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「世界の荒鷲」「ビッグ・サカ」196cm、130kgの坂口征二は、猪木より1つ歳上だがプロレスでは後輩。
明治大学柔道部で神永昭夫の指導を受け、大学で団体でも個人戦でも優勝し、旭化成に入った。
1964年の東京オリンピックでは日本代表候補だったが、最後の夏合宿で腰を痛め、神永昭夫が決勝戦でオランダのアントン・ヘーシングに1本負けするのを間近で目撃。
「打倒ヘーシンク」に燃え、東京オリンピックの翌年、全日本大会で優勝し、世界選手権の決勝でヘーシングに優勢負け。
その後、ヘーシングが引退したため、メキシコオリンピックに目標を切り替え、必死に練習したが、メキシコオリンピックで柔道競技が採用されないことが決まると
「8年も待てない」
と目標を失い稽古に身が入らなくなった。
そんなとき日本プロレスからスカウトを受け、旭化成を辞めて入団した。
「すごく怒られてねえ。
明治大学柔道部のOB会なんて破門同様ですよ。
除名です。
明治大学の監督だった曽根康治さんとか神永昭夫さんとかにね、『お前、なに考えてるんだ!』って相当いわれたんですよ」
25歳の誕生日にジャイアント馬場と一緒にプロ入り記者会見をした坂口はカール・ゴッチにプロレスの基本を教わった。
そして日本プロレスで、ジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐスターとなった。
「ゴッチさんの指導は厳しいけれど、すごく真っ直ぐな人でプロレスに対する考えをハッキリ持っている。
まあ頑固おやじという感じ。
あまりガアガアはいってこないですよ。
お前、出来ないんならいいよと突き放す感じで、来る者は拒まず、去る者は追わずという人だった。
だからみんな必死でついていくんです」
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北沢幹之は、
「有名になれば小4のときに家を出ていった母親に会えるかもしれない」
と思い上京し、同郷の力士を頼って相撲部屋に入ったが、その力士の独立に関わるゴタゴタを嫌って、
「プロレスラーになろう」
と完成したばかりのリキスポーツパレスで、力道山を待ち伏せして志願。
入門を認められて初めて道場に行ったとき、前年、ブラジル遠征でスカウトされた1つ歳下のアントニオ猪木がチャンコ番をしていた。
地上9階地下1階の巨大なリキスポーツパレスのい中には、リキボクシングジムもあって
(練習時間をズラして、同じリングを日本プロレスと共用していた)
伝説のボクシングトレーナー、エディ・タウンゼントや世界チャンピオン、藤猛がいた。
「お金とか関係なくただ強くなりたかった」
という北沢幹之は、ここにも通って練習。
寝技でもカール・ゴッチに極められないようにまでなった。
(リングスでレフリーをしていたとき50歳近い沢幹之は、ヴォルク・ハンとスパーリングをして1度も極めさせず「リングスで1番強いのは前田日明ではなく北沢幹之」といわれた)
そんな強さにこだわる北沢幹之が敬意を抱くのはちゃんと練習をしている選手だった。
「猪木さんは練習が好きでいつも一緒に練習していました。
関節が柔らかくてガッチリ極まって絶対に逃げられないはずでも横にひねって逃げる。
あの体で練習が好きだったらどうしようもない。
どんどん強くなっていく。
坂口さんみたいに大きな体をしていても練習が嫌いだとやっぱり弱いですよ」
またメキシコへ修行に出たときには別の意味で衝撃を受けた。
現地で先行していた柴田勝久と合流したのだが、彼がメキシコで売れていること驚いたのである。
「柴田ってすごい弱かったんですよ。
本当、ガチンコだったら片手でも勝てるっちゅうか。
自分は体も大きくなかったしスターの要素というのが全くなかったです。
客を呼べる選手って顔と体がよくても、ただ強いだけではダメなんです。
いくらがんばってこの世界にいてもいい思いはできないなと」
「有名になれば小4のときに家を出ていった母親に会えるかもしれない」
