佐山聡が虎のマスクをかぶるまで
2022年6月20日 更新

佐山聡が虎のマスクをかぶるまで

佐山聡は、山口県に生まれ、子供の頃からアントニオ猪木を崇拝し「プロレスこそ真の格闘技」「プロレスこそ最強の格闘技」と信じ、プロレスラーになることを決めた。

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33歳の北沢幹之は佐山聡を
「いい根性している」
と思っていた。
「すごく負けん気が強い。
最初は大したことなかったけど研究熱心だからみるみる強くなった。
下手にこっちの技なんかみせられないほど飲み込みが早かった」
そしてある夜、散歩をしていた北沢は、道場に明かりが灯っているのをみてのぞいてみると一心不乱にサンドバッグを蹴る佐山聡がいた。
ある日、169cm61kgの藤原敏男に
「もっと体重落とさないと」
といわれた佐山聡は
「実は僕はプロれレスラーなんです」
と答えてしまった。
すぐに目白ジムから新日本プロレスに連絡が入り、佐山聡はアントニオ猪木に呼び出された。
「ヤバい」
と思ったが、意外にも
「練習熱心だな」
とホメられた。
そしてプロレスの秘密を知って2ヵ月後、1976年5月28日、18歳の佐山聡が後楽園ホールでデビュー。
9分44秒、北沢幹之にねじ伏せられた。
その後もTVに映らない10分1本勝負の前座で負け続け、55連敗1分の後、57試合目で初勝利を収めた。
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佐山聡がキックボクシングを始めた同時期、アントニオ猪木は異種格闘技戦を開始した。
力道山の時代から八百長、ショーとみなされ、スポーツとして認知されていなかったプロレスは、大相撲やボクシングに視聴率で引けをとらないのに、新聞でもニュースで試合を結果を報道されることはない。
この状況を覆し、プロレスの強さを認めさせるためには、ボクサー、空手家、柔道家、キックボクサーなど真剣勝負をやっている競技のトップクラスと戦って勝つしかない。
「プロレスこそ最強」
「プロレスこそキングオブスポーツ」
という猪木にファンはロマンを感じていた。
1976年2月6日、ミュンヘン・オリンピック柔道、93kg超級&無差別級金メダル、196cm、120kg、ウイリエム・ルスカは、その投げと寝技は圧倒的だったが、ドロップキックからバックドロップ3連発で20分35秒、TKO負け。
6月26日、ボクシング世界ヘビー級チャンピオン、スーパースター、モハメッド・アリとの戦いは、アンバランスなルールのスキマをついて猪木がスライディングキック(アリキック)に終始し、15Rドロー。
単調な内容に「世紀の凡戦」といわれたが、アリは左脚を痛めて入院。
猪木は何億という借金を背負い込んだ。
このモハメド・アリ戦に備え、アントニオ猪木は藤原喜明や佐山聡と特訓。
相手のパンチに対し滑り込みながらのローキックを放つ猪木に
「逃げながら蹴るんじゃなくて相手の懐の中に入っていったほうがいいんじゃないですか」
佐山がいうと
「オメェやってみろ、このヤロウ」
と藤原喜明に殴られた。
12月12日、パキスタンの英雄、アクラム・ペールワンから挑戦状が届き、猪木は敵地、カラチ・ナショナル・スタジアムに乗り込んだ。
3R、1分5秒、アーム・ロックが完全に極まっているのにギブアップしないペールワンに、猪木は、その腕をへし折り、ドクターストップで勝利。
特筆すべきなのは、モハメド・アリ戦とアクラム・ペールワン戦はリアルファイトだったということだった。
プロレスラーでありながら、打・投・寝、すべてOKの格闘技を目指していた18歳の佐山聡は、猪木に
「打撃と投げと関節技を合わせた新しい格闘技をつくりたいんです」
と打ち明けた。
そして
「わかった。
お前のいう新しい格闘技をウチでやろう。
実現したときお前を第1号の選手にする」
といわれた佐山聡は、ずっとこの約束を信じ続けた。
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年が明け、1977年4月、新日本プロレスが大阪府立で興行を行ったとき、アントニオ猪木の付き人だった佐山聡は洗濯物を抱えコインランドリーを探していた。
そして公園で蹴りの練習をしている2人の男を発見。
「いい蹴りだ」
と思い、近づいた。
「それは空手ですか、キックですか?」
それが前田日明と彼の先輩で空手の師匠である田中正悟だった。
3人は意気投合し、後日、田中と前田が通う道場で一緒に稽古をした。
「佐山さんは、身長は小さかったですけどサイコロみたいに横幅がありましたし、もう組んだらポーンって投げられてどうしようもなかったですね。
凄い力やなぁと思って」
そういう前田日明のバイブルは、マンガ「空手バカ一代」
極真空手の大山倍達の弟子達のようにアメリカで空手の道場を開くのが夢で、大学受験に失敗しアメリカ行きの金を貯めるためアルバイトに明け暮れていた。
