中村俊輔のサッカーノート Fantasista 破壊的なまでに超攻撃的サッカーは相手を完膚なきまでにたたきのめし、みる者を魅了する
2020年9月17日 更新

中村俊輔のサッカーノート Fantasista 破壊的なまでに超攻撃的サッカーは相手を完膚なきまでにたたきのめし、みる者を魅了する

Fantasista(ファンタジスタ)とは、サッカーの国、イタリアで生まれた言葉で、ファンタジア(創造、想像力)を持つ選手、思いもつかないプレーで一瞬にしてチャンスをつくりだす特別な選手を指す。

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小学生になると深園サッカークラブの練習は、平日の90分×週3回から、土日も練習となり、120分×週5回になった。
チームは学年ごとにキャプテンがいて中村俊輔は再びキャプテンに選ばれた。
練習場は、深園幼稚園のグラウンド。
25m×40mのグラウンドは、サッカーグラウンドの半分以下の広さで、11対11の練習はできなかったが、若林可夫は
「サッカーで11人がいっぺんにボールを持つことはない」
と1対1や2対2、多くても5対5での練習を繰り返した。
グラウンドが狭いと敵との距離が近くなった。
ダラダラしているとすぐにボールをとられてしまうので、プレーのスピードや判断の速さがついていった。
土日は試合になることもあった。
社会勉強の1つとして、試合には子供たちだけで電車やバスに乗ってでかけた。
中村俊輔は集合場所でみんなのお金を集め
「運転手さん、1人60円だから18人で1080円ね」
とバスの運賃箱に小銭をジャラジャラといれた。
グラウンドにつくと若林可夫が怖い顔で待っていて、必ず
「お前ら、ミスはしていいけどサボったらダメだ」
といった。
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父:博之も、中村俊輔が幼稚園の頃から試合には必ずいきビデオで撮影し、練習でも息子を撮った。
中村俊輔はそれを擦り切れるほど何度も繰り返してみた。
そして次の日には
「昨日はあそこがよくなかった」
と練習した。
中村俊輔が小学2年生のとき、ワールドカップメキシコ大会が行われ、アルゼンチンのディエゴ・マラドーナが大活躍。
イングランド戦の5人を抜きは今でも伝説となっている。
マラドーナは60mをドリブルで駆け上がり、最後はゴールキーパーまでまわしてゴール。
同じ左利きということもあって中村俊輔はその姿に夢中になった。
彼のベストプレー集のビデオを買ってもらい、何度もスロー再生してみて、次の日にグランドにいき、それと同じように練習。
最初は簡単にいかないが、毎日やっているうちにドリブルが上達していき、フェイントやいろいろなボールの蹴り方ができるようになっていった。
試合でもマラドーナのプレーを実践し、1人目立つ活躍をした。
「深園に中村俊輔あり」
といわれるようになり、ディズニーランドに遊びにいった同級生が、知らない人から
「深園の人でしょ。
中村俊輔いる?」
と聞かれたとのこともあった。
元日本代表監督であるハンス・オフトは、合宿所内にビデオルームをつくって
「選手は自分だけの世界に入ってイメージをつくり出し自分の脳にしみ込ませる。
それを選手たちが頭の中に焼きつけプレーし試合の中でそのイメージのプレーを実行する。
そのためのイメージトレーニングは重要である」
と述べている。
Jリーグのサンフレッチェ広島のバクスター監督も
「選手は自分がやるべきことを頭の中で画像としてみえることが大切だ」
といっている。
サッカーには自分のプレーに対するイメージづくりが必要で、そのためにビデオは有効だといわれている。
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漫画の「キャプテン翼」にも夢中になり、翼くんや岬くんのあり得ないようなテクニックをマネるのも楽しかった。
あまりにも夢中になりすぎて漫画を読みながら歩いて怒られたこともあった
勉強は、算数が好きで国語や社会は嫌い。
どの科目もまあまあの成績だったが図工と体育は5。
4歳上のヨシくんは高校野球で甲子園に出るほど野球に打ち込んでいたので中村俊輔もサッカーの練習が休みの日に野球をすることもあった。
ポジションはサードやピッチャーだったが、野球は打順が回ってくるまで時間がかかってイライラした。
中村俊輔は、痩せて背が低く、体が小さかった。
深園サッカークラブでは、低学年、中学年、高学年と学年別に3チームあったが、中村俊輔は、1年生のときは2年生と、3年生のときは4年生と、5年生のときは6年生と、常に1学年上の選手と一緒に練習や試合をしたので上達が早かった。