と思い上京し、同郷の力士を頼って相撲部屋に入ったが、その力士の独立に関わるゴタゴタを嫌って、
「プロレスラーになろう」
と完成したばかりのリキスポーツパレスで、力道山を待ち伏せして志願。
入門を認められて初めて道場に行ったとき、前年、ブラジル遠征でスカウトされた1つ歳下のアントニオ猪木がチャンコ番をしていた。
地上9階地下1階の巨大なリキスポーツパレスのい中には、リキボクシングジムもあって
(練習時間をズラして、同じリングを日本プロレスと共用していた)
伝説のボクシングトレーナー、エディ・タウンゼントや世界チャンピオン、藤猛がいた。
「お金とか関係なくただ強くなりたかった」
という北沢幹之は、ここにも通って練習。
寝技でもカール・ゴッチに極められないようにまでなった。
(リングスでレフリーをしていたとき50歳近い沢幹之は、ヴォルク・ハンとスパーリングをして1度も極めさせず「リングスで1番強いのは前田日明ではなく北沢幹之」といわれた)
そんな強さにこだわる北沢幹之が敬意を抱くのはちゃんと練習をしている選手だった。
「猪木さんは練習が好きでいつも一緒に練習していました。
関節が柔らかくてガッチリ極まって絶対に逃げられないはずでも横にひねって逃げる。
あの体で練習が好きだったらどうしようもない。
どんどん強くなっていく。
坂口さんみたいに大きな体をしていても練習が嫌いだとやっぱり弱いですよ」
またメキシコへ修行に出たときには別の意味で衝撃を受けた。
現地で先行していた柴田勝久と合流したのだが、彼がメキシコで売れていること驚いたのである。
「柴田ってすごい弱かったんですよ。
本当、ガチンコだったら片手でも勝てるっちゅうか。
自分は体も大きくなかったしスターの要素というのが全くなかったです。
客を呼べる選手って顔と体がよくても、ただ強いだけではダメなんです。
いくらがんばってこの世界にいてもいい思いはできないなと」
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一方、山口県の佐山聡のブームはキックボクシングからプロレスに進化。
毎月、プロレス雑誌の発売日には日本海側の祖母の家から瀬戸内海側の実家近くの商店街にある本屋まで、自転車で山を越えて片道1時間走った。
お気に入りのレスラーの切り抜きを壁に貼り付け、部屋には雑誌が山積みになっていった。
学校では友人をつかまえて技をかけ、同級生のほとんどの男子がプロレス技をかけられた。
そして1969年、小6のときに祖母が体調を崩したため、長府の実家に戻って長府中学に入学。
プロレス部はなかったので、プロレスをするために柔道部に入部。
顧問は素人の上、練習にほとんど来なかったので、佐山聡はバックドロップやスープレックスのような裏投げをかけた。
中1の2学期で黒帯(初段)となったが、同時期に祖母が他界。
遺体に
「メキシコに行ってチャンピオンになります」
と誓った。
感覚的に
「自分は180cm以上にはになれない」
と思っていた佐山聡が
「空中戦主体のメキシコプロレス、ルチャ・リブレなら体が小さくても大丈夫だろう」
と思っての誓いだった。
(実際、佐山聡は大人になっても170cm前後だった)
図らずもメキシコを志した佐山聡だったが、その後、実際にミル・マスカラスが来日。
日本プロレスのリングのコーナーポストから星野勘太郎にダイビングボディアタックを浴びせ、そのままフォール勝ち。
中1の佐山聡はこの試合をTVで観戦し、虜になった。
自分でマスクをつくって、それをカバンに入れて登校。
休み時間にマスクをかぶって同級生にドロップキック。
放課後は体育館でマットを敷き、跳び箱の上からダイビングボディアタック。
最終的に同級生が止める中、1番分厚いクッション性の良いマットに向かって体育館の2階部分から飛び、
「ドーン」
という音をさせながら無事、技を決めた。
家に帰ると新しいマスクづくり。
それは色を塗るのではなく、いろいろな色の生地を貼り合わせたもので、中には毛糸製のものもあった。
毎月、プロレス雑誌の発売日には日本海側の祖母の家から瀬戸内海側の実家近くの商店街にある本屋まで、自転車で山を越えて片道1時間走った。