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1977年7月、佐山聡から2年遅れて、前田日明が新日本プロレスに入門。
佐山聡に、
「大阪に体の大きな空手の選手がいる」
と聞いた猪木は、それを新間寿に話した。
新間は田中正悟と連絡を取って大阪に飛び、前田日明をスカウトした。
「プロレスラーにならないか?」
「とんでもない。
自分は無理です」
「君はモハメッド・アリが好きか?
ヘビー級ボクサーになる気はないか?」
「ヘビー級ボクサーだったら考えてもいいです」
「じゃあモハメッド・アリの弟子にしてやろう。
ウチはモハメド・アリのジムと提携してるから一緒のジムに入ってボクシングのヘビー級チャンピオンも目指せる。
ただ君はまだ体ができてないんでウチで1~2年間体を大きくしてアリの弟子になったらいい」
「新日本プロレスに1~2年食べさせてもらってトレーニングさせてもらって、どうやってお返しすればいいんですか?」
「ちょっとだけ試合してくれればいいから」
新日本プロレスはモハメド・アリのジムと提携などしておらず、大ウソだったが前田は
「金を貯めなくてもアメリカにいける」
と思い、新日本プロレスに入ることにした。
192cm、73kgとガリガリだった前田は、キツい練習とトレーニングをした後、山盛りのドンブリ飯を5杯から10杯食わされた。
前田にとって2歳上の佐山聡はしっかり者の兄貴のような存在だった。
「礼儀正しくて優しい。
好青年というものを生きた形にしたらあんな人になるという・・・
すごく気が利いてみんなから絶賛されていた」
北沢幹之は佐山聡を
「マジメで頭がいい」
とかわいがっていたが、前田日明は
「アイツは真っすぐしかみえない。
口の利き方から何から生意気」
と殴ることはなかったが
「かわいがらなかったです」
という。
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東北を巡業中、前田日明は着替え中の藤原喜明にあいさつ。
しかし、
「シッシッ」
と手で追い払われた。
そして開場前、リングで汗を流す藤原が相手がいないのをみて
「藤原さん、スパーリングお願いします」
と志願したが、
「シッシッ」
1ヵ月後、山口県で、その藤原と前田のやり取りをみたアントニオ猪木は
「藤原、たまには新弟子の相手をしてやれよ。
ヨシッ前田、俺がやってやる」
といった。
「何をやってもいいんですか?」
「いいよ」
目前に立つ猪木に前田は金的蹴りから目突き。
金的蹴りは太い内腿にガードされたが、目は無防備で猪木が
「ウーッ」
となった瞬間、周りで練習していた先輩レスラーがリングになだれ込んできて前田はボコボコにされた。
それを横でみていた藤原は大笑い。
「バカは死ななきゃ直らない」
といって、それから毎日、前田とスパーリングをした。
このとき藤原喜明は28歳。
レスラーとしては前座だったが、実力的には誰にも負けないという裏番長的な存在だった。
前田日明は、スパーリングでオモチャにされながら藤原がなぜTVに映らない前座なのか、藤原より実力で劣るレスラーがリングでスポットライトを浴びているのか、不思議で仕方なかった。
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1977年10月12日、京王プラザホテルで記者会見が開かれ、梶原一騎主催の格闘技イベント「格闘技大戦争」が日本武道館で行われることが発表された。
その内容は、日本のキックボクサー vs アメリカのプロ空手家。
アメリカは、ブルース・リーの映画の影響でプロ空手(マーシャルアーツ)が大ブームで、特にライト級チャンピオン、ベニー・ユキーデは大人気で、ロサンゼルスに「ジェットセンター」という大きな道場を構えていた。
またヘビー級チャンピオン、ザ・モンスターマンも2ヵ月前に猪木と異種格闘戦を行っていた。
「格闘技大戦争」のメインはライト級の藤原敏男だったが、佐山聡も参戦することになった。
すでに1ヵ月前に目白ジムの第1次合宿を行い、数日後から第2次キャンプに参加する予定で、試合までに90kg以上あった体重を77.5kgまで落とさなければならなかった。
一方、新日本プロレスでは、アントニオ猪木 vs チャック・ウェップナー戦が迫っていた。
チャック・ウェップナーは、ニューヨーク生まれのヘビー級ボクサーで、絶対勝てないといわれながら世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリと対戦し、ダウンを奪い、映画「ROCKY」のモデルになった。
1977年10月25日に行われた試合では、佐山聡考案のオープンフィンガーグローブが使用された。
「ブルース・リーの映画に出てきたグローブを参考にして(リングシューズを製造していた)近藤靴屋さんにつくってもらったんです」
猪木は、そのグローブを
「いいな」
と採用したが、試合後
「太すぎて脇がさせずやりにくかった」
といった。

