中村俊輔のサッカーノート Fantasista 破壊的なまでに超攻撃的サッカーは相手を完膚なきまでにたたきのめし、みる者を魅了する
2020年9月17日 更新

中村俊輔のサッカーノート Fantasista 破壊的なまでに超攻撃的サッカーは相手を完膚なきまでにたたきのめし、みる者を魅了する

Fantasista(ファンタジスタ)とは、サッカーの国、イタリアで生まれた言葉で、ファンタジア(創造、想像力)を持つ選手、思いもつかないプレーで一瞬にしてチャンスをつくりだす特別な選手を指す。

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横浜マリノスジュニアユースもときどきJリーグをみにいった。
しかし中村俊輔に試合を楽しむ余裕はなかった。
「お母さん、今日は背が伸びているかな?」
と毎日、家の柱で身長を測ってもらい、毎日、牛乳を1パック飲んだ。
中村家の柱には今でも4人の兄弟の成長を記す傷が残されているが、3人のお兄さんたちもそれほど大きくなかったが、高校生になると急に成長し、みんな180㎝くらいになっていた。
母:イリ子は
「シュンも高校生になったら大きくなるわよ」
といった。
しかしそれは慰めにならなかった。
横浜マリノスジュニアユースには、毎年25人くらい中学1年生が入るが、3年後には15人くらいになった。
激しい練習と競争に毎年5人ほどチームを離れていく。
そして3年間生き残っても、高校生のユースチームに上がれるのは7、8人だった。
早ければ2年生の春休みにユース昇格を決まる子もいたが、中村俊輔は3年生になってもその話はなかった。
「練習には熱心に取り組んでいる。
テクニックもある。
けれど体が小さい」
野地芳生監督は、中村俊輔をユースに上げるかどうか迷っていた。
また中学1年から2年生くらいまでは1人1人の技術と体力アップ、そして3年生からは本格的なチーム戦術というのが横浜マリノスジュニアユースの指導方針だったが、個人技で負けない、また個人技にこだわりを持つ中村俊輔はチームとしての戦い方をするように注意されると余計にムキになってテクニックを見せつけようとすることもあった。
チーム戦術は、ワンタッチ(自分に来たボールを止めずに蹴る)やツータッチ(自分に来たボールをいったんとめてから蹴る)でパスをさばいて走ってというサッカーだったが、中村俊輔はヒールキックしてみたり、ボールを持ちすぎてチーム全体のリズムを崩してしまい途中交代させられることも多かった。
それでも野地芳生監督は中村俊輔を評価していないわけではなかった。
「サッカーに対する姿勢はまじめである。
体はいつか大きくなるはずだし、大きくなればテクニックが生きるから問題ない」
と3年生の7月に中村俊輔に
「ユース昇格OK」
と伝えた。
レギュラー以外の合格者は中村俊輔だけだった。
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「絶対に僕はうまいのにどうして試合に出してくれないんだ」
中村俊輔はどうして試合に出してもらいえないのかわからず、その不満を野地芳生監督に向けた。
練習も適当にやったり、下を向いていた。
そうすれば何かいってもらえるかもしれないとも思ったが、野地芳生監督はなにもいわなかった。
