで、同じように走れないしトレーニングもこなせなかった。
そして練習が始まると日本屈指の強豪チームの中で夢のような気分になった。
「雲の上の存在だった憧れの本田美登里さん、高倉麻子さん、野田朱美さんを前に、わぁ、私、なんてすごい人たちとサッカーしているんだろうと毎日興奮し、練習なのに、試合以上に緊張してガチガチになっていました。
当時、練習や試合で右のハーフのポジションに入ることが多く、右サイドバックには本田さんがいて、ボールを持つとどうしても本田さんを頼ってボールを戻してしまうんです。
緊張しちゃって、前に相手選手がいるかどうかなんて冷静にみえていなかったんでしょうね。
あるとき本田さんにピッチで怒鳴られました。
『コラッ、澤!どうしてボールを戻すの!前を向いて自分で行きなさい!』って。
この「前を向いて自分で行く」は、憧れの人たちに囲まれたあのベレーザのピッチで私が最初に教えてもらったことかもしれない。
今でも覚えています」
お姉さんたちは恋愛話などもしていて、澤穂希はサッカー以外にもたくさん学び、野田朱実に
「耳年増」
といわれた。
よみうりランド内の専用グラウンドは、男子チームである東京ヴェルディも練習していた。
この頃、日本男子サッカーは初のプロサッカーリーグ誕生に向けて準備を進めている、いわゆる「Jリーグ前夜」、
そんな熱い時期に熱く練習する男たちをみることができ、その技術やフィジカル、そしてサッカーに対する意識が高さ、姿勢を尊敬せずにいられなかった。
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1991年5月、第8回AFC女子アジアカップが福岡県で開催。
第1回FIFA女子ワールドカップの予選も兼ねていて、上位チームは、その出場権を得ることができる。

中国
香港
マレーシア
北朝鮮
シンガポール
韓国
チャイニーズタイペイ(台湾)
タイ
日本

の9ヵ国が参加し、まずグループリーグでA組4チーム、B組5チームの2組に分けられ、総当たり戦を行い、上位2チーム、4チームが決勝トーナメントに進む方式。
ベレーザの先輩、野田朱美、高倉麻子、手塚貴子、本田美登里、松永知子が入っている日本代表は、グループリーグを1位で通過。

中国
北朝鮮
チャイニーズタイペイ
日本

で行われた決勝トーナメントで決勝戦まで勝ち残ったが、中国に0対5で完敗。
銀メダルを獲得し、ワールドカップ出場を決めた。
その1ヵ月後、

「日興證券ドリームレディース」(千葉県]
「旭国際バニーズ女子サッカー部」(大阪)
「松下電器レディースサッカークラブ・バンビーナ」(大阪)
「フジタ天台サッカークラブ・マーキュリー」(神奈川)

と新しく4チームが加わって、10チームで第3回日本女子サッカーリーグが開幕。
7月7日、中学1年生の澤穂希は、 フジタ天台SCマーキュリー戦で日本女子サッカーリーグデビュー。
右サイドハーフに入り、後ろの右サイドバック、14歳上の本多美里に、
「前向け!」
「前行け!」
と怒鳴れらながらプレー。
11日後の7月28日、デビュー3戦目、 新光精工FCクレール戦で、初得点を含む2ゴールを決めた。
最終的に、このシーズンは13試合出場5得点。
またU-20(20歳以下の)日本代表に選ばれ、韓国へ遠征し、韓国戦で初めて日本代表のユニフォームを着た。
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ベレーザでは、澤穂希と同級生の五味輿恵、原歩も試合に出ていて、
「中3トリオ」
といわれ、何かと比較された。
男子と一緒にサッカーをやってきた澤にとって、同性、しかも同年齢のライバルは初めてで、
「何が何でも勝たなきゃ」
と思っていた。
一方、原歩にとってベレーザの主力としてプレーする澤は一歩先を行く存在だった。
「周りはライバルという括りでみていたかもしれませんが、私は3人のなかでも実力は1番下だと思っていたから、まだ楽だったのかもしれません。
自分にできるのは2人の後を必死に追っていくことだけでした。
きっと先頭を走る澤のほうが何倍も苦しかったはず。
そこに追いつけば、そして追い越すことができれば、自分はきっともっと強くなれると思ってました。
でも当時はあまり話をしませんでしたね。
ゴミ(五味輿恵)はいろんな人と話をするタイプだったけど、私は逆。
特に澤とは話さなかった(笑)」
3人は互いに意識し、刺激し合い、成長し、後に
「周りの思うツボだったね」
といい合った。
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男子サッカーが日本初のプロリーグの正式名称「Jリーグ」、そしてJの文字の中央に日の丸をイメージした赤い円が描かれたロゴマーク発表。
女子サッカーは、ワールドカップが男子より61年遅れての開催され、4年に1度行われるようになった。
この中国で行われた「第1回FIFA女子ワールドカップ」には、12ヵ国が出場。
日本代表は、予選グループステージで、

vs ブラジル 0対1
vs スウェーデン 0対8
vs アメリカ 0対3

と無得点全敗。
優勝したのはアメリカ。
圧倒的な強さで優勝したアメリカだが、まだ全国的なリーグはなく、選手は各々の環境で個人練習に励むという状況だった。
欧州には全国リーグがある国もあったが、資金面で、あまり恵まれていなかった。
日本は全国リーグがある上、アマチュアながら大企業に支えられて仕事を保証されて、練習環境も良く、最も恵まれていた。
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1992年2月、第3回日本女子サッカーリーグが終了。
ベレーザが、16勝2分無敗で優勝し、2連覇達成。
澤穂希は、敢闘賞を獲得。
5月、男子のJリーグに参加する10クラブ、