お気に入りのレスラーの切り抜きを壁に貼り付け、部屋には雑誌が山積みになっていった。
学校では友人をつかまえて技をかけ、同級生のほとんどの男子がプロレス技をかけられた。
そして1969年、小6のときに祖母が体調を崩したため、長府の実家に戻って長府中学に入学。
プロレス部はなかったので、プロレスをするために柔道部に入部。
顧問は素人の上、練習にほとんど来なかったので、佐山聡はバックドロップやスープレックスのような裏投げをかけた。
中1の2学期で黒帯(初段)となったが、同時期に祖母が他界。
遺体に
「メキシコに行ってチャンピオンになります」
と誓った。
感覚的に
「自分は180cm以上にはになれない」
と思っていた佐山聡が
「空中戦主体のメキシコプロレス、ルチャ・リブレなら体が小さくても大丈夫だろう」
と思っての誓いだった。
(実際、佐山聡は大人になっても170cm前後だった)
図らずもメキシコを志した佐山聡だったが、その後、実際にミル・マスカラスが来日。
日本プロレスのリングのコーナーポストから星野勘太郎にダイビングボディアタックを浴びせ、そのままフォール勝ち。
中1の佐山聡はこの試合をTVで観戦し、虜になった。
自分でマスクをつくって、それをカバンに入れて登校。
休み時間にマスクをかぶって同級生にドロップキック。
放課後は体育館でマットを敷き、跳び箱の上からダイビングボディアタック。
最終的に同級生が止める中、1番分厚いクッション性の良いマットに向かって体育館の2階部分から飛び、
「ドーン」
という音をさせながら無事、技を決めた。
家に帰ると新しいマスクづくり。
それは色を塗るのではなく、いろいろな色の生地を貼り合わせたもので、中には毛糸製のものもあった。
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同年、日本プロレスとのコーチ契約が終わったゴッチがアメリカに帰国。
TVが普及し、ますますショーアップされたプロレスとは合わず、プロモーターにも敬遠され、自分のスタイルを変えることはできないゴッチは、ハワイへ移住。
ホノルルでプロレスラーとして活躍したがプロモーターとトラブルとなって解雇され、ゴミ収集の仕事を始めた。
トレーニングのために車には乗らずに並走し、集積所につくとバケツの中のゴミを収集車に放り込み、再び走り出した。
仕事が終わると試合もないのにハードにトレーニングと練習を行い、夜は早く寝てコンディショニングを整えた。
TVが普及し、ますますショーアップされたプロレスとは合わず、プロモーターにも敬遠され、自分のスタイルを変えることはできないゴッチは、ハワイへ移住。
ホノルルでプロレスラーとして活躍したがプロモーターとトラブルとなって解雇され、ゴミ収集の仕事を始めた。
トレーニングのために車には乗らずに並走し、集積所につくとバケツの中のゴミを収集車に放り込み、再び走り出した。
仕事が終わると試合もないのにハードにトレーニングと練習を行い、夜は早く寝てコンディショニングを整えた。
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また同年、文雄が55歳で神戸製鋼を退職し、関連会社に就職。
さらに1年後には住吉運輸という新会社に転職した。
住吉運輸は、神戸製鋼の下請け会社である住吉工業の子会社だった。
神戸製鋼長府工場で労働組合委員長をしていた文雄は、神戸製鋼の先輩で市議会議員になっていた中村農夫の紹介で住吉運輸に入社した。
文雄は左翼だった。
(左翼=経済的または政治的下層階級の集まりや代表。
右翼=上流または支配階級の集まりや代表。
保守的な右翼は固定化された特権や権力を防衛し、左翼はそれを攻撃する)
一方、佐山聡は大人になるとバリバリの右翼となる。
1999年に「掣圏道(現掣圏道掣圏真陰流)」を設立するが
「真の日本精神を復活させる」
といって、選手は金髪、ピアス、タトゥーなどは禁止で、ロープがない八角形の試合場に刀を持って袴をはいて入場。
礼儀作法を重視し、ガッツポーズ、相手への暴言、笑みをみせる行為などは反則。