8月、長野県の白馬で、ジュニアユーズの最後の大会、ジュニアユース全国大会が行われた。
このとき中村俊輔はベンチに入っていたが、すでに背番号は10ではなかった。
大会中、毎日雨が降り、土のグラウンドは荒れた。
それは小柄なテクニシャンには不利と判断されたのか、横浜マリノスジュニアユースは優勝したが、中村俊輔がピッチに立つことなかった。
試合後、宿舎でパーティーが開かれ、ジュースかけが行われたが、中村俊輔はどうしても楽しい気分になれず、みなんが盛り上がっているなか会場の隅っこで1人ポツンと体育座りしていた。
「そんなところで何やってるんだ。
ここは優勝したお祝いをする場所で試合に出られない悔しさをみせるところじゃない」
野地芳生監督いいわれてハッとした。
こうして中村俊輔のジュニアユースは終わった。
暗い気分で家に帰った後、電話が鳴った。
白馬の大会に出ていなかった友人だった。
「白馬はどうだった?
シュンは出たの?」
「優勝したけど僕は出なかった」
「そうか・・・
僕は明日、桐光学園の練習に参加する。
シュンはどうする?」
次の日、中村俊輔は友人と2人で桐光学園の練習に向かった。
高校の練習に参加する場合、前もって横浜マリノスジュニアユースに断りを入れなくてはならなかったが、中村俊輔は連絡なしで桐光学園にいった。
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桐光学園は神奈川県川崎市にある私立の学校で、校舎は新しくキレイで、グラウンドは広く、トレーニング施設も充実していた。
文武両道を重んじ、生徒は礼儀正しく明るかった。
「ここならサッカーがうまくなりそうだ」
桐光学園高校サッカー部の佐熊佑和監督は、初めて中村俊輔をみた。
練習といっても、神奈川県内の優秀な中学3年生に声をかけて次の年の入る選手をスカウトする場だった。
中村俊輔は、参加した中学生の中で1番背が低かったが、足技や相手の逆をとる動き、視野の広さはセンスを感じさせた。
しかしせっかく逆をとってもすぐに相手に寄せられボールを奪われ、遠くが見えているのはわかったが、筋力不足かパスが出せなかった。
その後、佐熊佑和監督は野地芳生監督に電話を入れた。
「中村俊輔君がうちの練習に参加しました。
うちとしては入学してもらいたいのですが、どうなんでしょうか?」
高校側としては事前にジュニアユースから推薦状をもらうのが普通だった。
驚いた野地芳生監督は父:博之に確認した。
「たしかに桐光学園の練習に参加しました」
「そうですか。
それなら仕方ないですね」
中村俊輔は、その後、いくつかの高校の練習に参加し最終的に桐光学園にいくことを決めた。
そして横浜マリノスジュニアユースを引退。
試合に出られなくなった理由を
「自分がうまいんだって勘違いしていた。
チーム戦術が変わったのに対応できず、試合に出られなくなった」
「僕は間違ったことをしてしまった。
不貞腐れてしまうなんてもったいないことをしてしまった。
と反省。
「ようしまた練習するぞ。
もったいないことをした時間を取り戻す」
と気持ちを切り替えた。
毎日、家の周りを走って、まだ入学していなかったが桐光学園の練習に参加した。
「2002年にワールドカップに出られなかったときより中3でユースに上がれなかったときのほうがよっぽど悔しかった。
そのときの思いがあるからいまも頑張れる」

