阪神と西武の大型トレード
1978年のシーズン終了に伴い、ライオンズは、クラウンライターライオンズから西武ライオンズに生まれ変わりました。「世紀のトレード」と呼ばれた阪神と西武の大型トレードは、阪神2名、西武4名が対象。対象者は次の通りです。
阪神タイガース(2名) | 西武ライオンズ(4名) |
---|---|
田淵幸一(捕手) | 真弓明信(外野手) |
古沢憲司(投手) | 竹之内雅史(内野手) |
若菜嘉晴(捕手) | |
竹田和史(投手) |
阪神→西武(2名)
田淵幸一
田淵幸一は、3代目ミスタータイガースと呼ばれた阪神の主砲で、球史に残るホームランバッターです。1975年には、王貞治の連続記録を抑えて本塁打王を獲得。捕手としても活躍し、エース江夏豊とのコンビは、黄金バッテリーと呼ばれました。そんな田淵の放出は、阪神ファンにとって衝撃的なもので、田淵自身も不満を漏らしたといいます。江夏に続いて田淵まで放出。空白の1日事件も重なり、球団への不信感が大きくなっていた時期と言えるでしょう。
西武の初年は平凡な成績に終わりますが、1980年には一塁手にコンバート。DHとしても起用され、年間43本塁打の活躍を見せました。広岡達朗監督に代わってからは、1982〜1983年にリーグ優勝と日本一を達成。特に巨人との日本シリーズでは、江川、西本を攻略してチームを勝利に導きました。1984年、奇しくも江夏が西武に加入し、再びチームメートになりますが、同年共に引退しています。
西武の初年は平凡な成績に終わりますが、1980年には一塁手にコンバート。DHとしても起用され、年間43本塁打の活躍を見せました。広岡達朗監督に代わってからは、1982〜1983年にリーグ優勝と日本一を達成。特に巨人との日本シリーズでは、江川、西本を攻略してチームを勝利に導きました。1984年、奇しくも江夏が西武に加入し、再びチームメートになりますが、同年共に引退しています。
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古沢憲司
古沢憲司は、1978年オフ当時はまだ30歳ながら、阪神に15年間在籍したベテラン投手でした。というのも、プロ入りは高校中退後のテスト入団で、初登板はなんと16歳の時です。4度の二桁勝利を記録するなど活躍しますが、1978年は4勝16敗と大きく負け越し、トレード要員となります。
西武では、移籍初年は4勝14敗と結果を残せず。しかし、1981年には6セーブ、防御率2.03を挙げ、チームの躍進に貢献します。1982年途中に、広島東洋カープに移籍しました。
西武では、移籍初年は4勝14敗と結果を残せず。しかし、1981年には6セーブ、防御率2.03を挙げ、チームの躍進に貢献します。1982年途中に、広島東洋カープに移籍しました。
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西武→阪神(4名)
真弓明信
真弓明信は、太平洋クラブ〜クラウンライター時代に在籍した選手で、6年目の1978年は正に上り調子の頃でした。当初はトレード要員ではなかったものの、阪神側からの指名で移籍が決定。憧れの阪神への移籍は、本人も大歓迎だったと後年話しています。
阪神では、ライオンズ時代の勢いのまま、初年から大活躍。走攻守備えた主力打者としてチームを支え、1983年には首位打者のタイトルを獲得します。そして、迎えた1985年、ホームランを打つ「恐怖の1番打者」として、打率.322、84打点、108得点、34本塁打を記録。吉田義男監督のもと、21年ぶりのリーグ優勝、初の日本一に貢献しました。古巣との対決となった日本シリーズ第1戦では、プレイボールのコールまもない初球をいきなり二塁打にし、チームを勢いづけたのが象徴的です。
その後も10年間、阪神に在籍し、1995年に引退しました。
阪神では、ライオンズ時代の勢いのまま、初年から大活躍。走攻守備えた主力打者としてチームを支え、1983年には首位打者のタイトルを獲得します。そして、迎えた1985年、ホームランを打つ「恐怖の1番打者」として、打率.322、84打点、108得点、34本塁打を記録。吉田義男監督のもと、21年ぶりのリーグ優勝、初の日本一に貢献しました。古巣との対決となった日本シリーズ第1戦では、プレイボールのコールまもない初球をいきなり二塁打にし、チームを勢いづけたのが象徴的です。
その後も10年間、阪神に在籍し、1995年に引退しました。
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竹之内雅史
竹之内雅史は、西鉄時代からライオンズ一筋で活躍していた選手で、現在も歴代2位の死球数(166個)で有名です。死球に関しては、7度のシーズン最多死球、1試合3死球、54試合で14死球などとんでもない記録を保持しています。ライオンズでの11年間は安定した活躍を見せるも、阪神へのトレード要員となりました。
阪神では、移籍1年目の開幕でいきなり4番打者に大抜擢。オールスター前に17本塁打を放つなど、移籍早々活躍を見せます。しかし、その後は年々成績を落とし、結局1982年シーズン途中に引退。そのまま打撃コーチとして阪神に残り、1985年には一軍打撃コーチ補佐として、チームの優勝に貢献しました。
阪神では、移籍1年目の開幕でいきなり4番打者に大抜擢。オールスター前に17本塁打を放つなど、移籍早々活躍を見せます。しかし、その後は年々成績を落とし、結局1982年シーズン途中に引退。そのまま打撃コーチとして阪神に残り、1985年には一軍打撃コーチ補佐として、チームの優勝に貢献しました。
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若菜嘉晴
若菜嘉晴は、西鉄時代からライオンズに在籍した捕手ですが、入団して数年はほとんど試合出場がありませんでした。クラウンライターに変わった1977年から正捕手の座を獲得。当時、身売りで揺れていたチームを支えました。
阪神では、移籍初年、同じく移籍1年目の小林繁とバッテリーを組み、巨人を圧倒します。バッティングも好調で、初めて規定打席に到達して打率.303を記録。打撃10傑に名を連ねました。1979年から1982年には、オールスターにも出場。しかし、1982年に某女優との不倫が発覚し退団すると、その後は大洋ホエールズで正捕手として活躍しました。
阪神では、移籍初年、同じく移籍1年目の小林繁とバッテリーを組み、巨人を圧倒します。バッティングも好調で、初めて規定打席に到達して打率.303を記録。打撃10傑に名を連ねました。1979年から1982年には、オールスターにも出場。しかし、1982年に某女優との不倫が発覚し退団すると、その後は大洋ホエールズで正捕手として活躍しました。
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