しかし体格や力の差は大きかった。
「力がないから研究するんだ」
が口癖で
「小さい体で力がなくても工夫すればいいキックができるに違いない」
と小学校3年生の頃からフリーキックの研究を開始。
みんなと一緒の全体練習が終わった後、1人残ってボールを蹴った。
そして
「腰に回転をかける」
ということに気づき、軸足である右足をアウトサイドに寝かせて腰を捻る蹴り方が出来上がった。
5年生のときには、人気アイドルグループ:光GENJIをマネをしようとバク転とバク宙ができるようになった。
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横浜市が小学生の選抜チームをつくることになり、本当は6年生しか入れないが、5年生の中村俊輔は特別にそのテストを受け合格した。
そして選抜チームの一員として横浜市の姉妹都市であるオデッサ(旧ソ連)の遠征に参加。
選抜チームはうまい選手ばかりで、どんなパスもうまく受けてくれたし、少々ミスをしてもカバーしてくれ、守備もやってくれた。
帰国後、中村俊輔は変わった。
楽しくやろうとしてるメンバーに
「学校でやってよ」
というなどチームメイトに対して非難を浴びせるようになった。
そして鎌倉市で行われた大会の試合中、中村俊輔はチームメイトにいった。
「なんでそんなことができないんだよ」
「それくらいかんたんでしょ」
それをみていた若林可夫は激怒。
「おい!俊輔!
お前はもう試合に出なくていい」
試合後、中村俊輔は謝った。
「すみませんでした」
「そうか、わかったか」
しかし若林可夫は1ヵ月間、中村俊輔を試合に出させなかった。
その間、中村俊輔は初めて試合中にピッチの外での雑用をやった。
「でもサッカーをやめるという気持ちは全然思い浮かばなかった。
キツいとも思わなかった。
若林先生のいわれたことをしっかりやっているとどんどん勝っていったから」
(中村俊輔)
「選抜チームから帰ってきて偉そうになってしまう子供は珍しくない。
でも俊輔はキャプテン。
例えばパスを出して受け手がミスしても『ごめん、パスが悪かった』と周りのミスを自分で受け止めるくらいでないと成長できない」
(若林可夫)
6年生になると中村俊輔のテクニックはさらに磨きがかかった。
体は小さいがボールはよく飛ぶしよく曲がった。
1度ボールを持つとめったに取られることはなかった。
そして深園サッカークラブの最後に試合で中村俊輔がゴールを決めたとき、
「ウォ~~~ッ」
若林可夫は叫びながらコーナーフラッグまで走ってガッツポーズをとった。

日産(現:横浜F・マリノス)ジュニアユース

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中村俊輔は中学になったら
「楽しくワイワイやろうというより、勝ちたいという集団、、本当にうまくなりたい人だけでやっていく環境がいい。
日産みたいに強いチームでサッカーがしたい」
と思っていた。
神奈川県で深園サッカークラブが勝てなかったのは日産(現:横浜F・マリノス)ジュニアだけだった。
1991年4月、中村俊輔は横浜市立深谷中学校に進学。
そして競争率50倍という超難関のセレクション(クラブチームに入団するためのテスト)に合格し、日産(現:横浜F・マリノス)ジュニアユースに入った。
深谷中学でもサッカー部に入り、朝、授業が始まる前に学校で朝練。
授業が終わると学校から30分以上かかる日産ジュニアユースの練習に1番乗り。
全体練習の後は、1人でフリーキックの練習。
ゴールのバーにボールを当てたり、ゴールバーからタオルをつるして当てて落とした。
「照明消すから帰れ」
といわれてもボールを蹴った。
日産ジュニアユースの監督は野地芳生、コーチは樋口靖洋だった。
野地芳生監督はいった。
「練習で浮気をしてはいけない。
ドリブルでもフリーキックでもコツコツと毎日繰り返して同じことを練習すれば、いつかは必ず上達する。
1度やって上手くいかなかったからといって、すぐにやめてしまうのが一番よくないことだ」
樋口靖洋コーチは、日産ジュニアが深園サッカークラブと対戦したときに初めて中村俊輔を初めてみた。
その次は横浜市の選抜チームのセレクションのときで、6年生しか入れないことになっていたが、5年生の中村俊が特例で合格しするのをみた。
そして樋口靖洋は中学1年生の中村俊輔に
「僕は小さいけれど、この先どうしたらいいですか?」
と聞かれ
「身長なんてそのうち伸びるから今はテクニックを磨くのが1番。
筋トレも今はしなくていいよ」
と答えた。
練習で中村俊輔がいいパスを出すと
「そこをみてたのか!