佐山サトル vs マーク・ コステロ Tiger Mask vs Marc Costello 1977

1977年11月12日、京王プラザホテルで「格闘技大戦争」の調印式が行われた。
梶原一騎は

・2分6R、インターバル1分
・キックとパンチOK
・肘打ち禁止
・首相撲の制限あり
・投げ、寝技禁止。

などというルールを発表したが、佐山聡は

・ノーレフリー
・ノーグラブ(素手)

という「完全フリースタイル」を希望したが認められなかった。
2日後の試合当日、アントニオ猪木や藤原喜明がリングサイドに、山本小鉄がセコンドに入った。
相手は、プロ空手ミドル級とスーパーウエルター級で3位のマーク・コステロ。
佐山は
「頭から落とせば勝てるだろう」
と反則のスープレックスやバックドロップ。
「決まった」
と思ったが、レスリング経験者のコステロは柔らかく受け身をとって立ち上がってきた。
そして打撃戦では目白ジムで特訓したパンチとローキックを繰り出したが当たらず、長身のコステロのパンチと蹴りでメッタ打ちにされ、ダウンを繰り返した。
結局、6Rで7度のダウンを奪ったマーク・コステロが判定勝ち。
試合後、
「すみません」
と謝る佐山聡にアントニオ猪木は
「なにいってるんだ」
といい、山本小鉄、藤原喜明も最後まで倒れなかった佐山をホメた。
しかし新日本プロレスの先輩レスラーに
「だらしない」
「恥」
といわれることもあり、佐山聡は悔しくて河原にいって草木を蹴飛ばした。
このときはまだ前座で、試合翌日のスポーツ新聞に「佐山トオル」と書かれてしまうほど無名の存在だった。
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1978年6月、20歳になった佐山聡は
「猪木さんはいつになったら格闘技をやらせてくれるのだろう」
と思いながら日々、プロレスと格闘技の練習を続けていた。
そんなときに坂口征二副社長にメキシコ遠征を命じられ、
「なぜショー的要素が強いメキシコにいかなければならないのか」
「格闘技の選手になるのではなかったのか」
と不服だったが渡墨。
まず標高1589m、メキシコ第2の都市、グアダラハラのリングに上がり、5ヵ月後、首都、メキシコシティへ。
標高2250mのラテンアメリカ最大の都市は3000m級の山々に囲まれた盆地で、佐山聡は、ここで先輩の木村健悟と共同生活。
木村は
「なんで飛んだりしなきゃいけないんだ」
と新日本プロレスのストロングスタイルを貫き、入場時、小便入りのコンドームをぶつかられながら、ルード(ヒール、悪玉)として高い評価を受け、NWAライトヘビー級チャンピオンにもなった。
一方、佐山聡は、テクニコ(善玉)として跳んだり跳ねたりの正統派のメキシカンプロレスを行い、トペ(場外ダイブ)を放った。
また飛び上がってからの後ろ回し蹴り「ローリングソバット」
相手に体をかけ上げって蹴り、後転して着地する「サマーソルトキック」
など日本では使えなかった技も試し、メキシコのプロレスファンを魅了。
専門誌、ルチャ・リブレで、レスラー・オブ・イヤーとテクニシャン・オブ・イヤーに選ばれた。
