千葉ロッテのみならず、日本のエースになった漢。黒木知宏
黒木知宏の獲得タイトルや主な表彰と記録
最多勝:1回 (1998年)
最高勝率:1回 (1998年)
月間MVP:2回 (2000年9月、2001年5月)
日向市民栄誉賞第1号(2008年) ※青木宣親と同時受賞
オールスターゲーム出場:3回(1998年、1999年、2001年)
最高勝率:1回 (1998年)
月間MVP:2回 (2000年9月、2001年5月)
日向市民栄誉賞第1号(2008年) ※青木宣親と同時受賞
オールスターゲーム出場:3回(1998年、1999年、2001年)
黒木知宏のプレースタイル
小宮山とのダブルエースで大活躍
闘志あふれる投球で、ファンを魅了した投手である。
最高勝率、最多勝と三冠王にも手が届く、安定した右腕投手はこの頃の投手では黒木以外いないでしょう。
ただし、勝ち星がもらえない悲劇のエースとしても有名である。
最高勝率、最多勝と三冠王にも手が届く、安定した右腕投手はこの頃の投手では黒木以外いないでしょう。
ただし、勝ち星がもらえない悲劇のエースとしても有名である。
via blogs.c.yimg.jp
闘志あふれる投球で、千葉の球場を沸かせた一人がこの黒木知宏でしょう。
切れのある変化球と、決して豪速球とはいえない速球を武器に、巧みな投球術で勝ち星を上げていった投手です。
最多勝も取れれば、最多敗戦の称号もとる黒木は、まさに低迷なロッテマリーンズの悲劇のエースと言えるでしょう。
切れのある変化球と、決して豪速球とはいえない速球を武器に、巧みな投球術で勝ち星を上げていった投手です。
最多勝も取れれば、最多敗戦の称号もとる黒木は、まさに低迷なロッテマリーンズの悲劇のエースと言えるでしょう。
黒木知宏のプロに入るまでの軌跡
小学校の頃に、ソフトボールチームのエースとして活躍し、中学校には野球よりもボディービルにはまっており、パワーリフティングの県大会で優勝する経歴を持つ。
高校は、延岡学園高等学校に進学し、3年生の時に夏の甲子園大会に出場するが初戦で涙を呑む結果となった。
高校卒業後、社会人野球の新王子製紙春日井に入社し、都市対抗野球の本田技研の補強選手として活躍し、森昌彦とともに優勝に大きく貢献した。
そして、1994年のドラフトに千葉ロッテマリーンズに2位指名を受けて、晴れてプロ選手となるのです。
高校は、延岡学園高等学校に進学し、3年生の時に夏の甲子園大会に出場するが初戦で涙を呑む結果となった。
高校卒業後、社会人野球の新王子製紙春日井に入社し、都市対抗野球の本田技研の補強選手として活躍し、森昌彦とともに優勝に大きく貢献した。
そして、1994年のドラフトに千葉ロッテマリーンズに2位指名を受けて、晴れてプロ選手となるのです。
千葉ロッテマリーンズの一員となってからの活躍!