しびれるぅ~」
とほめた。
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ジュニアユースは、日産のトップチームの試合のボールボーイ(試合中にピッチのすぐ外に待機している球拾い)になることも多く、日本一のキッカーだった木村和司や日本代表の司令塔だった読売クラブのラモス瑠偉のプレーをまじかでみることができた。
背番号10を背負う木村和司のフリーキックに心を奪われ、魅せるとは何かを学んだ。
ハーフタイムに入ると木村和司に呼ばれて、ボール回しをしたこともあった。
「ひと月に3つテクニックをマスターする」
を目標にしていた中村俊輔は最高のお手本をみて練習した。
1年生でレギュラーに選ばれ、2年生になると学年別チームで10番、3年生中心のチームでも(10番ではなかったが)レギュラーに選ばれ、全国大会で優勝。
新年度のAチームの10番として選手名鑑に登録された。
つまり3年生になったら10番をつけてAチームのエースになる予定だった
ところが実際に3年生になると、今まで10番で中心選手だったのにレギュラーから外されてしまった。
理由は背が低かったためだった。
「ちょっと体を寄せられてよろけてしまったり、ホントは自分が触るつもりだったのに隣の人に触られたり身長が伸びていかないのでリーチの部分とかで大きなハンデとなりましたね」
(野地芳生監督)
中学生になると筋力トレーニングが始まりフィジカルも上げていった。
一般的に男子は中学生の頃が成長期のピークで、1年で10㎝以上伸びる子供も多かった。
しかし中村俊輔が身長が伸びなかった。
小学校では背の順番で並ぶと真ん中くらいだったが、中学になるとドンドン前のほうになっていった。
中学2年生になるとチームメイトと体格の差がハッキリ出てきた。
背が低いだけでなく体が細い中村俊輔は筋肉もなかった。
体を寄せられるとよろけてしまったり、ボールをかんたんに取られてしまったり、パスが通らなかったり、体格差のせいでいままでできていたことができなくなることもあった。
背が低いと走るのも遅かった。
中学3年生になると、チームの平均身長は170㎝くらいだったが、中村俊輔は160㎝もなかった。
10番を背負うはずだった中村俊輔は、いつしかレギュラーから落ち、試合にも出られなくなっていった。
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中村俊輔が中学3年生になった1993年、Jリーグが始まった。
それに伴い「日産ジュニアユーズ」は「横浜マリノスジュニアユース」に名前が変わった。
5月15日、横浜マリノスは、国立競技場でラモス、ペレイラ、ビスマルク、三浦知良などスターぞろいのヴェルディ川崎とのJリーグ開幕戦を戦った。
Jリーグに参加したクラブは
・鹿島アントラーズ
・東日本JR古河サッカークラブ(現:ジェフユナイテッド千葉)
・三菱浦和フットボールクラブ(現:浦和レッズ)
・読売日本サッカークラブ(ヴェルディ川崎、現:東京ヴェルディ)
・日産F.C.横浜マリノス(1999年、全日空佐藤工業サッカークラブと統合。現:横浜F・マリノス)
・全日空佐藤工業サッカークラブ(横浜フリューゲルス)
・清水FCエスパルス(現:清水エスパルス)
・名古屋グランパスエイト(現:名古屋グランパス)
・パナソニックガンバ大阪(現:ガンバ大阪)
・サンフレッチェ広島F.C
の10クラブ(オリジナル10)だった。
本来、Jリーグの開幕は3月だが、この年は4~5月までワールドカップのアジア一次予選が開催され、Jリーグの成功に日本代表の成功は不可欠と考えたJリーグ事務局は5月15日に開幕を遅らせた。
ラモス・ルイ、都並敏史、武田修宏、北澤豪、井原正巳など国内の有力選手に加え、ジーコ(鹿島)、リトバルスキー(市原)、カレカ(柏)、ディアス(横浜M)など世界的な選手が海を渡ってきて参戦した。
そのサッカーは力強く豪快で美しかった。
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ジーコは、セレソン(ブラジル代表)で10番をつけ、「神」といわれた。