佐山はメキシコでも格闘技の練習をするため、サンドバッグを買って、部屋に吊り、1人で2つをダメにするほど蹴り続けたが、関節技の練習はほとんどできなかった。
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1978年7月、藤原喜明とスパーリングやり始めて1年くらい経った前田日明は、坂口征二に
「スパーリングやろう」
といわれ、
「元柔道日本一はすごいんやろうな」
と思ったが、やってみると意外に極められなかった。
しかし他のレスラーもみている中、気を遣ってわざと関節を取らせ、坂口が腕ひしぎ十字固めを極めてスパーリングは終わった。
それをみていた藤原は前田を呼んで、
「俺はそんなことをするためにお前にスパーリングを教えてるんじゃない」
と涙を流しながらいい、それをみて前田は
「こんなにオレのことを思ってくれている」
と感動した。
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1980年1月、長年、アントニオ猪木の付き人を務め、30歳を過ぎた藤原喜明は、
「褒美をやろう。
なんでもいってみろ」
といわれ
「フロリダに行かせてください」
といった。
許可されるとゴッチの家の近くにアパートを借り、ゴッチからマンツーマンで指導を受けた。
そして3ヵ月経った頃、佐山聡がアパートに転がり込んできた。
日本以上にショーアップされ格闘技のニオイがまったくしないたメキシコのプロレス。
標高2240mと空気が薄い上、食事も合わず、治安が悪いため気軽に出歩けない。
約1年間のメキシコシティ滞在で体調不良と欲求不満を重ねた佐山聡の体は10kg減。
親友のジムで指導するためメキシコを訪れたカール・ゴッチは別人のようにやせてしまった佐山をアメリカにつれて帰ったのである。
以後、3人のトレーニング生活が始まった。

9時、起床
10時、ゴッチが2、30分かけて車で迎えに来る
11時、トレーニング開始

家の前に2.5kmほどの真っすぐな道があって、電柱が建っていて、あの電柱まではアヒル歩き、次の電信柱までは佐山が藤原をオンブして歩き、その次の電信柱までは藤原が佐山に足を持ってもらい腕立て歩きなど、いろいろなメニューで往復5kmを90分かけて進み、
「もうすぐ終わりだ」
と思っていると
「引き返せ」
といわれることもあった。
そしてトランプを使ってトレーニング。
2人、交互にトランプをめくり、ハートなら腕立て伏せ、スペードはスクワット、クローバーは腹筋。
ハートの9が出たら腕立て伏せ9回となるが、スクワットだけは出た数字の2倍の回数を行う。
その他、庭に木に吊るしたロープを登るなど自重を使ってさまざまな角度から筋肉に負荷をかけた。

14時、食事と水で割った赤ワインを飲む。
休憩後、町の柔道場に移動し、ブリッジなどの基本動作、関節技の練習、スパーリング
17時、合計5、6時間のトレーニングと練習が終了
18時、スーパーで買った安いステーキ肉と赤ワインで夕食
21時、ゴッチに車でアパートまで送ってもらった2人は、ゴッチから教わったことをノートに、藤原はイラスト入りで、佐山は文章で記録した。
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