佐山聡が虎のマスクをかぶるまで
2022年6月20日 更新

佐山聡が虎のマスクをかぶるまで

佐山聡は、山口県に生まれ、子供の頃からアントニオ猪木を崇拝し「プロレスこそ真の格闘技」「プロレスこそ最強の格闘技」と信じ、プロレスラーになることを決めた。

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柔道部でバックドロップやスープレックスのような裏投げを繰り出していた佐山聡は、市の大会でも優勝したことがなかった。
しかし誰にでもプロレス技をかけていたため番長グループにも恐れられた。
友人が他校の生徒とケンカになったときも、
「ケンカするなら俺としてくれ。
こいつはせん。
俺がするけん」
と買って出たが相手は去ってしまった。
プロレスファンは馬場派か猪木派にわかれたが、佐山聡は猪木派。
アントニオ猪木を崇拝し
「プロレスこそ真の格闘技」
「プロレスこそ最強の格闘技」
と信じ、プロレスラーになることを決めていた。
そしてプロレス誌に掲載された新日本プロレスの新弟子応募条件を穴があくほど見つめた。
「16歳までなら175cm。
高校卒業後だと180cm以上だったかな。
背が低かったので早く入らねばならないと思ったんです」
中3になると
「中学を出たら新日本プロレスに入る」
と進路を希望したが、教師と親に
「高校だけはいけ」
「アマチュアレスリングでオリンピックに出てからプロになれ」
といわれレスリング部のある高校に進学することにした。
卒業文集の寄せ書きには
「血はリングに咲く赤いバラ」
と書いた。
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旗揚げ戦から1年後、新日本プロレスはテレビ朝日と放送契約を結んだ。
カール・ゴッチは、アントニオ猪木とは5回対戦し、3勝2敗。
手紙や電話で選手をブッキングし、コーチ、セコンド、タイトルマッチの立会人として来日することも多く
「かつてプロレスは相手をねじふせ、マットに這わすことに全力を集中した。
しかし近頃はダンスやファッションショーにまでなり下がり、現在は悪貨が良貨を駆逐する時代になってしまった。
良貨が悪貨を打ち破っていく時代が来て欲しい」
と訴えていた。
しかしゴッチが呼ぶのはレスリングはできるが客は呼べないレスラーばかり。
猪木はゴッチと理想を共にしていたが、会社経営を優先させ、ロサンゼルスで新しいブッカーを雇った。
そしてカナダ、トロントで2流のベビーフェイスだったタイガー・ジェット・シンと流血戦をしたり、大木金太郎との力道山時代の同門対決など話題性のある試合を行った。
新日本プロレスの経営が安定するに従い、冷遇され始めたゴッチは
「シリアスなプロレスをやる団体をやるといっていたのに1年経つと元通りさ」
と嘆き、アメリカのフロリダ州に家を買った。
フロリダ州、タンパの北部の小さな町、オデッサは湖が多く、ゴッチの家も湖畔にあった。
書棚に宮本武蔵の「五輪書」、新渡戸稲造の「武士道」、笹原正三(メルボルンオリンピック、フリースタイルレスリング、フェザー級金メダリスト)の「サイエンティフィック・アプローチ・トゥ・レスリング」など世界各国の武道・格闘技関連、そして人体やトレーニングに関する書物が並んだ。
車が2台入るガレージには、バーベル、ダンベル、トレーニングベンチ、インドのメイス(長い鉄棒の先に思い鉄球がついたトレーニング器具)、イランのミリィ(棍棒のようなトレーニング器具)などが置かれトトレーニングルームとなった。
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しかし「燃える闘魂」は決してダテではなかった。
アントニオ猪木は、まず誰よりも練習した。
練習第一の猪木が新団体立ち上げるために1番最初にしたことは道場を建てたこと。
そして所属レスラー全員に合同練習を義務づけた。
猪木が入ってくると道場の空気が一変し、一瞬の気の緩みも許されなくなるという。
「前の晩も試合はもちろん、洗濯やらの雑用もある。
疲れていたから早起きはキツかった。
毎朝、30分ぐらいかな、走る。
ああ、終わったって思うとスクワット。
毎日嫌になるぐらいやっているんだよね。
でも一緒にやらなくちゃいけない」
(藤原喜明)
試合で遠征中も必ず合同練習が行われ、朝は晴れていればランニング、雨なら風呂場でスクワット1000回。
