佐山聡が虎のマスクをかぶるまで
2022年6月20日 更新

佐山聡が虎のマスクをかぶるまで

佐山聡は、山口県に生まれ、子供の頃からアントニオ猪木を崇拝し「プロレスこそ真の格闘技」「プロレスこそ最強の格闘技」と信じ、プロレスラーになることを決めた。

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1974年10月、レストラン泉で働き始めて2ヵ月後、佐山聡は
「坊や、おいで」
と新間寿に電話で南青山の新日本プロレスの事務所に呼ばれた。
新間は、佐山の顔、立ち姿勢、対応、礼儀、言葉遣いが気に入った。
「今夜、後楽園ホールで試合があるけどいくか?」
「いきたいです。
どういう風にいったらいいんですか?」
佐山聡は事務員に連れられて後楽園ホールへ。
ちょうど試合前の練習が始まろうとしていて、佐山はそこに加わって、スクワット500回、ブリッジ3分をやった。
スクワットは最初は300回のはずだったが、佐山がこなしてしまったので急遽500回に増えて、周囲がムッとするのを感じた。
「スクワットを500回。
もう根性ですよ。
絶対にプロレスラーになりたいという気持ち。
それでブリッジも3分間やったんです」
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最後はリングでスパーリング。
相手は藤原喜明だった。
「俺たちがスパーリングしてたら小鉄さんが連れてきて一緒にやったんだよ。
あんときアイツは17歳だっけな。
ちっちぇのに高校のアマレスチャンピオンだったとかいってたけどグチャグチャにしてやったよ。
でも歯応えはあったよ。
結構やるなと。
ただちっちゃいから苦労するなと思った。
ああ、思っただけでなくいったかもしれないな」
コテンパンにやられた佐山聡は悔しくて、その後、試合を観たはずだが覚えているのは藤波辰巳の肉体美と誰かに
「体重を増やしてこい」
といわれたことだけ。
そしてレストランで働きながらバンバン食べた。
台東区の日本ボディビル協会にも通い、ひたすら食ってひたすらトレーニングという日々を送った。
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同年、極真空手の第6回全日本大会に、アントニオ猪木をはじめ数人のレスラーが参加申し込み。
「ある雑誌(少年マガジン)で広告をみまして・・・
新しいルールによる真剣勝負と謳ってあり、ボクシングでもキックでもプロレスでも、誰でも参加できるということを読んだものですから、カッと血が熱くなりまして・・・
でも考えてみるとスケジュールの調整がどうしてもつかないんで残念ながら諦めました」
(アントニオ猪木)
そして新日本プロレスはブラジル興行へ。
「誰の挑戦でも受ける」
というアントニオ猪木の言葉を聞いて、ボクシングと柔術をバックボーンに持つバーリ・トゥード(なんでもあり)最強の戦士、イワン・ゴメスが、ブラジル北東部から南部のサンパウロまで、すさまじい距離を運転してやってきて
「挑戦したい」
といった。
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イワン・ゴメスは172cmと小柄ながら全身筋肉。
23歳のときにグレイシー柔術の始祖、カーロス・グレイシーの長男、カーウソン・グレイシーと対戦し、引き分け。
以後、バーリ・トゥード12年無敗だった。
「このヤロウ。
ずいぶんなめたことをいってくれるじゃねえか」
猪木は思ったが、このハイリスク、ローリターンな戦いを受けるはずがなく、逆に新間寿は
「月給1500ドル(約45万円)+試合給」
という条件でイワン・ゴメスをスカウト。
新日本プロレスの練習をみてセメントレスリングに興味を覚えたゴメスは、それに応じ、来日。
基本的にチョークスリーパーとヒールホールドしか使えない、強いが地味なゴメスは、ずっと前座で、アントニオ猪木と戦うことはなかった。
しかしレスリングのトレーニングをしつつ、新日本プロレスのレスラーに自身の技術を教えた。