観客にもスリーピースのスーツ着用を奨励した。
2001年に第19回参議院議員通常選挙比例代表区出馬したときは演説で
「暴走族は撃ち殺せ!」
と発言し話題となった。
天皇制、第9条に反対する人間やマスコミを嫌い、
「既存の価値観を否定することを是とする共産思想とフリースタイルがはびこり、マスコミの報道によって、それが世界の常識と信じ込まされてきた」
「現代人のマナーが乱れきっているのは今の日本に武士道精神のような原理主義がないから。
問題はいつからこうなってしまったのか?ということ。
かつて日本には“武士道という原理主義があり、礼儀や作法も非常に厳格だったわけです。
そうした厳しい教えが、戦争に負けたことによって否定され、なくされてしまったんですよ」
「ヒップホップの上っ面だけマネて『マザーファッカー』とかいって中指立てたりしてるバカがいるけど、あんなの許せるわけないでしょう」
「電車で妊婦を席に座らせないとか、マナーがなってないヤツがいたら注意しますよ」
などと熱く語った。
親子そろって正義感が強かった。
さらに1年後には住吉運輸という新会社に転職した。
住吉運輸は、神戸製鋼の下請け会社である住吉工業の子会社だった。
神戸製鋼長府工場で労働組合委員長をしていた文雄は、神戸製鋼の先輩で市議会議員になっていた中村農夫の紹介で住吉運輸に入社した。
文雄は左翼だった。
(左翼=経済的または政治的下層階級の集まりや代表。
右翼=上流または支配階級の集まりや代表。
保守的な右翼は固定化された特権や権力を防衛し、左翼はそれを攻撃する)
一方、佐山聡は大人になるとバリバリの右翼となる。
1999年に「掣圏道(現掣圏道掣圏真陰流)」を設立するが
「真の日本精神を復活させる」
といって、選手は金髪、ピアス、タトゥーなどは禁止で、ロープがない八角形の試合場に刀を持って袴をはいて入場。
礼儀作法を重視し、ガッツポーズ、相手への暴言、笑みをみせる行為などは反則。
観客にもスリーピースのスーツ着用を奨励した。
2001年に第19回参議院議員通常選挙比例代表区出馬したときは演説で
「暴走族は撃ち殺せ!」
と発言し話題となった。
天皇制、第9条に反対する人間やマスコミを嫌い、
「既存の価値観を否定することを是とする共産思想とフリースタイルがはびこり、マスコミの報道によって、それが世界の常識と信じ込まされてきた」
「現代人のマナーが乱れきっているのは今の日本に武士道精神のような原理主義がないから。
問題はいつからこうなってしまったのか?ということ。
かつて日本には“武士道という原理主義があり、礼儀や作法も非常に厳格だったわけです。
そうした厳しい教えが、戦争に負けたことによって否定され、なくされてしまったんですよ」
「ヒップホップの上っ面だけマネて『マザーファッカー』とかいって中指立てたりしてるバカがいるけど、あんなの許せるわけないでしょう」
「電車で妊婦を席に座らせないとか、マナーがなってないヤツがいたら注意しますよ」
などと熱く語った。
親子そろって正義感が強かった。
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1971年3月、国際プロレスの招聘に応じてカール・ゴッチが来日。
日本プロレスで営業部長だった吉原功(早稲田大学レスリング部出身、元プロレスラー)は、力道山の死後、独立して国際プロレスを設立し、日本プロレスに対抗すべく奮闘していたが、ハワイでゴッチが清掃業をしているのを知ると
「もったいない」
と招聘を決めたのである。
46歳のゴッチは、2m23cm、170kgモンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)にジャーマン・スープレックス・ホールドを決めた。
そしてアニマル浜口ら国際プロレス所属の日本人レスラーをスパーリングでオモチャにしながら鍛えていった。
アニマル浜口は、暇さえあれば練習をするゴッチをみて
「プロレスの神様じゃなく練習の神様」
と思った。
「ゴッチさんはプロレス、いやレスリングといったほうがいいかな、レスリングで勝つためにはどうしたらいいか、四六時中考えていました。
