プロレスラーまでの道のり
三沢の少年時代
1962年6月18日、北海道夕張市に生まれる。父親は北海道炭礦汽船に勤務していたが、三沢が生まれて間もなく夕張炭鉱が閉山同然の状態となったため、一家は埼玉県越谷市へ転居した。
三沢は子供のころから体が大きく、小学校時代に越谷市が開催した走り幅跳びの大会で優勝するなど、運動神経が良かった。中学校では器械体操部に入部。三沢曰く、器械体操を経験したことがプロレスの飛び技に生きているという。
中学2年の時、テレビで全日本プロレス中継を見て「観るよりやるほうが絶対におもしろい」と直感した三沢はプロレスラーを志すようになる。三沢は中学校を卒業してすぐにプロレスラーになるつもりだったが、担任の教師と母親にアマチュアレスリングの強い高校へ進学して基礎を学んでからの方がよいと説得され、足利工業大学附属高等学校に特待生として進学した。レスリング部に入部した三沢は高校の3年間を学校の寮で過ごし、ハードな練習に明け暮れる日々を送った。休みは大晦日と正月三が日のみであった。三沢は3年の時に国体(フリースタイル87kg級)で優勝するなど活躍したが、本人にとってアマチュアレスリングはプロレスラーになるための手段に過ぎず、競技自体を好きになることはなかった。
なお、高校2年の時、三沢は寮を抜け出して全日本プロレスの事務所を訪れ、入門を志願したことがある。この時はジャンボ鶴田に高校を卒業してから来るよう諭され、断念している。
ジュニアヘビー級からヘビー級へ
当初は2代目タイガーマスクとして華麗な空中殺法などを主体として活躍していた三沢も寝技中心のプロレスやりたいという決意からヘビー級転向することとなる。そして天龍の脱退に合わせてポスト天龍をなのりジャンボ鶴田、スタンハンセンといったビックネームに勝ちその過程でエルボーを習得していくこととなる。
2代目タイガーマスク(三沢光晴)デビュー戦 1/2 - YouTube
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ローリングエルボー - YouTube
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エルボーへのこだわり
ヘビー級のでかい相手ではスープレックスは通じず、投げることができない。スマッシュ系ならば相手にダメージを与えることが出来る。
そう確信を持った三沢はとにかくエルボーを考え、ダイビング式、ランニング式、回転式といったバリュエーションを生み出し相手選手と戦った。
その威力はくらった者たちがこう証言するほどである。
そう確信を持った三沢はとにかくエルボーを考え、ダイビング式、ランニング式、回転式といったバリュエーションを生み出し相手選手と戦った。
その威力はくらった者たちがこう証言するほどである。
秋山準
「エルボーの衝撃の凄さに驚きましたね。見ているのと実際に受けるのでは全然ちがう」
高山
「まあ、三沢さんのエルボーは凄いよ。初めて受けたときは驚いた。痛いっていうレベルじゃない。口から頭蓋骨が出てきそうな感じっていうのかな」
齋藤彰俊
「今もアゴの骨が変形してるんですけど、三沢さんのエルボーをくらいすぎたせいなんですよ。奥歯が縦に割れたこともあったし…本当に凄かったですね、あのエルボーは」
プロレスに生きプロレスに殉じた男 三沢光晴
こうして考えると三沢の一生は戦いの連続であったといえる。全日本プロレスでの確執、ノアの立ち上げ、そしてジュニアヘビー級からヘビー級への転向。これらすべてに打ち勝つ説得力を持つエルボーを生み出した男、三沢光晴。
どんな困難があっても打ち勝てることをその肘1つで証明したと言っても過言では無い。三沢さん本当にお疲れ様でした。心よりご冥福を祈りいたします。
どんな困難があっても打ち勝てることをその肘1つで証明したと言っても過言では無い。三沢さん本当にお疲れ様でした。心よりご冥福を祈りいたします。
三沢光晴 必殺技集 - YouTube
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