最近、あるテレビ番組での祭り企画について、やらせ報道がありました。やらせの有無はともかく「祭り」とは、では何なのだろう?と、改めて思ったのでつらつら書かせていただきます。あくまでひとつの意見として。
「祭り」とは
「祭」。ざっくり言えば、ある程度限定された地縁(血縁)・信仰・周期に基づき地域共同体的に行われるものです。「1年間の中で決まった日時に、決まった場所で、地域の皆様たち(あるいは家族)が中心となって行う」ものです。普段の生活の中で行われるものです。
「季節の変わり目」で行われてきた
様が暮らす地域で伝承されているお祭りや京都の祇園祭などの著名なお祭り・・・これらは凡て決まった時期に神さまや精霊(ご先祖様など)に対して行うものです。日本には四季があり、その四季の変わり目に合うように祭りが行われることが多いのですが、暦より「季節の変わり目」で祭が行われていた、ということが本当は大事です。
季節の節目には植物が花を咲かせたり実を作ったり枯れたりします。つまり、農作物にとって次のステップに移るためにパワーが欲しい時期。そして気温などの変わり目なので人間は病気になりがちなので、体力が欲しい時期。
そういう「節目」のタイミングで神さまや精霊が、大地や人間に新たなパワーをもたらし、あるいは体に溜まったケガレ(体に悪いモノ)を祓ってくれるのです。
では、神や精霊ってナニ?というお話にもなるかと思います。
そういう「節目」のタイミングで神さまや精霊が、大地や人間に新たなパワーをもたらし、あるいは体に溜まったケガレ(体に悪いモノ)を祓ってくれるのです。
では、神や精霊ってナニ?というお話にもなるかと思います。
「八百万(やおよろず)の神々」
日本では「八百万(やおよろず)の神々」といいますが、八百万とは「猛烈に沢山」という意味ですので、具体数ではありません。名のある神も名無しの神も色々ひっくるめて「八百万の神々」です。
地域それぞれを護る土地神や氏神や山の神、田の神、祖霊神、タタリ神・・・色々存在します。古事記や日本書紀にまとめられた神さま=名前がある神さま達も存在します。ぜ~んぶ、皆、八百万の一部です。
各地域に存在するご当地の神さまは地域のお祭りにヒョッコリ現れてきます。
地域それぞれを護る土地神や氏神や山の神、田の神、祖霊神、タタリ神・・・色々存在します。古事記や日本書紀にまとめられた神さま=名前がある神さま達も存在します。ぜ~んぶ、皆、八百万の一部です。
各地域に存在するご当地の神さまは地域のお祭りにヒョッコリ現れてきます。
秋田県に「ナマハゲ」という神さまがいます。似たような荒々しい風貌の神さま、実は全国各地で年の変わり目などに現れます。石川県の「アマメハギ」や鹿児島県の「トシドン」など、みんな人ではない「異形」の姿で祭りのときだけ来訪する神さまです。そして大抵が怖いお面をつけています。
たいていが「鬼(オニ)」の面です。愛知県の「花祭」では「榊鬼」という存在もいたりします。実は、春来る鬼は日本古来の神さまなのです。年の変わり目にパワーをもたらす存在です。勿論、オニ以外の神さまもおります。「(翁面をつけた)翁」や、多分一番ポピュラーかもしれない「獅子」など、それはもう沢山。
とはいえ、オニに限定して話を戻しますと、日本最古の百科辞典とも言われる『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(10C)に「鬼は『隠(オン)』の音が訛ったもの」と書かれています。ものの陰に隠れて形を表すことを欲しない存在なのです。つまり、普段は「見えない」存在が姿を現す時、その表現として「鬼面」を使っているのです。仏教の獅子や金剛などの面デザインと合体した感もありますし、地獄の鬼と合体した感もあるし、結果、デザインは色々なものになっているのですが、ルーツをたどれば「見えない」存在だったのです。
そしてそのような見えないものが見える時、それがお祭り時でもあるのです。
そんな見えない存在がいる世界を古代日本では「常世(とこよ)」と表現しておりました。これまた日本古来の他界観(あの世)がありまして、これが常世。地獄でも極楽でもない「あの世=常世」です。山の向こう、海のかなたにあるとされています。これはまたいつか書かせていただけたらと思います。