藤原喜明は、イワン・ゴメスからヒールホールドを学んだ。
後にサンボの麻生秀孝から膝十字固めを学ぶなど、足関節においてはカール・ゴッチをしのぐといわれ
「関節技の鬼」
と恐れられる藤原喜明だが、特にそのわき固めは必殺の切れ味で
「フジワラ・アームバー」
と呼ばれた。
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1975年6月、新間寿は
「道場に来い」
と佐山聡を呼んだ。
道場に現れた佐山聡をみて、アントニオ猪木は新間寿を呼び出した。
「お前が入れたのか?」
「はい、入れました」
「ちっこいのばっかり入れるなよ」
190cmの猪木は、吐き捨てるようにいった。
佐山聡より2歳上の小林邦昭も
「第1印象はどこの坊ちゃんが来たんだろうという感じ。
かわいい顔してるでしょ。
とにかく練習は厳しいから大丈夫かなと思った」
という。
ちなみに小林邦昭は藤原喜明より歳下だが入門は1年早く先輩だった。
1975年7月、こうして佐山聡は、藤原喜明から3年遅れで、新日本プロレスに正式に入門。
新日本プロレスでは藤原喜明以降、すべての新弟子が辞めていた。
理由は地獄の練習。
「洗濯にいってきます」
といって帰ってこなかった新弟子もいた。
しかし佐山聡は逃げなかった。
10時から練習が始まり、準備運動で、スクワット500回、あるいは1000回。
トタンづくりの道場は夏は45℃を超え、そんな中で3、4時間練習し、14~15時で終わると、その後に食事。
チャンコ番が1週間に1度回ってきて、そのときは早めに練習を終える。
練習後、外出は自由。
しかし月給5万円では、毎日、遊びに出ることはできなかった。
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これまでやってきた柔道やレスリングは、いかに投げるかだったが、新日本プロレスの道場で行われるスパーリングは、いかに極めるかというサブミッションレスリング。
佐山聡は、一瞬で極まり、1度極まれば逃げることができない関節技にのめりこんでいった。
トレーニングも徹底的に行い、小柄な体でベンチプレス160kgを挙げ、腕相撲は坂口せいじについで新日本プロレスで2位になるほどのパワーをつける。
常にノートを持ち歩き、トレーニングや練習を記録し、思いついたことを書きとめ、熱心に研究。
また新弟子の仕事にはいろいろな雑用もあり、それも忘れないようにノートにメモし、マジメで気の利く後輩となった。
あるときの巡業後、山本小鉄は帰りのタクシーに会社の金、800万円を置き忘れ、付き人をしていた佐山聡に、
「責任を取って坊主になろう」
といい、2人で剃り合った。
翌日、2人で歩いていて親子に間違えられ、佐山聡はショックを受けた。
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その山本小鉄に
「世話してやれ」
といわれ、佐山聡は、すでに会社から冷遇され、道場でも村八分状態になっていたイワン・ゴメスの付き人となって、公私共に帯同した。
ポルトガル語しか理解できないゴメスと片言の英語とジェスチャーでコミュニケーション。
バーリ・トゥードのリングで選手が血まみれになって戦う写真をみせられた。
ゴメスはマウントポジション(馬乗り)でのコントロールやポジショニングの重要性を必死に説明。
それはカール・ゴッチにはなかった教えだった。
1976年2月、イワン・ゴメスがブラジルへ帰国するとき、空港まで見送りに行った佐山聡は別れが悲しくて泣いた。
そしてこの後、藤原喜明と共にアントニオ猪木の付き人となった。
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佐山聡はカール・ゴッチから指導を受け、技術、体力、精神 どれをとってもセメントでは史上最強のレスラーだと思った。
「ゴッチさんは、レスリングと極め技の達人といわれているが、実はボクシングも大好きで、最も凄いのはケンカだった。