桐光学園

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1994年4月、中村俊輔は桐光学園に入学した直後、校庭でジュニアユースで1つ上だったタカシ君を発見。
すぐに
「タカシくーん」
と呼ぶとタカシ君はものすごい勢いで走ってきた。
「ダメだよ。
センパイじゃないとマズいよ」
その怒ったような困ったような顔に、中村俊輔は一瞬、
(えっ人違い?)
と思ってしまった。
アットホームな雰囲気のクラブチームと違い、桐光学園高校サッカー部には上下関係があった。
学校で先輩をみれば
「おはようございます」
「こんにちは」
と大きな声であいさつをしなければならず、これまで年上を「くん」づけ、年下から「シュンちゃん」と呼ばれてきた中村俊輔にとって体育会系のしきたりはとまどうことが多かった。
練習前にコーンを置いたりラインを引いたりするのは必要だからいいが、基本練習が終わると先輩の練習をみながらボール拾いをやらされるのは納得できなかった。
さらに練習後は毎日ボール磨きをやらされ、サッカーがうまくなるためにきたのに練習時間が少ないことに驚いた。
横浜マリノスユースならそんなことをせずにサッカーだけしてればよかった。
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全体練習での自分の練習時間が少ないため、中村俊輔は朝練習と居残り練習を行うことにした。
横浜市戸塚区の家から学校まで90分くらいかかるため、5時に起床し、サッカーのビデオをみながら朝食を食べ、5時半に家を出る。
まだバスが出ていないので父親に駅まで送ってもらい、電車を乗り継いで学校に到着。
すぐに壁人形をセットしフリーキックの練習。
コース、距離、ボールの質などバリエーションをどんどん増やしていった。
通常より小さいミニボールでの練習もよくやった。
小さいほうが扱い方が難しく、その分テクニックがつきやすかった。
授業はまじめにノートをとって習ったことをその場で覚えようとした。
わずかな時間でもサッカーボールに触っていたいのに、テストで悪い点をとると補修や追試があるからだった。
授業の後はサッカー部の全体練習。
そして居残り練習をして、帰宅するのは22~23時。
家に着くとすぐにサッカーのビデオをみながらご飯を食べて、すぐに寝た。
高校サッカーはテクニックだけでなくフィジカルも重要なので、佐熊佑和監督は、160㎝の中村俊輔が
「すぐにレギュラーになるのは無理だろう」
と思っていた。
それでもサッカーに取り組む姿勢は目を見張るものがあった。
グラウンドに1番早くに着て1番遅くいた。
「サッカーが好きで好きでたまらないのだろう」
サッカー部は週1回休みだったが中村俊輔は1人で練習して、サッカービデオをみて、サッカーゲームをした。
学校では月一で頭髪検査があったが、色気も理髪店にいく暇がない中村俊輔はひっかかり、担任にはさみで切られた。
「先生、これで頭髪チェックOKだね」
そういってグラウンドに飛び出した。
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待ちに待ったときがついに訪れた。
急に中村俊輔の身長が伸び始めたのである。
すると当たり負けしていた相手と競り合っても負けないようになり、走スピードも上がり、フェイントも一歩が大きくなりダイナミックになった。
今まではみえていても距離があって出せなかったパスが出せるようになった。
これまでは30mが限界だったが40mくらいのパスをスパンスパンと出した。
パスのボールスピードも上がったため、最初はスルーパス(相手選手の間を通して前方に送るパス)についてこれない選手が続出した。
佐熊佑和監督は思った。
「左利きは珍しいし、ファンタジスタの卵みたいな面白さもある。
将来のために使ってみようか」
ファンタジスタとは、サッカーの国、イタリアで生まれた言葉で、ファンタジア(創造、想像力)を持つ選手、思いもつかないプレーで一瞬にしてチャンスをつくりだす特別な選手を指す。
秋、全国高校サッカー選手権大会神奈川県予選で桐光学園は、決勝トーナメント3回戦、向上高校戦を0対3で負けた。
この試合で残り時間が少なくなったとき佐熊佑和監督は、1年生の中村俊輔をピッチに出した。
負け試合の最後に出てきた選手に好きにさせてたまるかと相手は厳しくマークしたが、中村俊輔は自由自在にボールを扱ってみせた。
試合には負けたが、そのインパクトは大きかった。
1995年、春の身体測定で中村俊輔の身長は175㎝だった。
1年間で身長が10㎝以上も伸びていた。
その結果、高校2年生の中村俊輔は3年生の先輩と1対1で負けなくなった。
練習は高い意識で取り組んだ。
ボールを使った練習は大好き。
それに比べて単純でキツいフィジカルトレーニングはそんなに好きではなかったが、
「どんな練習も自分に跳ね返ってくる」
と絶対に手を抜かず常に100%の気持ちで取り組んだ。
1人でやっていた全体練習後の居残り練習に、いつしかコーチや仲間が付き合うようになった。
中村俊輔は
「これはワールドカップのときのマラドーナのフェイント」
などといってビデオをみて練習した技を披露した。
佐熊佑和監督は、ボランチ(中盤中央のポジション)を下げ気味にして守備を任せ、ボランチの前にスペースをつくってそこに中村俊輔を入れ
「自由に攻撃しろ」
といった。
自由が与えられたことで中村俊輔の創造がはじまった。
その攻撃センスは抜群で、まるで人と違うところをみているように1発のパスで流れを変え、みんなをアッといわせるプレーをした。
堅実で安定感もあるプレーで頼りがいのあると共に
「必ず何かやってくれる」
と期待させる選手だった。
さらに必殺のフリーキックもあった。
桐光学園は面白いように勝ち進み、中村俊輔は創造性とアイデアを発揮しチームの司令塔として不動のポジションを手に入れた。