午後も試合が始まる30分前まで試合用のリングでスパーリングやトレーニングをしてから客を入れた。
あるとき3週間休みなしで巡業が続き、後半に入るとみんな疲れて合同練習に参加しなくなったが、猪木は1人で黙々とスクワット。
そして
「集まれ!」
と号令をかけ、リングの周りに並べ
「やる気がないなら帰れ」
といって全員を殴った。
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新日本プロレスの若手は、道場に隣接する寮に住んだ。
そして8時半起床し、掃除などをしてから10時から合同練習開始。
まず全員がリングの周囲を囲んでスクワット、腕立て伏せ、縄跳びなどのトレーニングを1時間半から2時間行うが、夏は40度を超えて汗だまりができる。
次はリングの上でストレッチ、腹筋、ブリッジ、受け身、タックル、ロープワークなど基本技術。
それが終わるとスパーリングとなる。
最大で4組8人がリング上でひしめくため、自然と寝技多くなる
それは関節技あり、締め技あり、フォールなしのサブミッションレスリング。
これを道場ではスパーリングと呼ばず
「セメント」
あるいは
「ガチ」
「ガチンコ」
と呼んだ。
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プロレスには台本があり、勝敗は事前に決まっていて、プロレスラーの目的は勝利ではなく観客を興奮させ楽しませること。
ミュージシャンが楽器や演奏の練習したり、俳優が演技やセリフの練習をするように、本来、プロレスラーは、パイルドライバー、バックドロップ、ボディスラム、4の字固めなど技のかけ方、受け方を練習をする。
しかし新日本プロレスでは、そういった練習はほとんどせず、基本的にトレーニングとセメントだけ。
試合は、ケツ(最後の勝敗)は決まっていたが、試合中はすべてアドリブでセメントもやった。
猪木は
「どんなに素晴らしい試合より街のケンカのほうがおもしろい」
と感情ムキ出しのファイト、気迫ムキ出しの試合を推奨。
試合でセメントの要素がないと
「何やってるんだ!」
と怒った。
またチャレンジすることが大好きな猪木は、若手がリングで挑戦的なことをやったり、それを失敗しても責めない。
しかし気合が入っていない試合をすれば、試合中でも竹刀を持ってリングに上がって滅多打ちにすることもあった。
だから新日本プロレスのリングには、常に危険な香りが漂っていた。
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1973年4月、佐山聡は、レスリング部がある山口県立水産高校に進学。
学校が実家から50km離れていたため寮に入った。
水興寮は4階建てで、1階が事務所と食堂、2階以上が寮。
1部屋に1年生、2年生、3年生が1人ずつ入った。
入寮して数日後の深夜、新入生は上級生に起こされた。
2階の真っ暗なテラスにつれていかれ
「はい、整列」
と並んで朝まで正座し、足を崩すと拳や竹刀が飛んできた。
ある日の深夜は部屋に呼ばれて
「とにかく先輩のいうことを聞け」
と真っ暗闇の中、パンチ&ビンタ。
パンチはボディに、ビンタは顔面に入れられた。
こういったシメは、なにかあると行われ、週2のペースであった。
寮生は7時に起床し、点呼、体操、掃除を行い、7時半に食堂で朝食を食べてから登校。
学校まではカケ足で、校舎前に海難事故で亡くなられた人をまつる慰霊碑「燈心台」があって敬礼。
学校内で上級生に出会えば敬礼したため
「敬礼は1日300回くらいやっていた」
(佐山聡)
学校には通学生もいて、1年生は上級生に
「シメろ」
と命じられていたが、最初にシメたのは佐山聡。
同級生は
「やるなあ」
「あいつは何も考えずに行く」
と感心した。
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佐山聡は、入学直後、4月22日に行われた山口県高校レスリング大会の75kg級で3位になり、国体候補選手になった。
山口水産高校レスリング部顧問は柔道経験者だがレスリングは素人だったので、週1回、周南市の桜ケ丘高校レスリング部に出稽古にいかせた。
ここで佐山聡は長州力の師である江本孝允に指導を受けた。
「江本先生に首投げ、タックルを教えてもらってから3年生にも面白いように勝てるようになりました」