1994年のドラフト2位で千葉ロッテマリーンズに入団。先発、リリーフとフル回転し、6月30日の対日本ハムファイターズ戦で毎回奪三振をして初勝利を完封勝利で挙げる。1996年には先発ローテーション入りし、初めて規定投球回数に到達すると、1997年には初の防御率2点台を記録。240イニング以上投げ、13完投とともにリーグ最多となるなど、小宮山悟と共に「チームのダブルエース」となる。
1995 黒木知宏 2 - YouTube
via youtu.be
1998年7月7日、ロッテは16連敗中であり、この日の対オリックス・ブルーウェーブ戦に連敗脱出を懸けて先発登板。福澤洋一捕手とバッテリーを組み、2点リードで9回2死2ストライクまで打ち取るも、ハービー・プリアムに同点2ラン本塁打を浴びる。連敗脱出目前でまさかの同点本塁打を許した黒木はマウンド上に座り込み、悔し涙を流す(その後、延長にて近藤芳久が広永益隆から満塁本塁打を打たれサヨナラゲームとなり、チームは日本プロ野球ワースト記録の17連敗となった)。なお、この試合の敗戦は「七夕の悲劇」と呼ばれることがあるが、後日談として、小宮山悟から 「なぜ、マウンドにうずくまった?」「まだ試合が続いていたじゃないか、あそこでマウンドにうずくまっちゃいかん、あそこでマウンドを降りちゃいかん、最後まで、すべてが終わるまで、諦めちゃいかんよ、クロちゃん」と諭されたという[2]。後に黒木は自著にて「あの日から、人は僕を『悲劇のエース』と持ち上げるようになったが、日本中でただ一人、小宮山さんだけが僕自身の甘さを喝破してくれた」と記しており、大変な感謝をしている。 連敗を脱出した後は立ち直り、同年のオールスターゲームに初出場、最多勝と最高勝率のタイトルを獲得するなど活躍した。なお、防御率は金村曉に次ぐ2位であったが、金村が規定投球回ぎりぎりの135イニングでのタイトル獲得であったため、黒木には三冠王の可能性も十分にあった。
翌1999年もオールスターゲームに選出されるなど、長らくロッテのダブルエースとして小宮山悟と共に低迷時代を支え、2000年には小宮山がチームを去った後の正真正銘のエースとして期待されるが、キャンプにて右足に怪我を負う。無理を押して開幕に備えるも、開幕戦(対福岡ダイエーホークス戦)で秋山幸二に史上最年長記録となる初回先頭打者本塁打を打ち込まれると、そのまま引きずってしまい、前半戦の防御率は10点台と絶不調に陥る。その後、前年から決まっていたシドニーオリンピック野球日本代表に向けて二軍で調整し、五輪でも活躍。後半戦はエースとして活躍するも、実は右肩の違和感を持ったままの投球が続いていた。
1999 黒木知宏 1 - YouTube
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2001年3月24日、西武ドームで開幕投手として松坂大輔に投げ勝ち21世紀初の日本プロ野球公式戦勝利投手となり、以降も絶好調が続くが、前年の肩の違和感を引きずったままであり、ファン投票で選出されたオールスターゲーム、27日のオリックス戦に強行出場した後、後半戦からは姿を消す。この闘病のため「弁当の呪い」を受けた選手の一人とされている。右肩の違和感に関して、当初は棘上筋炎症という比較的軽い怪我だという診断をされるも肩腱板の内側靭帯を数本完全損傷する重傷だったことが後に判明したが、手術を選択せず自然治癒を選択。単調なウェートトレーニングやランニングを繰り返す日々が続き、また投球フォームを肩に負担のかからないサイドスローに近いフォームに改造するなど、2004年に一軍へ昇格するまで3年という長い月日がかかっている。6月に3年ぶりに勝利を飾る。
2005年は右ひじを痛めて大幅に出遅れる。しかし8月28日、千葉マリンスタジアムでの対オリックス・バファローズ戦で先発。3万人のマリーンズファンに支えられ自身1年2か月ぶり、本拠地では実に1545日ぶりに勝利を挙げる。この勝利はロッテのパ・リーグプレーオフ進出と、10年ぶりのAクラスを確定するものだった。同年の日本シリーズは登板機会なし。しかしアジアシリーズでは第3戦に先発し3回を自責点0で初代アジアチャンピオンに貢献した。
2006年7月28日、降格から1か月半ぶりに一軍出場選手登録され、その日のスカイマークスタジアムでの対オリックス戦でプロ12年目で初セーブを記録している。全盛期には1億8000万円だった年俸が、2007年には10分の1以下にまで下がったものの、マリーンズファンから絶大な支持があり、登板時には誰よりも大きな声援を送られた。当時、「復活のマウンドで勝利投手となりお立ち台に立つのが今の目標」とコメントしている。
2007年は2001年以来の開幕一軍を得た。4月27日の対西武ライオンズ戦の7回裏2アウト一塁で登板し、G.G.佐藤を三振に仕留めた。8回も2アウト三塁のピンチを招くが片岡易之をサードゴロで抑えた。この年はこの1試合のみの登板となり、4月30日に登録抹消されてからは一軍登録されなかった。
身長178㎝、体重84㎏
右投げ、右打ち
ポジション:投手
ロッテの暗黒の時代を生きてきた悲劇のエース。
成績こそ残せてないが、ジョニーファンは数知れず存在し、ケガに苦しみながらもファンを沸かせれる投手は黒木をおいていないであろう。