夢を叶えるサッカーノート

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桐光学園高校サッカー部には、フィジカル強化のトレーナーやアイシングやマッサージなどのコンディショニングトレーナーなどが外部から来ていて、大事な試合になると5、6人のサポートスタッフがベンチに並んでいた。
豊田一成はメンタルトレーニングを指導した。
呼吸法によるリラックス法、
音楽を聴いてやる気や闘志を高めるサイキングアップ法、
プラス思考法、
目標と課題の明確化、
さまざまな心身相関の理論やテクニックを教えた。
例えば、リラックス法について、なぜリラックスが大切かというと、体がリラックスしていると自然と気持ちが落ち着いて集中力が高まり、潜在能力を引き出しやすくなる。
その結果、スポーツパフォーマンス向上、その他、さまざまな能力も発揮できる。
リラックスするためのエクササイズとしてかんたんで効果的なのは深呼吸。
大きく息を吸って、ゆっくり吐く。
例えば、3秒間、鼻で息を吸ってお腹に入れて、3秒間息を止めて、6秒間かけて吐き出す。
吸う時間の倍の時間をかけて吐くことで、副交感神経が刺激され活発化し、よりリラックス効果が高まる。
中村俊輔はリラックス法について
「緊張しているときにどうしたらリラックスできるかが重要。
先生に教えてもらっているうちにすぐにα波が出せるようになった」
といっている。
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「サッカーノート」もそのうちの1つだった。
中村俊輔は、豊田一成にいわれアディダスのノートを買った。
サッカーノートの項目は

1 目標
2 ゲーム
3 トレーニング
4 メンタル
5 イメージ
6 記録

だった。

1 目標

中村俊輔は豊田一成に、最初に「短期・中期・長期目標」をわけて書くようにいわれた。
毎年1、2回、短期、中期、長期に分けて目標を設定。
短期目標は、期間は半年先くらいまでの、ちょっと頑張れば手が届くくらいの達成確率が高い小さな目標を書く。
中期目標は、1年先くらいのことを書く。
長期目標は、2年以降、長期的に思い描く自分のあるべき姿、そして達成確率が低い大きな目標を書く。
17歳の中村俊輔の短期目標を
「苦手なプレーを克服する」
「選手権優勝」
「関東ユースで東西選抜に入る」
中期目標を
「自分のプレーに満足せずに向上心を持ち続ける」
「Jに入る」
「自分に勝つ」
長期目標を
「誰からの人から尊敬される人になる」
「日本代表」
「世界に通じるプレーヤーになる」
そして当面の目標として
「冷静な判断」
「緊張性不安を克服する」
と書いた。
最初は目標を書くことに勇気が必要だった。
しかし書いてしまえば
「絶対に叶えてやる」
という気持ちがわいてきた。
「誰からの人から尊敬される人になる」という長期目標は、イタリアのロベルト・バッジョがいっていたことをマネた。
ロベルト・バッジョは、イタリアのファンタジスタで、何度も膝の手術を受けて、その度に不死鳥のように蘇り、イタリアアだけでなく世界的に熱狂的なファンを持つ選手だった。

2 ゲーム

試合前には
「どのようなプレーをするか」
を書いた。
試合後は
「攻撃面、守備面のよかった面、悪かった面」
を書き出し、10点満点中
「 点」
と数値化して評価。
そして次の試合に向けて何をしなくてはいけないか
「反省点と課題」
を明記した。

