『奥様は魔女』の”サマンサ”は私が考える《妻の理想形》だった!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
キャロル・ベーカー
また『偉大な生涯の物語』などの名作&大作に次々と出演し、ハリウッドでの地位を得た彼女ではあったが、活動の場をイタリアに移し『デボラの甘い肉体』などのセクシー系にも出演し始め、
その後もヒットを飛ばしイタリア ジャーロ作品には欠かせぬ女優となった。
レイモンド・ラヴロックが新婚なのにアッチが役立たずな旦那を演じたイタエロ・コメディー『ああ新婚』でも、新妻の母役でラヴロックを元気にしちゃう役で出演した。
ハリウッドからイタリアへ、『ジャイアンツ』から『ああ新婚』へ、かなり凄い転身だ。考えてみれば・・・。
デビー・レイノルズ
ワーナー・ブラザースの映画2本で端役を演じた後、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約。1950年にフレッド・アステアの映画に出演。その2年後、ジーン・ケリーのミュージカル『雨に唄えば』に抜擢され、一躍スターとなった。1957年、『タミーと独身者』の中で歌った主題歌「タミー」が全米5週連続1位の大ヒットとなり、アカデミー音楽賞にノミネートされる。
その後も『年頃ですモノ!』『恋に税金はかからない』『ママは二挺拳銃』などのヒット映画に多く出演し、タイタニック号の生存者で実在のモリー・ブラウンを演じた1964年の『不沈のモリー・ブラウン』ではアカデミー主演女優賞にノミネートされた。
また1960年代マネー・メーキング・スターの5位に2度選出されるなど、人気女優の一人として長い期間活躍した。
ちなみに去年、スターウォーズ4~6にレイア姫役で出演した故キャリー・フィッシャーがデビー・レイノルズの娘だったのですが、キャリーが死去した翌日にデビーも死去したそうで、運命の悪戯を感じざるをえないですね!!。
ジェームズ・スチュアート
彼は、アイビーリーグの名門プリンストン大学で建築学と都市工学を学ぶが、大学を卒業しても不況のために仕事に就く事が出来ず、大学時代の友人で後に映画監督になるジョシュア・ローガンと知り合い、彼が所属する学生演劇集団「ユニバーシティ・プレイハウス・グループ」に参加して俳優を志す。この劇団にはヘンリー・フォンダやマーガレット・サラヴァンも参加しており、スチュワートはローガンとフォンダらと共にニューヨークに移って共同生活をしながら、ブロードウェイでの成功を夢見て『Carry Nation』などの舞台に立つが、不況のためにほとんど仕事がなく、一時は舞台を諦めて父親が経営する金物屋を手伝おうと考えていた。35年舞台で共演した女優でコラムニストのヘッダ・ホッパーの推薦でM-G-Mのスクリーン・テストを受けて『舗道の殺人』で映画デビューを飾る。翌年『結婚設計図』でサラヴァンの相手役を務め、同年の『超スピード時代』で早くも主役の座につく。38年コロンビア社に貸し出されて『我が家の楽園』に出演、フランク・キャプラ監督に気に入られて、続く『スミス都へ行く』(39)にも続投して純真な青年政治家を好演、映画は大ヒットを記録してアカデミー主演男優賞に初ノミネートされ、スチュワートのトレードマークとなる正義感溢れる好青年のイメージを確立する。翌年、ブロードウェイのヒット劇を映画化した『フィラデルフィア物語』(40)では、共演のキャサリン・ヘプバーンとケーリー・グラントを相手に素晴らしい演技を披露してアカデミー主演男優賞を獲得する。第二次世界大戦が勃発すると空軍に入隊、エース・パイロットとして活躍して、ハリウッドの俳優としては最高位の大佐にまで昇進する。 ハリウッドに復帰したスチュワートは、強い性格の役を好んで演じるようになり、46年にはキャプラ監督と再び組んだ『素晴らしき哉、人生!』に出演。 初公開時の評価と興行成績は芳しくなかったものの、現在では二人の代表作として高い人気を獲得している。 47年には古巣のブロードウェイに戻って舞台『ハーヴェイ』に出演、舞台は大きな成功を収めてエルウッド役は彼の当り役となる。50年には出演料に加えて、俳優として始めて興行成績に応じた歩合を受け取る契約を結び、『ウィンチェスター銃`73』(50)では兄弟の葛藤に苦悩するガンマン、映画版『ハーヴェィ』(50)では再びエルウッド役をコミカルに好演して幅の広い演技を披露する。48年にはアルフレッド・ヒッチコック監督の『ロープ』に出演、これ以後ヒッチコック映画には欠かせない男優として『裏窓』(54)、『知りすぎていた男』(56)、『めまい』(58)で主役を務める。