たいていが「鬼(オニ)」の面です。愛知県の「花祭」では「榊鬼」という存在もいたりします。実は、春来る鬼は日本古来の神さまなのです。年の変わり目にパワーをもたらす存在です。勿論、オニ以外の神さまもおります。「(翁面をつけた)翁」や、多分一番ポピュラーかもしれない「獅子」など、それはもう沢山。
とはいえ、オニに限定して話を戻しますと、日本最古の百科辞典とも言われる『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(10C)に「鬼は『隠(オン)』の音が訛ったもの」と書かれています。ものの陰に隠れて形を表すことを欲しない存在なのです。つまり、普段は「見えない」存在が姿を現す時、その表現として「鬼面」を使っているのです。仏教の獅子や金剛などの面デザインと合体した感もありますし、地獄の鬼と合体した感もあるし、結果、デザインは色々なものになっているのですが、ルーツをたどれば「見えない」存在だったのです。
そしてそのような見えないものが見える時、それがお祭り時でもあるのです。
そんな見えない存在がいる世界を古代日本では「常世(とこよ)」と表現しておりました。これまた日本古来の他界観(あの世)がありまして、これが常世。地獄でも極楽でもない「あの世=常世」です。山の向こう、海のかなたにあるとされています。これはまたいつか書かせていただけたらと思います。
お祭りより「無形文化財」という言葉が定着しているかも
最後に。
最近ではお祭りという言葉よりは「無形文化財」という言葉の方が定着しているかもしれません。日本文化(の歴史)を代表するモノに対して行政が「これは代表的なモノ」と判断、認定したモノたちを「文化財」とも表現しておりまして、文化財には「有形」と「無形」があります。有形は文字通り「形あるもの」。手で触れることができるもの…例えば仏像など神輿などです。一方の「無形」は手に持つことが出来ないものを指します。例えば芸能や技術です。このコラムでは無形文化財の中の、さらに無形の民俗文化財を中心的に取り上げるようにしております。民俗・・・つまり、普段の生活の文化についてです。普段の生活の中で行われ地域で育まれてきた無形の心…それがお祭りを支えてきたのだと、私は思います。
お祭りには目的と理由と、なにより心がある。それらが無い行事はお祭りではないと思うので、これからも、このコラムでは、そういうお祭りのコネタを取り上げていきたいなと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
最近ではお祭りという言葉よりは「無形文化財」という言葉の方が定着しているかもしれません。日本文化(の歴史)を代表するモノに対して行政が「これは代表的なモノ」と判断、認定したモノたちを「文化財」とも表現しておりまして、文化財には「有形」と「無形」があります。有形は文字通り「形あるもの」。手で触れることができるもの…例えば仏像など神輿などです。一方の「無形」は手に持つことが出来ないものを指します。例えば芸能や技術です。このコラムでは無形文化財の中の、さらに無形の民俗文化財を中心的に取り上げるようにしております。民俗・・・つまり、普段の生活の文化についてです。普段の生活の中で行われ地域で育まれてきた無形の心…それがお祭りを支えてきたのだと、私は思います。
お祭りには目的と理由と、なにより心がある。それらが無い行事はお祭りではないと思うので、これからも、このコラムでは、そういうお祭りのコネタを取り上げていきたいなと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
13 件
住所不貞無色 2018/11/24 15:12
新嘗祭も終わったことですし…良いタイミングの記事だと思いました
まず一案として、祭り(祀り)の定義を折口信夫の「大嘗祭の本義」冒頭から引用してみたら如何でしょう
のちの研究者でも流石にここを批判している者は少ない…私の知る限りでは皆無に近いと思います
青空文庫にありますよ