というレスリングを始めて1ヵ月の佐山聡は、国体候補合宿でインターハイ4位と対戦しフォール勝ち。
数ヵ月後、11月18日、1年生と2年生が対象の新人戦に75kg級でエントリーしたが、他の選手が佐山を避けたため、出場者は1人だけだった。
「1試合も戦わないまま優勝させるわけにはいかない」
ということで佐山は、1階級下の1位、、2位、3位、1階級上の1位の4人と対戦し、その成績次第で75kg級の優勝が認められることになった。
佐山聡は4人にフォール勝ち。
この勝利で高校を中退することを決意した。
「1年生の新人戦に勝って有頂天になるわけですよ。
もうプロレスにいけると。
背が低かったから早く入らねばという思いも強かったですね」
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新人戦から1ヵ月後の12月、学校で「はやり目」と呼ばれるウイルス性の急性結膜炎が流行った。
「どうやったら新日本プロレスに入れるか」
佐山聡が考えていた佐山聡は、同級生の1人がはやり目にかかると、その炎症を起こした目を指で触って自分の眼球になすりつけた。
するとみんな学校を休みたいので
「俺もくれ」
「俺もくれ」
といい出し、クラスの2/3が罹患。
学級閉鎖となり、全員で同級生の実家で隔離生活を送った。
やがて目が治るとみんな学校に戻ったが、佐山聡だけは長府の実家へ。
プロレス誌に書かれた記事を参考にトレーニングメニューを作成し黙々とこなし、夜、プロレス中継があれば欠かさずチェック。
高校を辞めないよう説得する父、文雄と衝突し、悶々とした日々を過ごし、駅前でヤンチャそうな高校生にケンカを売って、路地裏で行き場のない力を爆発させることもあった。
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「下の息子があんたくらいの身長と体重なんやけどプロレスやりたいっちゅうんや。
やれるやろか?」
文雄は職場の元プロボクサーに聞いた。
「ヤマハブラザースの星勘太郎と山本小鉄は2人とも170cmないはずです。
大丈夫やと思います」
「ああ、そうか」
年が明け、1974年2月、根負けした文雄は、自分の紹介する仕事に就くという条件で上京を認めた。
佐山聡は寝台特急あさかぜに乗り、東京駅で降りると丸の内のビル群に圧倒された。
そして千葉県の六方町の神戸製鉄所の関連会社、サンアルミニウム工業の寮に入り、朝から夕方まで工場で仕事。
自主トレーニングに加え、会社のサッカー部に入り、背番号3をつけて千葉県内の企業リーグ戦にも出場。
そのうちに父親が手を回していることに気づいた。
「親父は工場の人たちに息子をプロレスに近づけないでくれといっていたんです。
僕はすっかり頭に来てしまい、すぐに辞めることにしました」
寮を出て千葉県柏市の新聞販売店に転がり込んだが、これも文雄の紹介だったため、結局すぐに辞めた。
「とにかく東京に出ないと」
フリーペーパーどころかアルバイト雑誌もない時代、新聞販売店を飛び出した佐山は、東京に向かって移動。
さまよい歩きながら「募集」という張り紙を見つけると、その店に飛び込んだ。
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1974年8月、佐山聡は、東京都荒川区南千住のレストラン泉で住み込みで働き始めた。
地上7階地下2階のビルの1階部分がレストラン泉で、地下2階はサウナ。
契約では2食だったが佐山聡は3食をレストラン泉で食べさせてもらい、その上、毎日サウナも無料で入らせてもらった。
そして実家に近況を知らせる内容と
「聡は必ずプロレスラーになりますから、これがお父さんに返事を聞く最後の手紙です。
プロレスラーになってよろしいでしょうか?」
と最後の
「プロレスラーになってよろしいでしょうか?」
の部分を大きく、太書きにした手紙を送った。
また新日本プロレスの営業本部長、新間寿にも手紙を出した。
新間寿は、中央大学時代に柔道部に所属し、人形町の日本プロレスの道場で力道山をはじめプロレスラーと知り合って、その強さに憧れた。
165cmと小柄な新間は、佐山の一途な気持ちをひしひしと感じた。
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