それ以外にも全編ピエロのメイクをして出演した『地上最大のショウ』(52)、タイトル・ロールをそっくりに演じた伝記映画『グレン・ミラー物語』(54)、マン監督と再び組んだ西部劇『ララミーから来た男』(55) 、再びアカデミー賞にノミネートされた手に汗握る法廷劇『或る殺人』(59)等様々なジャンルの映画に出演して50年代のハリウッドのトップ・マネー・メイキング・スターの一人として活躍する。60年代入ると『馬上の二人』(61)と『リバティ・バランスを射った男』(62)など3本のジョン・フォード監督の西部劇に出演するが、それ以降は『飛べ!フェニックス』(66)やヘンリー・フォンダと共演した『ファイヤークリークの決斗』(68)など興行的に地味な作品が目立つようになる。『テキサス魂』(70)ではフォンダと再共演を果たすが、映画の撮影中に海兵隊としてベトナムに従軍していた長男のロナルドが戦死する。70年代に入ると『陽気なハワード一家』(71~72)と『Hawkins』(72~73)の2本のテレビ・シリーズに出演。映画への出演は減ったものの『ラスト・シューティスト』(76)や『エアポート'77』(77)などでは印象的な演技を披露した。84年には映画界への功績を称えてアカデミー名誉賞が授与され、91年のアニメーション映画『アメリカ物語2』での声の出演を最後に映画界から離れる。
実生活でも、誠実で正義感が強く家族を思いやる映画の役柄そのままの好人物として知られ、「アメリカの良心」とまで呼ばれたスチュワートが演じた数々のキャラクターたちは良きアメリカ人の象徴として、今でも多くの映画ファンに愛されて続けている。
How The West Was Won Restoration Demo
ウォルター・ブレナン
実はこの店は昏睡強盗団のアジトだったのだ。まんまと彼の店に立ち寄ったライナスが色仕掛けと酒で騙され、穴の中に突き落とされ、積荷を奪われてしまう。負傷した体で穴から脱出し、プレスコット一家を襲おうとするホーキンスを、一家と協力して倒すというのが大体のストーリーで、ウォルター・ブレナンは悪役であった。
1927年に31歳で映画デビュー。特に1930年代は、ブレナンの俳優生活の中で最も多くの映画に出た年でもあったが、名も無い役やクレジットにも表示されないような端役が多く、そのような状態が10年ほど続いた。
そんな苦節時代の1932年に後々のブレナンにとっての転機ともいうべき事故に遭遇する。ある西部劇の撮影中、馬に顔面を蹴られるという事故に遭い、歯のほとんどを失ってしまう。しかし、その歯の無い独特の喋り方や顔立ちがコミカルに感じられ、これがブレイクへのきっかけにもなっている。
多くの作品で端役を演じているが、時には名バイプレイヤーとしても活躍。役柄は、好人物から悪役まで非常に幅広い。1936年の『大自然の凱歌』で初のアカデミー助演男優賞を受賞。その後は貴重な脇役として生涯に230本に及ぶ作品に出演した。また、Kentucky、『西部の男』で同じ助演男優賞を2度も受賞するなどの国際的なスターになった。なお、アカデミー助演男優賞を3回受賞した俳優は現在ブレナンしかいない。1974年、肺気腫のため死去。80歳没。
小ストーリー第2話 The Plains( 平原、1850年代 )
第2話は この映画の中で、下記の画像のような、いわゆる西部劇らしいシーンがあります。
グレゴリー・ペック
彼は6歳の時に両親が離婚し、薬剤師だった父と祖母に育てられた。カリフォルニア大学バークリー校で医者を目指して医学部で学んでおり、在学中はボート部で活躍したが、脊髄を痛めて選手を引退。代わって演劇に興味を持ち始め、卒業後俳優を志しニューヨークで舞台に立つようになった。その姿を見初められ、43年の「栄光の日々」でフォックスの大型新人として映画デビューを果たした。大学時代のボート部で脊髄を負傷し兵役免除となったことから、当時人材難だったハリウッドで「背が高く、高貴で美男な」ニュースターとして各社から注目を集め、5年間で12本の映画に主演するという超売れっ子になった。
「子鹿物語」の優しい父、「頭上の敵機」のパイロット、「紳士協定」の偏見に相対するジャーナリストなど、彼の好演も光るが、それらのほとんどの映画が高水準だったことも注目に値する。「頭上の敵機」ではニューヨーク批評家協会の主演男優賞を獲得する。45年から49年にかけて、「王国の鍵」「子鹿物語」「紳士協定」「頭上の敵機」と4度もアカデミー賞主演男優賞にノミネートされたが惜しくも受賞はならなかった。破竹の勢いの活躍は50年代に入っても続く。海洋アクション「艦長ホレーショ」「世界を彼の腕に」でアクションを披露したかと思えば、ヘミングウェイの名作「キリマンジャロの雪」での作家役、そして「ローマの休日」の新聞記者役。誰もが認めるハリウッドトップスターだった。その後自らのプロダクションを立ち上げ「大いなる西部」「白鯨」を撮る。映画の質は評価されたのだが、興行的にはあまりパッとしなかった。しかし、すぐに「ナバロンの要塞」でまたまた大ヒットを記録。続いて62年の「アラバマ物語」ではアカデミー主演男優賞を獲得した。清潔でリベラルな人間性あふれる弁護士役はまさしくペック自身を投影したかのような役で評価が高い。その後も「マッケンナの黄金」「アラベスク」「宇宙からの脱出」「オーメン」「マッカーサー」「ブラジルから来た少年」など、代表作は数知れない。