ヨガを研究するために古代インドの歴史やヒンドゥー教、さらにはアーユルヴェーダ(インドの伝統的医学)など、あらゆることを勉強していて、僕も勝つために『ヨガをやれ』といわれましたよ」
国際プロレスで再びプロレスラーとして再生したゴッチは、6年ぶりにアメリカのマットに復帰した。
そんなとき日本プロレスを追放されて新しい団体を立ち上げようとしていたアントニオ猪木が、アメリカのゴッチを訪ね、協力を依頼した。
日本プロレスで営業部長だった吉原功(早稲田大学レスリング部出身、元プロレスラー)は、力道山の死後、独立して国際プロレスを設立し、日本プロレスに対抗すべく奮闘していたが、ハワイでゴッチが清掃業をしているのを知ると
「もったいない」
と招聘を決めたのである。
46歳のゴッチは、2m23cm、170kgモンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)にジャーマン・スープレックス・ホールドを決めた。
そしてアニマル浜口ら国際プロレス所属の日本人レスラーをスパーリングでオモチャにしながら鍛えていった。
アニマル浜口は、暇さえあれば練習をするゴッチをみて
「プロレスの神様じゃなく練習の神様」
と思った。
「ゴッチさんはプロレス、いやレスリングといったほうがいいかな、レスリングで勝つためにはどうしたらいいか、四六時中考えていました。
ヨガを研究するために古代インドの歴史やヒンドゥー教、さらにはアーユルヴェーダ(インドの伝統的医学)など、あらゆることを勉強していて、僕も勝つために『ヨガをやれ』といわれましたよ」
国際プロレスで再びプロレスラーとして再生したゴッチは、6年ぶりにアメリカのマットに復帰した。
そんなとき日本プロレスを追放されて新しい団体を立ち上げようとしていたアントニオ猪木が、アメリカのゴッチを訪ね、協力を依頼した。
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28歳の猪木は女優の倍賞美津子と結婚していた。
馴れ初めは先輩の豊登が自分の車(トヨタ、センチュリー)を
「こんな車に乗りやがって」
と女子3人が蹴飛ばすのを見つけたこと。
その中の1人が倍賞美津子だった。
豊登は彼女たちを食事に誘った上、家まで送り届け、その後も連絡を取り続けた。
猪木は豊登に連れられて倍賞美津子と初めて会い、その明るさに惹かれた。
出会いから5年後、1億円をかけた式を挙げて2人は結婚。
しかしその1ヵ月後、会社を改革をしようと動いていた猪木は日本プロレスから追放されてしまった。
「迷わず行けよ」
と行動主義のアントニオ猪木は、世田谷区野毛、多摩川沿いの2人の新居となるはずだった一戸建てを改造。
庭を潰して道場に、家の2階部分を増築し寮にした。
1971年11月、結婚
12月、日本プロレス追放
1972年1月、「新日本プロレス」を会社登記
3月、旗揚げ戦
という超スピーディーに新団体立ち上げを進めたが、カール・ゴッチへの協力依頼もその中の1つだった。
新日本プロレスの所属選手は、アントニオ猪木、山本小鉄、木戸修、藤波辰巳、北沢幹之、柴田勝久のわずか6人のみ。
旗揚げ戦前に募集した練習生は、あまりの厳しさに逃げてしまった。
メジャーな外国人レスラーは日本プロレスと国際プロレスに抑えられていたので、ゴッチがブッキング。
サーカスのようなプロレスにウンザリしていたゴッチは、猪木がやろうとしているシリアスなプロレスの実現のために実力のある選手を呼んだ。
そして1972年3月6日月曜日18時半、大田区体育館で旗揚げ戦がスタート。
全6試合。
メインはカール・ゴッチ vs 猪木。
会場は5000人満員でひとまず成功したが、以後、テレビ放映のないまま苦戦が続いた。
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1972年夏、新日本プロレスの旗揚げ戦から数ヵ月後、ドイツのミュンヘンでオリンピックが開かれ、佐山と同じく山口県出身の吉田光雄、後の長州力が出場した。
在日韓国人二世の長州は小学校時代、教師からも差別を受けた。
