桜がだんだん咲き始めましたね。空気も暖かくなってきた気がします。
ああ、ようやく春…。
桜といえば、木村屋(銀座 木村屋總本店)の「桜あんぱん」を思い出した自分。
木村屋のパンが、ある芸能の成長と関わりがある事をご存じでしょうか?
今回はそんなコネタです。
ああ、ようやく春…。
桜といえば、木村屋(銀座 木村屋總本店)の「桜あんぱん」を思い出した自分。
木村屋のパンが、ある芸能の成長と関わりがある事をご存じでしょうか?
今回はそんなコネタです。
1874年、あんぱんが誕生
明治時代に入りたてのころ、世間には「パン」という存在は認知されていませんでした。その中、明治2年(1869年)に文英堂、翌3年に銀座に移り屋号を「木村屋」とした木村安兵衛さんと息子の英三郎さん。「どうしたら日本人向きのパンが作れるのか」と考え、パン作りに試行錯誤します。その結果、イースト菌ではなく酒の酵母から酒種発酵種による酒種生地を発明し、そして明治7年(1874年)、西洋のパンに日本の味「あんこ」を融合させた「あんぱん」が誕生しました。
「あんぱん」の誕生です!
「あんぱん」の誕生です!
明治天皇に献上された「桜あんぱん」
さて、その「あんぱん」は明治8年(1875年)に明治天皇に献上されます。この時は、「あんぱん」の上に、梅酢で漬け込んだ後に塩につけこんだ桜の花びらを乗せた「桜あんぱん」を献上。明治天皇と皇后(特に皇后)がお気に召しまして、結果、パンの認知につながっていきます。天皇に初めて献上されたパンは木村屋の「桜あんぱん」…ということになりますね。これは今も販売されていますよ♪
「あんぱん」の名を広めた、木村屋の宣伝手法
その後明治15年(1882年)に新橋~日本橋間の鉄道が開通すると、木村屋の「あんぱん」は銀座名物として評判になります。
とはいえ、「あんぱん」の名が広まった背景には、実は、鉄道というより、木村屋が開発した屋外での宣伝手法がありました。秋田柳吉さんの広目屋(広告会社)から楽隊広告のヒントを得て思いついた手法です。
とはいえ、「あんぱん」の名が広まった背景には、実は、鉄道というより、木村屋が開発した屋外での宣伝手法がありました。秋田柳吉さんの広目屋(広告会社)から楽隊広告のヒントを得て思いついた手法です。
テレビもラジオも無い当時、木村屋はどのような広告を打ったかというと…
今も大道芸やお店の開店のイベント、大学祭などでよく見かける、あのチンドン屋です。
というよりチンドン屋を世間に認知させたのは、「あんぱん」で有名な銀座の木村屋なんです。
というよりチンドン屋を世間に認知させたのは、「あんぱん」で有名な銀座の木村屋なんです。
銀座中に「木村屋あんぱん」コマーシャルソングが響き渡ることに
目立つ衣装をまとい、締太鼓と鉦を組み合わせた「チンドン太鼓」などの演奏を付けた「木村屋のあんぱん」の歌を歌いながら銀座を歩き回るチンドン屋さん。銀座の街中に彼らによる「木村屋あんぱん」コマーシャルソングが響き渡った効果は絶大でした。
ちなみにチンドン屋の語源。鉦の「チン」という音と胴太鼓の「ドン」という音を組み合わせた擬音から成立した説が有力ですが、成立由来ははっきりしていません。由来はともかくとして、チンドン屋は今日では大道芸のいちジャンルとして成長し、昭和30年(1955年)から今日に至るまで「全日本チンドンコンクール」なる大会が富山市で開催されております。
ちなみにチンドン屋の語源。鉦の「チン」という音と胴太鼓の「ドン」という音を組み合わせた擬音から成立した説が有力ですが、成立由来ははっきりしていません。由来はともかくとして、チンドン屋は今日では大道芸のいちジャンルとして成長し、昭和30年(1955年)から今日に至るまで「全日本チンドンコンクール」なる大会が富山市で開催されております。
子供のころにみた景気のいいチンドン屋は立派な広告塔!その語源と歴史について。 - Middle Edge(ミドルエッジ)
子供のころ「ば~か、あ~ほ、チンドン屋~」なんて言葉で使われたチンドン屋、憶えていますか?その言い方自体は現代では許されないのかもしれませんが、私たちの幼いころ「チンドン屋」っていうと派手な衣装と鳴り物で、街中を景気よく練り歩く光景が思い出されますよね。そんなチンドン屋は立派な広告塔、その起源と歴史について振り返ります。
そんな訳で、今や日本のパンの代表格となった「あんぱん」を作った木村屋とチンドン屋は、実は、『コマーシャルソング』の先駆けとしても広告史に名を刻んでいるのです。
今回は、あんぱんと広告と大道芸のコネタでした♪
今回は、あんぱんと広告と大道芸のコネタでした♪
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※銀座木村家のホームページより