その温厚な人柄からハリウッドスターの中でも大変に人望が高く、第17回アカデミー協会長、ハリウッド俳優組合の会長を務め、俳優救済基金を設立した。
2003年6月12日、長年連れ添った妻ヴェロニクに看取られてこの世を去った。享年87歳。
ルックス、スター性、さらに人望にも恵まれたハリウッド黄金期を飾った紛れもない大スターの1人だった。
Debbie Reynolds-a home in the meadow-how the west was won
小ストーリー第3話 The Civil War( 南北戦争、1861年-1865年)
シャーマン将軍(ジョン・ウェイン)とグラント将軍(ハリー・モーガン)
ジョン・ウェイン
彼の本名はMarion Michael Morrison。高校時代にいつも連れていた犬の名前から“デューク”のニックネームが付く。南カリフォルニア大学に入学後、フォックス撮影所でアルバイトをしている時にジョン・フォード監督と知り合う。30年、「ビッグ・トレイル」の主役に抜擢され、芸名をデューク・モリソンからジョン・ウェインに改名。39年、フォード監督の「駅馬車」に出演して人気を確立。以降、西部劇の人気スターとして活躍する傍ら、「拳銃の町」など製作者としても活動。マネー・メイキング・スターの常連として名を連ねるようになる。60年代に入ってからはガンに侵された体と戦いながらも出演を続け、69年「勇気ある追跡」にて念願のアカデミー主演男優賞を受賞。その後も活躍を重ね、76年の「ラスト・シューティスト」で自らを封印して事実上の引退。結婚は3回。長男のマイケルは映画プロデューサーとして父の作品にも関わり、パトリック、ジョン・イーサンの二人は俳優になった。度重なる手術後まもなく、周囲の反対をよそにアカデミー作品賞のプレゼンターとして授賞式に参加し、その二ヶ月後の6月11日に永眠した。墓標には“彼は醜く、強く、誇り高い男だった”と刻まれている。
ジョージ・ペパード
彼は17歳で海兵隊に入り、除隊後パーディー大学などに学ぶ。卒業後、フェンシングの教官やタクシーの運転手などさまざまな職に就いたが、やがて俳優を志すようになり、ピッツバーグのプレイハウスを経てアクタース・スタジオで学びながらDJをして生計を立てていた。ブロードウェイを経て57年に映画デビュー。59年の「勝利なき戦い」あたりからはアクション作品でそのタフな個性を発揮。その後61年の「ティファニーで朝食を」でオードリーと共演して一躍スターとなった。以降の作品では人気が伴わずに低迷期を送っていたが、83年スタートのTVシリーズ「特攻野郎Aチーム」でAチームのリーダー、ハンニバル・スミスに扮してお茶の間で再び親しまれた。エリザベス・アシュレイやシェリー・ボーチャーなど5度の結婚歴がある。94年、肺炎で死亡した。
父親はウィスコンシンの長老教会の牧師であった。宇宙飛行士ジョン・グレンを輩出したオハイオのマスキンガム大学に通い、ウィスコンシン大学で大学院の課程をとった。
ニューヨークの演劇学校に入った時には、Rosalind Russellと一緒に学ぶ。高い教育を受けた彼女は、高校でスピーチと演劇を数年間教えていた。彼女が指導したスピーチのチームは、数々のコンテストで優勝したという。
1930年代にラジオドラマの仕事を始め、1938年までオーソン・ウェルズの劇団“マーキュリー・シアター”に参加。後に彼の誘いでハリウッドへ進出し、「市民ケーン」で主人公の母親を演じた。
ハリウッド史上に残る映画に出演し、アカデミー賞に4回ノミネートされたスター級女優だ。
実は彼女を超有名にさせたもう一つのテレビドラマがある。それが「奥さまは魔女」だ。彼女はニューヨークのデパートで偶然にも「奥さまは魔女」の主人公であるリズ・モンゴメリーと会い、「奥さまは魔女」のエンドラ役の打診を受けたそうだ。その時の返答のしかたがまさしくエンドラにぴったりだ、とモンゴメリーは思ったとか・・・。
しかしムーアヘッド自身はそう思わず、出演を決めた後も、この番組が成功するとは思っていたなかったそうである。
彼女が出演した映画"The Conquerer"は1954年にネバダ砂漠で撮影されたが、彼女を含め多くの出演者がガンで亡くなっており、それは撮影した場所が政府が核実験を行った場所と近かった為ではないかと言われているそうな!!。