3 トレーニング

チームの練習メニュー、自主トレのメニューを書く。
全体練習や自主練習の後は、何をしたか「練習メニュー」を書いた。
書くとその練習の意図が明確になり、目的や課題がわかった。

4 メンタル

孤独や不安など自分の素直な感情を書き出すことは、大きな癒しとなった。
そして
「自信とはとにかく自分の能力や可能性を信じること」
「悔しいと思ったら、また強くなれると思う」 
「気持ちで上回る」
などと自分に力を与えてくれる言葉を自分で自分に向けて書いた。
その力は大きかった。
行き詰まったとき「メンタル」の記述を見返し奮い立たせ、これだと思う言葉が見つかれば再び書いた。
だ普段の読書やテレビ、映画などで感銘を受けた言葉もサッカーノートに記録した。

5 イメージ

絵を描くための大きなフリースペースがあり、試合で有効だったシーン、フォーメーション、フリーキックや技術のイメージを描く。
また理想的なイメージ、仮想のイメージ、シーンなどを描いた。

6 記録

試合の結果、日々のトレーニング、筋力や体重の推移、新聞の記事や写真など、自分にとっていい記録だけでなく悪い記録もスクラップする。
特にプロに入った後は、
「そこにもっとうまくなるためのヒントが隠されているかもしれない」
と試合の次の日に新聞に何が書かれているかしっかりみた。
 (2220687)

最初は豊田一成に提出しなければならなかったので義務感でいわれたとおりにつけていた。
(豊田一成は
「次はハットトリックだ」
など前向きになる言葉を書いて返した)
しかし続けていくうちに効果や結果が出ると積極的になった。
「文字で書くことで自分の目で確認できるし、頭の中で整理することができる。
目標を書いておくと後でみたときにできていないとか、目標がそれているとか、進歩していないとかがわかる。
それで反省もできる。
自分のためになる。
とにかく日記を書くと落ち着くし後でみると楽しいというのもある」
(中村俊輔)
練習や試合が終わり、グラウンドを出てロッカールームに帰ってきたときにはもうノートに書かなくてはいけないことが頭の中に浮かんでいた。
ノートの後ろのほうには、メモやオフの予定がビッシリ書かれた。
毎朝6時前に家を出て自主的にやっていた朝練。
部活後、独り残っていやっていた夜練。
そしてサッカーノートをつけること。
やっていることすべてよかったんだと思えるようになった。
1人で静かにノートに向き合う時間は欠かせないものとなった。
サッカーノートはプロになっても続いた。
高校2年生のときに書き始めたサッカーノートは、15年後、31歳になる頃には11冊にもなった。
「サッカーノートをみられるくらいならヌードを披露したがまだマシ」
基本的にノートは監督にもチームメイトにも誰にもみせず他人にはいえない自分の気持ちや悔しさ、不安、弱点、そして夢や野望、目標と課題などを書いた。
基本的に「目標を達成するためのノート」なので、漠然としたことは書かずハッキリとした意思や意志が書かれた。
そして少しずつオリジナルの書き方も加わっていった。
試合前に「どうプレーするか」、試合後に「課題」を書くことは変わらなかったが、イメージ画を描いたり、気になる選手やチームのプレーも書くようになった。
書く頻度も、毎日必ずというわけではなく、書きたいことや課題が見つかると書くというになり、2ヵ月間まったく書かないこともある。
「若いときはうまくいってることが崩れるのが怖くて書いていた。
もしかしたらもう書かなくても大丈夫なのかもしれない。
でも好きで書いてしまう。
いろいろなことをイメージするのが好きで、計画といってもいい。
細かく計画したことがその通りにいくのが快感だから。
フリーキックのイメージ画が試合で実現化したこともある。
年間目標もそうだけど1年にわずかしかないオフの計画を綿密に立てて、それを計画通りに実現させたときも充実感がある」
 (2220690)

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