中学では柔道部に入り、桜ケ丘高校にはレスリング部の特待生として進学。
3年生でインターハイ準優勝、国体優勝。
専修大学に特待生として入学した。
「今でも思い出すよ。
山陽本線の「あさかぜ」に乗ってね。
寝台列車だよ。
体育寮で使う布団を抱えてさ。
親からもらった3万円を腹巻きのなかに入れてね。
それで東京駅に着いたはいいけど、出口がわからないんだよ。
ちょうど朝の通勤ラッシュ。
誰に聞いたって、あっち、こっちといってくれるけどそれがどこかもわからない。
布団を抱えたまま駅の構内を30分以上も歩き回ってね。
アレは本当にまいったよ」
大学2年生で全日本学生選手権90kg級で優勝。
3年の年生のとき、ミュンヘンオリンピックを迎えたが、日本国籍がないことから日本代表にはなれず、
「じゃあ俺、何人?」
と思いながら、急遽、韓国の選考会に出て、フリースタイル90kg級韓国代表となった。
メダルには手は届かなかったが
「立てた目標に対しては、たどり着けたっていう思い」
とこの頃から常に明るく前向きだった。
(その後、4年生で専修大学レスリング部のキャプテンとなり、全日本選手権ではフリースタイルとグレコローマンの100kg級で優勝。
大学卒業後、新日本プロレス入りした)
在日韓国人二世の長州は小学校時代、教師からも差別を受けた。
中学では柔道部に入り、桜ケ丘高校にはレスリング部の特待生として進学。
3年生でインターハイ準優勝、国体優勝。
専修大学に特待生として入学した。
「今でも思い出すよ。
山陽本線の「あさかぜ」に乗ってね。
寝台列車だよ。
体育寮で使う布団を抱えてさ。
親からもらった3万円を腹巻きのなかに入れてね。
それで東京駅に着いたはいいけど、出口がわからないんだよ。
ちょうど朝の通勤ラッシュ。
誰に聞いたって、あっち、こっちといってくれるけどそれがどこかもわからない。
布団を抱えたまま駅の構内を30分以上も歩き回ってね。
アレは本当にまいったよ」
大学2年生で全日本学生選手権90kg級で優勝。
3年の年生のとき、ミュンヘンオリンピックを迎えたが、日本国籍がないことから日本代表にはなれず、
「じゃあ俺、何人?」
と思いながら、急遽、韓国の選考会に出て、フリースタイル90kg級韓国代表となった。
メダルには手は届かなかったが
「立てた目標に対しては、たどり着けたっていう思い」
とこの頃から常に明るく前向きだった。
(その後、4年生で専修大学レスリング部のキャプテンとなり、全日本選手権ではフリースタイルとグレコローマンの100kg級で優勝。
大学卒業後、新日本プロレス入りした)
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1972年11月2日、旗揚げ戦から8ヵ月後、藤原喜明が新日本プロレスに入門した。
岩手県和賀郡江釣子村の6人兄弟の長男。
農作用の馬を飼っていて、冬場は仕事がないため運動不足解消のため散歩させるのだが、藤原喜明は凍てつく空気の中、上半身裸で馬に乗った。
肌が針を刺されるように痛く、村人にバカ扱いされた。
「平気だった。
強くなりたかった。
俺の頭の中には強くなる=苦しむという発想しかなかった。
苦しみを我慢すればするほど強くなれると信じていた」
工業高校の機械科に進むとボディビルの本を購入し自己流でトレーニング開始。
高校卒業後、埼玉県内の建設機器メーカーでサラリーマンをしたが、20歳で退職。
料理人をしながら金子武雄(重量挙げ全日本ライト級チャンピオン、日本プロレス所属のレスラーだったがセメントマッチを仕掛けられ腕を骨折し引退)のジムで練習を続けた。
新日本プロレス入門10日後というスピードデビュー、かつ23歳という遅咲きでデビューを果たし、1年後には6歳上の猪木の付き人になり、合同トレーニングの後は猪木と特別練習。
それは1984年にUWFに移籍するまで10年以上続いた。
「考えてみたら、人の2倍、3倍、練習していたよな。
そのおかげだな。
俺のヒザはボロボロだよ」
岩手県和賀郡江釣子村の6人兄弟の長男。
