【四天王プロレスの極み】「三沢光晴VS小橋建太」闘いを通してお互いの覚悟を確かめ合う、”死して悔いなし”の至高のプロレス!!
2016年11月25日 更新

【四天王プロレスの極み】「三沢光晴VS小橋建太」闘いを通してお互いの覚悟を確かめ合う、”死して悔いなし”の至高のプロレス!!

永遠の黄金カード「三沢VS小橋」。互いのプロレス技術、プロレス努力の結晶を全力でぶつけ合い、そして全力で受け止めあう至高のファイト。観る者をして「危険すぎる」「どこまでやるんだ!?」と思わせるのは当たり前、二人にしか分からない真剣なプロレスラーとしての信頼感。多くを語らない二人が、リング上で誰よりも雄弁に語り合う姿にファンは酔いしれ、勇気と感動を与えてもらいました。そんな思い出の「三沢VS小橋」を振り返ります。

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「三沢光晴」エルボーの貴公子、天才

どんな技も受け止めて立ち上がる男、三沢光晴

どんな技も受け止めて立ち上がる男、三沢光晴

2代目タイガーマスクとしてヘビー級離れした華麗なファイト。
全日本プロレスのピンチに、虎のマスクを脱いで超世代軍結成。
小橋建太、川田利明、田上明とともに四天王プロレスを展開。
全日本プロレス社長を経て、理想のプロレスを求めてプロレスリング・ノアを旗揚げ。
その人望ゆえに大量の選手が道を共にし、経営者として資金繰りなどの困難とも戦いながらノアを支えた。
三沢は「受け身の天才」と評される。三沢自身、「相手の得意技をわざと受けて身体的な強さをアピールする」ことがプロレスの最高の技術であり、それは「受け身への確固たる自信があるからこそ体現できる」ことだと述べている。
三沢は相手の得意技をあえて受けて相手の特徴・長所を十分に引き出し、その上で勝利を目指すことが他の格闘技にはないプロレスの特徴であるとしている。
受け身の天才、三沢。
三沢はしばしば男気があると評される。そのような性格を物語るエピソードの一つに、冬木弘道(サムソン冬木)の引退興行が挙げられる。若手時代、三沢は冬木と仲が良かった。1990年に冬木がSWSへ移籍したことで両者の交流は途絶えたが三沢の全日本プロレス退団・ノア旗揚げをきっかけに再び接点が生まれ、2002年4月7日にシングルマッチで対戦した。
翌8日、冬木は医師から大腸癌であると宣告され、18日に手術を行いプロレスラーを引退することを決意した。当初冬木は9日を引退試合にするつもりであったが、この事実を知った三沢はノアの主催で引退興行を行い、5月5日に予定されていた新団体・WEWの旗揚げ興行にも協力。三沢はその収益の全てを冬木に贈ったとされ、冬木は「俺の人生で、三沢光晴に出会えたことが最高の出来事だった」と述べたという。
三沢の男気。

「小橋建太」鉄人プロレス、剛腕

どんな苦難も己の努力で乗り越える男、小橋建太

どんな苦難も己の努力で乗り越える男、小橋建太

長い下積みを経てプロレスラーとしてデビュー。
不遇を嘆くことなくひたすら肉体を磨き上げ、大型外国人との試合でファンを魅了。
四天王プロレスでトップに上り詰め、プロレスリング・ノアを三沢らと共に旗揚げ。
度重なる怪我や病気による試練も全て努力で克服、いつしか鉄人と呼ばれることになる。
全日本プロレス時代、小橋の試合を解説していた川田利明が発した「あいつを殺すには刃物は要らない。ダンベルを取り上げればいい」は彼の練習好きを端的に表す名言。
また全日若手時代に異常とも思える練習熱心さを中堅選手たちが「バカじゃないのか」と嘲笑したところ、当時既にトップレスラーだった天龍源一郎が「おまえら笑ってるけどな、今にこいつに食わせてもらう日が必ず来るぞ」と言ったことも有名である。
練習の虫、小橋。
観客やマスコミの前で弱みを見せることが殆ど無い。唯一長期離脱に入る直前の2001年1月18日を除いては、テーピングした膝を絶対にマスコミに撮らせなかった。2006年2月11日の「佐々木健介デビュー20周年記念イベント」にて、天龍の椅子攻撃により唇から歯が突き抜け大量の血が流れたが、試合途中に焦って駆けつけ治療しようとするトレーナーの浅子覚を笑顔で制し、触らせなかった。試合後も用具を持ってリング上までやって来た浅子を止め、勝ち名乗りとほぼ全選手による記念撮影まで参加し、最後まで観客の見える所では治療を受けなかった。
決して弱みをみせない小橋。

三沢と小橋、その戦いの系譜

三沢がまだ二代目タイガーマスクだった頃、二人はアジアタッグ戦線でタッグチームを組んでいた。
1990年4月に、カンナム・エクスプレスの持つアジアタッグ王座に挑戦して勝利。
第51代アジアタッグ王者となった。

全日本プロレス タイガーマスク&小橋健太 vs ダイナマイト・キッド&ディビーボーイ・スミス - YouTube

アジアタッグ戦線で共闘していた若かりし頃。

その翌月、1990年5月14日

三沢は自らマスクを脱ぎ(手伝ったのは川田利明)、超世代軍を結成する。
解説席にいたザ・グレート・カブキの「何してん、何してん?」も印象深い、あの試合である。

三沢光晴虎のマスクを脱いで大ブレイクする瞬間 - YouTube

以降、1993年4月までは三沢を盟主とする「超世代軍」の時代

1990年6月8日、三沢はジャンボ鶴田との一騎討ちに返し技で勝利、下の世代で初めて鶴田越えを達成。
ジャンボ鶴田からの勝利を喜ぶ若手レスラー

ジャンボ鶴田からの勝利を喜ぶ若手レスラー

試合内容ではまだ、鶴田の圧倒的強さが否めなかったこの試合。
しかしながら虎のマスクを脱いだ三沢が、覚悟をもって臨んだ一戦。
試合後の歓喜の輪には、三沢を肩車する小橋の姿が。
これを機に、圧倒的に高かった壁「ジャンボ鶴田」に挑みかかる超世代軍。

1991年7月には、三沢と超世代軍No2の川田のタッグによる世界タッグ王座挑戦、ゴディ&ウィリアムスを破り第17代王者に戴冠。
同年9月、三沢&川田組の世界タッグ王座防衛戦においてフェイスロックで三沢が鶴田から初ギブアップ勝ち。
1992年8月には三沢がハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、勝利し第10代王者に。
その直後、鶴田がB型肝炎発症を理由に長期離脱し、名実共に三沢が全日本のエースへ。
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