蹴りは嫌いだったがパンチは得意で、打撃と実戦と精神面の話は何度も聞かされた。
私はいうまでもなく藤原(喜明)さんも実はパンチとキックの心得がある。
私達は基礎である極め技と、実戦とは何かを魂に叩き込まれていたのだ。
それだけではない。
最も重要なのはゴッチさんに人生を教えられたことだ。
服装、食事、態度から人生とはこうあるべきということまでを教えられた。
レスラーならこうあるべきという所をサムライならこうあるべきだと教えられたといえばよくわかるだろう。
ゴッチさんは宮本武蔵が好きだった。
不良や世の中の間違った行為も許さなかったし、実際に注意されたり投げ飛ばされた者は何人もいる」
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1ヵ月後の1976年3月、入門8ヵ月の佐山聡はプロレスの秘密を知ってしまった。
新潟県長岡市で興行が終わった後、ホテルで藤原喜明とあるレスラーと口喧嘩をはじめ、同じ部屋にいた佐山は
「そんなこといっても藤原先輩はあの先輩に勝てないじゃないですか」
といった。
「お前はプロレスのことを何も知らない。
試合で俺は負けてやったんだ。
俺にボディスラムをかけてみろ」
いわれてかけてみるとプロレスラーとしては小さい藤原がビクとも動かない。
「もう1度やってみろ」
といわれやってみると今度はかんたんに持ち上がった。
「プロレスは真剣勝負の世界なんかじゃない。
お互いが協力するショーだ」
プロレスは真の格闘技で真剣勝負をしていると信じていた佐山聡は、天地がひっくり返るような衝撃を受け、同時にプロレスラーに抱いていた畏怖の念も消し飛んだ。
ただしカール・ゴッチやアントニオ猪木、藤原喜明、イワン・ゴメスなど一部の人間は別。
彼らの強さが本物であることは体で理解していた。
佐山はプロレスのフェイクファイトを先輩たちへの尊敬で相殺しつつ、デビューに向けてトレーニングを続けた。
そしていつしか寮の部屋に自分の理想を書いた紙を貼った。
「真の格闘技は打撃に始まり、組み合い、投げ、極める」
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佐山聡は他の格闘技を習おうと
「キックでは1番強い」
と思っていた藤原敏男が所属する目白ジムの住所を自分で調べて訪ねた。
ジムの中には六角棒や木刀がゴロゴロと置いてあって、まだ10代の佐山聡は怖かったが入門したいと伝えた。
そして申込書に住所と名前を書いて、住職業欄は空欄にしてプロレスラーであることを隠し、志望動機を
「健康のため」
として提出。
藤原敏男ら内弟子は、朝9時から練習したが、通常のジム生は夕方か夜にジム入り。
佐山聡は新日本プロレスの練習が14~15時に終わった後、世田谷区野毛から巣鴨の目白ジムまで電車とバスで通い、練習を始めたのでプロと一緒にトレーニングすることも多かった。。
会長の黒崎建時は、極真空手の創設メンバーで、自身、タイでムエタイの試合を経験した経験を持ち、気が狂うほどの苦しみを伴う稽古を課すため「鬼の黒崎」と呼ばれていた。
例えばサンドバッグを
「全力で蹴り続けろ」
といい、竹刀をもってその後ろに立つ。
選手は1発1発、100%全力で入れようとするが、途中、苦しくなって80%、90%になると竹刀が飛んだ。
時間は、3分とか4分ではなく黒崎が
「ヤメ」
いうまでで、途中、トイレも許されず、サンドバッグを蹴りながら垂れ流すこともあった。
「お前の肉体は神様からの借りものだと思え。
鉛筆や消しゴムも自分のものだと大事にするが、人のものだと粗末にするだろ。
それと同じだ」
という黒崎建時は、麻酔無しの鼻手術、線香を1束、腕に当てて燃やし切るなどオリジナルな修行も考案。
その目的は
「必死の力、必死の心」
を引き出すことだった。
「人間は極限に追い込まれたとき、 無意識の内に秘めた、想像を超える力を出す。
ギリギリ自分の限界に立たされたとき、逆境を乗り切る根性と力を出す」
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