農作用の馬を飼っていて、冬場は仕事がないため運動不足解消のため散歩させるのだが、藤原喜明は凍てつく空気の中、上半身裸で馬に乗った。
肌が針を刺されるように痛く、村人にバカ扱いされた。
「平気だった。
強くなりたかった。
俺の頭の中には強くなる=苦しむという発想しかなかった。
苦しみを我慢すればするほど強くなれると信じていた」
工業高校の機械科に進むとボディビルの本を購入し自己流でトレーニング開始。
高校卒業後、埼玉県内の建設機器メーカーでサラリーマンをしたが、20歳で退職。
料理人をしながら金子武雄(重量挙げ全日本ライト級チャンピオン、日本プロレス所属のレスラーだったがセメントマッチを仕掛けられ腕を骨折し引退)のジムで練習を続けた。
新日本プロレス入門10日後というスピードデビュー、かつ23歳という遅咲きでデビューを果たし、1年後には6歳上の猪木の付き人になり、合同トレーニングの後は猪木と特別練習。
それは1984年にUWFに移籍するまで10年以上続いた。
「考えてみたら、人の2倍、3倍、練習していたよな。
そのおかげだな。
俺のヒザはボロボロだよ」
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藤原喜明は、カール・ゴッチに出会い、初めてその関節技をみたとき、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受け
「本物だ」
と思ったという。
「 当時、若手のコーチ役は山本小鉄さんで、その指導は非合理的というか、スパーリングやっていて
『 これ、どうやって極めるんですか?』って聞くと『根性で極めろ』って。
もちろん非合理的な指導も必要なときもありますが、それを聞いたときは「この人、大丈夫かな」と思いました。
それで入門してしばらくしてゴッチさんの指導に接して「あっこれは本物だ」って感じたんです。
ゴッチさんは日本語もしゃべるんだけどめちゃくちゃなので、それで話されるとわけがわかんなくなる。
ですから基本的には簡単な英語でやりとりしていましたよ。
1日にいくつも関節技を教わるんだけど覚えきれなくなる。
あるとき、ハッと気がついて、1日に1つだけ教えてもらったことをノートに克明に書き残して、それを確実に覚えていくようにしたんです。
オレは頭が悪いからものごとを覚えるのにすごく時間がかかるんですよ。
だけど1度覚えるとずっと覚えている。
高校時代のことだってちゃんと覚えている。
オレは工業高校の機械科で、得意な科目は体育が5で、応用力学、機械工作が5。
これはどういうことかというと運動神経がまあまあいい上に力学、つまりテコの原理がわかっていて工作が上手、つまり手先が器用なんですよ。
だから関節技を習得するのにピッタリだったんだな。
あともう1つ。
骨が太い」
「本物だ」
と思ったという。
「 当時、若手のコーチ役は山本小鉄さんで、その指導は非合理的というか、スパーリングやっていて
『 これ、どうやって極めるんですか?』って聞くと『根性で極めろ』って。
もちろん非合理的な指導も必要なときもありますが、それを聞いたときは「この人、大丈夫かな」と思いました。
それで入門してしばらくしてゴッチさんの指導に接して「あっこれは本物だ」って感じたんです。
ゴッチさんは日本語もしゃべるんだけどめちゃくちゃなので、それで話されるとわけがわかんなくなる。
ですから基本的には簡単な英語でやりとりしていましたよ。
1日にいくつも関節技を教わるんだけど覚えきれなくなる。
あるとき、ハッと気がついて、1日に1つだけ教えてもらったことをノートに克明に書き残して、それを確実に覚えていくようにしたんです。
オレは頭が悪いからものごとを覚えるのにすごく時間がかかるんですよ。
だけど1度覚えるとずっと覚えている。
高校時代のことだってちゃんと覚えている。
オレは工業高校の機械科で、得意な科目は体育が5で、応用力学、機械工作が5。
これはどういうことかというと運動神経がまあまあいい上に力学、つまりテコの原理がわかっていて工作が上手、つまり手先が器用なんですよ。
だから関節技を習得するのにピッタリだったんだな。
あともう1つ。
骨が太い」