鹿島アントラーズ
ジェフユナイテッド千葉
浦和レッズ
東京ヴェルディ
横浜マリノス
横浜フリューゲルス
清水エスパルス
名古屋グランパス
ガンバ大阪
サンフレッチェ広島

のプロフィール、ユニフォームが発表。
よみうりランドにヴェルディ、ベレーザ共用の医療設備つきのクラブハウス、天然芝グラウンド2面と人口芝グラウンド2面が完成した。
6月、第4回日本女子サッカーリーグが開幕。
8月、夏休み、中学2年生の澤穂希は「日本代表候補」に選ばれ、遠征中のアメリカで14歳の誕生日を迎えた。
日本代表で刺激を受けたり、学ぶことは多く、当然、試合に出場したかったが日本代表戦は行われなかった。
「当時は女子代表が親善試合を開催することも海外へ遠征することも滅多になかった。
強化予算がなかったんです」
日本代表遠征から帰った澤穂希は、両親に
「大事な話がある」
といわれた。
2人は価値観の違いから離婚するといい、
「どっちと暮らす?」
と聞かれた澤穂希は、悩んだ挙句、母と暮らすことを決めた。
こうして母親、兄と3人暮らしとなり、澤は母親と同じ部屋、兄は1人部屋で生活。
母親は仕事をかけ持ちし、父親は、毎月、養育費を入れた。
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現在ほど離婚する家庭は多くなく、澤穂希は学校や友達には秘密にした。
それでも恥ずかしいことやさみしいことはたくさんあったが、サッカーに熱中することでモヤモヤやわだかまりを、
「どうでもいいや」
「気にしてもしょうがない」
と消化。
運動会でリレーのアンカーとして最後尾からゴボウ抜きして1位でゴールした。
9月、Jリーグに参加する10クラブによって「第1回ナビスコカップ(現:Jリーグカップ)」が開始。
まず総当たり戦(各チーム9試合、計45試合)が行われ、ポイントが高かった4クラブによる決勝トーナメントが行われる。
11月、ヴェルディ、鹿島、清水、名古屋の4クラブで行われたナビスコカップ決勝トーナメントが終了。
「キング・カズ」こと三浦知良の決勝ゴールでヴェルディが初代王者になった。
また第4回日本女子サッカーリーグも終了し、ベレーザが、16勝2分無敗で優勝し、3連覇達成。
3シーズン51試合無敗というとてつもない強さだった。
「中学校でクラスメートには『ねぇ、サインもらってきてよ』と、よく頼まれました。
でもそんなクラブに自分がいることが、すでに自慢でしたから『ちょっと無理だと思うよ』なんて大人ぶって断ったりして。
本当は大好きなラモスさんとの2ショット、ちゃっかり撮影してもらっていましたけれどね」
と悦に浸る中学2年生の澤穂希だが、好きになった男子に告白してフラれてしまった。
ダンス、スカートに続いて告白もトラウマとなった澤穂希は、これ以降、大人になっても自分から告白したことはない。

Jリーグ30周年記念スペシャルムービー

1993年5月、ついにJリーグがスタート。
開幕戦は、東京ヴェルディ vs 横浜マリノスで国立競技場は6万人近い観衆で埋め尽くされた。
翌日も4試合が行われ、鹿島のジーコがハットトリック(1試合3得点以上)を達成。
ラモス・ルイ、三浦知良、都並敏史、武田修宏、北澤豪、井原正巳など国内有力選手に加え、ジーコ、リトバルスキー、カレカ、ディアスなどワールドクラスの選手も参戦するJリーグに日本中が熱狂。
サッカーへの関心が爆発的に高まり、空前絶後のサッカーブーム、Jリーグブームが勃発。
この年の新語・流行語大賞の年間大賞は「Jリーグ」、新語部門金賞は「サポーター」
スポーツをみるだけでなくチームを支える人を指す「サポーター」は、それまで日本に存在していなかった新しいスポーツの楽しみ方だった。
この開幕シーズン、ブラジルから帰国した直後から
「日本をワールドカップに連れていく」
と豪語していた三浦知良は、20得点を挙げ、MVP、フットボーラー・オブ・ザ・イヤー(日本年間最優秀選手賞)、そしてアジア年間最優秀選手賞を受賞。
ゴールを決めると、両足で細かいステップを踏みながら両手をグルグル回し、最後に左手で股間を押さえ、右手で前方または天を指指さす「カズダンス」を行った。
三浦知良がゴールを決めるとチームメイトもサポーターもカズダンス。
しかし城彰二は自分がゴールを決めたときにカズダンスをして、後で三浦知良に呼び出され、以降、踊れなくなった。
澤穂希は、同じよみうりランドのグラウンドで練習するキング・カズを憧れのまなざしでみていた。
女子サッカーは、Jリーグ開幕、1ヵ月後に第5回日本女子サッカーリーグが開幕し、ベレーザは、開幕戦で清水に敗れて無敗記録を止められた。
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