【斎藤隆】日米の野球ファンを魅了した「オールドルーキー」
2016年11月25日 更新

【斎藤隆】日米の野球ファンを魅了した「オールドルーキー」

斎藤隆選手が大リーグに挑戦する事が発表された時「ベテラン投手の思い出作り」などという声も聞かれた。だが、そんな声はすぐに称賛に変わる事になる。「200勝」より困難と言われる「100勝・100セーブ」(日米通算)を達成した斎藤隆選手の球歴を改めて振り返る。

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投手じゃなかった!?

宮城県の名門、東北高校に進学した斎藤選手。3年時には第69回全国高校野球選手権大会に出場していますが、この時は1塁手でした。

1987年全国高校野球・開会式

斎藤隆選手は、東北高校の先頭を歩く三人の一番カメラ側にいます。
(東北高校の登場は4:00ごろから)
高校卒業後、東北福祉大学に進んだ後も野手としてプレーしていたのですが、大学2年時の練習中に遊びで投手の練習をしていたのを当時の監督が注目し、それがきっかけでそのまま本格的に投手に転向。1990年に行われた第20回日米野球選手権大会の大学選抜メンバーに選出される程の投手になったのです。この「遊び」に気づかなければ、メジャーリーガー、斎藤隆選手の誕生はなかったかもしれません。

プロ入り~新人時代

横浜大洋ホエールズにドラフト1位で入団した斎藤隆選手は、未勝利ながらも1年目から1軍入りしプロ初登板を果たしています(0勝2敗)。2年目は先発ローテーションに定着。負け越してはいたものの、新人王候補の選手の中では最多の勝ち星し8勝(10敗)を挙げ、規定投球回もクリアしていたのですが、7勝2敗の伊藤智仁選手に敗れ、惜しくも新人王のタイトルを逃しました。
プロ入り時の斉藤隆投手

プロ入り時の斉藤隆投手

その後も先発ローテーションを担う若手投手として活躍していった斎藤投手ですが、勝負所で痛打を浴びたり、好投しても打線の援護が得られなかったりという事が重なって、中々2桁勝利を挙げる事が出来ずにいました。1996年シーズンには最多奪三振王のタイトルを獲得(206奪三振)。初の2桁勝利を挙げます(10勝10敗)

手術からの復活

1997年、春季キャンプ中に右ひじに遊離軟骨が発見され、除去手術を行います。この年のシーズン終盤二軍で登板復帰はしたものの、チームが優勝争いをするほど投手陣が充実していた事もあり、1軍登板できずにシーズンを終えました。1998年、4月5日に中継ぎ投手として復帰登板し、4月29日には583日ぶりの勝利を挙げます。

1998年 横浜ベイスターズ 斎藤隆553日振りの復帰登板

シーズン中盤以降、先発に復帰を果たした斎藤選手。結局、この年13勝5敗1セーブの好成績を挙げて、チームの38年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献します。日本シリーズの第二戦に登板した斎藤選手は完封勝利を挙げ、優秀選手に選ばれました。

1998年日本シリーズ 横浜vs西武第2戦

この活躍により、斎藤選手はセ・リーグのカムバック賞を受賞。翌年も14勝3敗の好成績をあげます。

リリーフに転向~先発に再転向

1999年オフに、チーム不動のリリーフエース佐々木主浩がフリーエージェントでMLBのシアトル・マリナーズに移籍して以降、横浜にはチームに抑え投手が不在となります。そういったチーム事情から斎藤隆選手は2001年シーズンからリリーフに転向。7勝1敗27セーブ、防御率1.67と活躍。翌年も1勝2敗20セーブと好成績を挙げたのです。
マリナーズと入団会見をする佐々木選手

マリナーズと入団会見をする佐々木選手

2003年シーズンに新しく就任した山下大輔監督の意向により、斎藤選手は先発に再転向。17試合に登板。6勝7敗。その翌年は2勝5敗。3勝4敗と3シーズン続けて不本意な成績が続きました。

メジャーリーグ挑戦

斎藤投手は抑え投手として活躍していた2002年シーズンオフにも、メジャーリーグへの移籍を模索していたのですが、結局この時は横浜と3年総額7億3,000万円とも言われる高額の契約を結んで横浜に残留。その後の3シーズンが上記の様に不本意なシーズンだった事もあり、斎藤隆選手が再びメジャーリーグ挑戦を表明しても、活躍すると予想した人は少なく、実際ロサンゼルスドジャースとマイナー契約するまでにも長い時間がかかりました。スプリングトレーニングにも招待選手として参加。そこでも結果を残せなかった斎藤隆選手はシーズン開幕を3Aで迎えました。
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