現役引退後、ブラジルのスポーツ担当大臣を務めていたがJリーグが開幕する2年前に、日本リーグの2部リーグに所属していた住友金属に入団し現役復帰。
初めて住友金属の練習グラウンドが土なのをみて
「このピッチは選手がサッカーをやる環境か」
とつぶやいた。
その後、練習後、選手が風邪を引かないように練習場の近くのシャワールームやフィジカルトレーニング設備、ケガをしてもすぐに治療ができるメディカル面の整備など100%サッカーに集中できるようにフロントに要求していった。
選手には、まずボールを止める、蹴る、止めるを繰り返し、基本の大切さを説いた。
練習後、シューズが散らばったロッカールームにシューズをみると
「明日もこんな状態だったら全部捨てる」
といって自分のスパイクの手入れを始めた。
お菓子を食べている選手をみつけると
「プロの体づくりにお菓子は必要ない」
と怒鳴った。
普段の練習から紅白戦、サブ組の試合、すべて全力を尽くして勝つために戦う。
そんな勝利への執着心、勝利へのメンタリティをチームに植えつけた。
「常勝軍団」のはじまりだった。
5月16日、開幕戦で名古屋グランパスと対戦。
前半25分に強烈なミドルシュートで先制点を決めると、5分後、芸術的なフリーキックで2点目。
後半18分にもアルシンドのクロスをボレーで合わせJリーグ初のハットトリックを達成した。
試合も5対0で快勝した。
鹿島アントラーズはその勢いのまま1stステージ(前半戦)で優勝した。
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そして2ndステージで優勝したのは、ヴェルディ川崎だった。
三浦知良は、ゴールを決めるとカズダンスというゴールパフォーマンスが行った。
両足で細かいステップを踏みながら両手をぐるぐる回し、最後に左手で股間を押さえて右手で前方または天を指さす。
ガッツポーズや投げキッスなど、フィニッシュはバリエーションがあった。
三浦知良がゴールを決めると選手もサポーターもみんなこぞってカズダンスした。
年間チャンピオンを決めるチャンピオンシップ戦で、1stステージチャンピオンと2ndステージチャンピオンが対戦。
第1戦でヴェルディが2対0で勝った。
そして第2戦は、0対1でヴェルディが負けていたが、残り10分を切ったところでPKが与えられた。
すると三浦知良が蹴ろうとするボールにアントラーズのジーコは唾を吐いた。
そして退場させられた。
2人は共に腕にキャプテンマークを巻いていた。
ヴェルディは、チャンピオンシップでも鹿島アントラーズ戦を破って年間優勝。
「その試合はJリーグのチャンピオンを決める最初のファイナルだったが、私は何かがおかしいと感じていた。
2戦ともヴェルディのホームでプレーするということやロッカールームの問題などすべてにおいてヴェルディが保護されていたからだ。
さらにいえばPKを与えたレフリーはヴェルディで働いたことのある人間だった。
とはいえ私の行為は反スポーツマン的だったと後悔している。
私がレフリーに抗議して退場となったのは初めてのことだったし規律上の問題でピッチを去ったこともそれまで1度もなかった。」
(ジーコ)
当時の日本ではまだホーム&アウェイも定着しておらず、第1戦、第2戦とも国立競技場で行われた。
サッカー先進国から来たジーコが異議を唱えるのは当然だった。
「正直、ラッキーだと思ったね。
ジーコは敵にするととても怖いプレーヤー。
40歳を超えて運動量は少なくなっていたけどイザというとき決める力があったから。
そんな中でジーコが退場となりピッチを去ったのだからヴェルディの勝利にグッと傾いたなと。
僕がこのPKを外しても勝敗に影響はない。
だから楽な気持ちで蹴れた」
(三浦知良)
1993年の新語・流行語大賞の年間大賞は「Jリーグ」、新語部門金賞に「サポーター」が選ばれた。。
スポーツをみるだけでなくチームを支える人を指す「サポーター」は、それまで日本に存在していなかった新しいスポーツの楽しみ方だった。
日本は空前絶後のJリーグブーム、サッカーブームだった。
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