1984年~1988年・王監督時代の巨人軍は光っていた!
王監督が率いていた、巨人軍はとっても魅力的だった!
まだ、東京ドームができる前の巨人軍について振り返ってみよう!
まだ、東京ドームができる前の巨人軍について振り返ってみよう!
1981年に藤田監督が就任して、助監督を王貞治がつとめました。
その後、1984年から1988年までが、王監督時代の巨人軍となります。
長嶋選手と王選手がいなくなることで、
花が消えたかと思われていた巨人軍ですが、
選手達の明るい個性によって活気を取りもどします。
8年ぶりの日本一を達成したのもこの年の巨人軍。
当時の選手は、とっても元気でパフォーマンスもピカイチでした。
走って、投げて、ファンと一緒に賑やかなプレーを繰り広げます!
そんな懐かしの選手達をご紹介しましょう!
その後、1984年から1988年までが、王監督時代の巨人軍となります。
長嶋選手と王選手がいなくなることで、
花が消えたかと思われていた巨人軍ですが、
選手達の明るい個性によって活気を取りもどします。
8年ぶりの日本一を達成したのもこの年の巨人軍。
当時の選手は、とっても元気でパフォーマンスもピカイチでした。
走って、投げて、ファンと一緒に賑やかなプレーを繰り広げます!
そんな懐かしの選手達をご紹介しましょう!
あの頃の選手たちは、個性的!それぞれのキャッチコピーが面白い!
あの頃、個性的な選手たちには面白いあだ名のような
キャッチコピーがついていました。
選手達の個性や容姿、活躍ぶりから付けられた
いろんなキャッチコピーを、さっそく見てみましょう!
キャッチコピーがついていました。
選手達の個性や容姿、活躍ぶりから付けられた
いろんなキャッチコピーを、さっそく見てみましょう!
【青いイナズマ】松本 匡史選手
【芸術的な広角打法】篠塚 利夫選手
篠塚 利夫選手
1980年に2塁手として出場、原選手や中畑選手と共に守備、
打線と共に活躍する。
特に打線を巧みにコントロールし、
守備につけば芸術的なプレーで球場を沸かした。
1984年には首位打者を獲得しており、
気弱そうな顔からは、
想像できないようにウマい所に打ってくれる
職人技とよべる打者でした。
現在は、解説者として活躍しています。
打線と共に活躍する。
特に打線を巧みにコントロールし、
守備につけば芸術的なプレーで球場を沸かした。
1984年には首位打者を獲得しており、
気弱そうな顔からは、
想像できないようにウマい所に打ってくれる
職人技とよべる打者でした。
現在は、解説者として活躍しています。
via fan.npb.or.jp
【絶好調!】中畑清選手
【永遠の若大将】原辰徳選手
8番・原辰徳選手!
1980年代から1990年代にかけて、
巨人軍の4番として活躍した原辰則選手。
高校時代には、父親が監督している東海大相模高校に入学し、
甲子園の夢をかなえています。
やがて、巨人史上4人目の30号ホームランを打ち、
勝利打点王なども活躍しています。
現在の56歳、巨人軍の監督ですね。
巨人軍の4番として活躍した原辰則選手。
高校時代には、父親が監督している東海大相模高校に入学し、
甲子園の夢をかなえています。
やがて、巨人史上4人目の30号ホームランを打ち、
勝利打点王なども活躍しています。
現在の56歳、巨人軍の監督ですね。
【奇跡の復活】吉村禎章
吉村禎章
1980年代後半に活躍した吉村選手ですが、
試合中の事故で大けがをしてしまいます。
その後、奇跡の復活を遂げた事からその名前がつきました。
吉村選手は、左投げ左打ちの外野手、
打撃のセンスもよく、
3打席連続ホームランの離れ業をやってのけました。
試合中の事故で大けがをしてしまいます。
その後、奇跡の復活を遂げた事からその名前がつきました。
吉村選手は、左投げ左打ちの外野手、
打撃のセンスもよく、
3打席連続ホームランの離れ業をやってのけました。
【満塁男】駒田徳広 選手
駒田 徳広
満塁のときになると、
人一倍の勝負強さを発揮した駒田選手。
誰しも、あの時の満塁ホームランには
熱狂したのではないでしょうか?
その後、満塁男と言われるようになり巨人軍で活躍、
続いて移籍先の横浜でも良い成績をあげています。
人一倍の勝負強さを発揮した駒田選手。
誰しも、あの時の満塁ホームランには
熱狂したのではないでしょうか?
その後、満塁男と言われるようになり巨人軍で活躍、
続いて移籍先の横浜でも良い成績をあげています。
松本選手の手袋が青だったことから、
青いイナズマと呼ばれるようになる。
稲妻のように、走りぬける松本選手。
年間盗塁数のせ・リーグ記録保持者でもある。